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「女工哀史」に反論 『たぐる糸の系譜』出版 岡谷の清水さん(長野日報2006-09-13)

岡谷市長地小萩の清水袈裟春さんは、岡谷の製糸業の実情をまとめた記録集『たぐる糸の系譜』を出版した。製糸工場の元従業員や経営者らから行った聞き取り調査などを基に、製糸業の隆盛の要因を探り、岡谷の女性工員の悲話として語られる「女工哀史」に反論している。

元教員で社会科専攻だった清水さんは、昭和40年(1965)頃に岡谷市神明小学校に赴任した頃から岡谷の製糸の歴史に興味を持ち、以来、勉強を続けているという。同市の生涯学習グループ「ふるさとの製糸を考える会」の初代会長を歴任。4年程前から、記録集の出版に向けて原稿をまとめてきた。

記録集では歴史的背景などを通して、なぜ岡谷で製糸業が発展したかを模索。その中で、発展を支えた女性工員の労働環境や暮らしぶりを検証した。

「岡谷の町は製糸に元気があって、映画館など楽しみがたくさんあった」「みんな楽しんで仕事をしていた」などの証言を紹介。映画にもなった山本茂実著の『あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史』を取り上げ、伝染病予防対策や医療体制などでの記述の誤りを指摘している。

清水さんは「著者は哀史を組み立てるためにいじめる側、いじめられる側を強調して書いた。全ての製糸家が悪人だったわけではない」と分析。「『岡谷は女工をいじめた』と捉えられているのは残念。製糸を通じて明治の国のために大きな貢献をしたことを多くの人に知ってもらい、明るい街だった岡谷の本来の姿を正しく受け止めてほしい」と話している。

A5判、407ページ。200冊作り、知人や調査協力者らに配布した。岡谷図書館をはじめ諏訪地方の各図書館で読むことができる。

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写真家・寿福滋氏がみたナチス迫害の苦難 「杉原千畝と命のビザ」 日本人外交官に救われたユダヤ人6000人(滋賀報知新聞2006-08-14)

寿福滋氏撮影による「強制収容所正面」


県立琵琶湖文化館(大津市)は9月3日まで、「杉原千畝と命のビザ〜シベリアを越えて〜」を開催している。

杉原千畝氏は明治33年(1900)、岐阜県八百津町に生まれた。大正13年(1914)に外務省に勤務して外交官として活躍、第二次世界大戦中にリトアニア国の日本領事館に赴任した。この頃、ヨーロッパではナチス・ドイツが権力を拡大してポーランドヘ侵攻、多くのユダヤ人たちが迫害から逃れるために東を目指した。そのためには日本を通過する必要があり、その許可であるビザを求めてユダヤ人たちが杉原氏のもとに殺到した。昭和15年(1940)7月のこと、彼は自らの危険を顧みず、外務省の命に背き来る日も来る日もただひたすら独断でビザを発給し続けた。残された発給リストによるとその数は2000にのぼる。同氏のこの人道的行為により救われた人々とその子孫は今も生き続けており、わが国でもその遺徳は多くの人に知られるところとなった。

同展では、杉原氏と彼のビザによって救われたユダヤ人たちの脱出する姿を約10年にわたって追い続けた県在住の写真家寿福滋氏の写真を展示し、杉原氏が救った6000人の命がその後どのような困難を乗り越えていったのか、自由を手に入れるまでのその苦難の道のりについて紹介する。入場無料。問い合わせは、同琵琶湖文化館まで。

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翼賛選挙は無効 判決原本発見(NHKニュース2006-08-10)

20060810nhk.jpg

判決は、戦前の最高裁にあたる大審院が昭和17年(1942)に行われた衆議院選挙をめぐり、当時の鹿児島2区の選挙は無効だと判断したもので、判決文の原本が61年ぶりに最高裁判所の倉庫で見つかりました。当時の選挙は、国を挙げて戦争を遂行するためという理由で、事実上国が候補者を推薦する形で行われ「翼賛選挙」と呼ばれました。推薦されなかった候補には投票しないよう呼びかけが行われるなど、様々な妨害が加えられました。この選挙について、大審院吉田久裁判長は昭和20年(1945)3月「自由で公正な選挙ではなく、無効だ」として選挙のやり直しを命じるとともに「翼賛選挙は憲法上大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判し、画期的な判決といわれました。この判決の写しは残っていましたが、原本は大審院が空襲を受けた際に焼失したとされ、判例集にも掲載されなかったことからいわば「幻の判決文」となっていました。東京学芸大学の吉田豊名誉教授は、「戦争一色だった当時、翼賛選挙を否定する判決を出すのは相当な勇気が必要だったと思う。司法の独立を守った判決の原本は、裁判の歴史を考えるうえで貴重な資料だ」と話しています。

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豊川海軍工廠展始まる(東海日日新聞2006-07-23)

メモを取りながら見学する中学生たち

「豊川海軍工廠展と戦時下の雑誌展」は、22日から豊川市の桜ヶ丘ミュージアムで始まった。昭和20年(1945)8月7日の同工廠空襲高校生などの女子挺身隊を含む動員学徒を含む2545人が犠牲になった。

同工廠展は、戦争の悲惨さを忘れないために毎年開催している。今年も同工廠に動員された学徒の記念写真、成績表、爆撃で犠牲になった戦没者の衣類、日用品から同工廠で生産されていた砲弾などが展示されている。

「一億 山本元帥の後につづかん」「撃て!この鬼畜米国!」などの見出しが躍る当時の内閣府発刊写真週報や『週刊少国民』『婦人倶楽部』などの雑誌も多数展示されている。

雑誌は、もんぺ姿で飛行機や砲弾を作る作業風景、爆撃機、戦闘機の雄姿が写真で提供され、国民を戦争に駆り立てている。

会場には、夏休みで宿題のまとめのため訪れる小中学生も目立つ。女子中学生2人は、総合学習の宿題でメモを取っていた。「海軍工廠では、何をしていたのか調べている」と展示品を熱心に見ていた。同展は9月3日まで。

→(参照)「豊川海軍工廠空襲目撃図」(桜ヶ丘ミュージアム収蔵品から)

豊川海軍工廠空襲目撃図

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昭和天皇が海外記者と会見 宮内庁で文書控え見つかる(朝日新聞2006-07-26)

終戦直後の昭和20年(1945)9月25日、昭和天皇が米国のニューヨーク・タイムズ記者とUP通信(現UPI)社長に会い、開戦の経緯や戦後の日本が目指す方向などについて回答した文書の控えが、宮内庁書陵部で見つかった。通告なしにハワイ・真珠湾を攻撃したのは東条英機元首相の判断だったとする説明が事実と確認されたほか、戦争の反省に立って平和国家の建設を目指す意欲などが記されている。

天皇が報道機関の質問に答えたのは初めてで、国際世論に訴えることで天皇に対する戦争責任追及を回避する意図があったとみられる。

文書は、ニューヨーク・タイムズのフランク・クルックホーン太平洋支局長、UP通信のヒュー・べイリー社長がそれぞれ昭和天皇に面会した経緯を記録した式部職作成の『謁見録』(昭和20=1945)の中にあった。事前に提出した質問への回答という形を取っている。

クルックホーン氏への回答文は、これまで明らかになっていた幣原喜重郎元首相が作成した原案から複数の個所で修正されている。米国で重視されていた真珠湾奇襲攻撃について、「宣戦の詔書は、東条大将が使ったように使う意図はあったのでしょうか」という質問に、「東条大将が使ったように使われることは意図していなかった」と回答している。

幣原原案では「戦争の作戦上の詳細は陸海軍の最高指揮官に任される」と名指しを避けていた。

ニューヨーク・タイムズは9月25日付の1面トップの見出しで「裕仁、記者会見で東条(真珠湾)奇襲の責任を転嫁」と報道。同紙記事を転載した同月29日付の『朝日新聞』は「天皇は『宣戦の大詔は東条のごとくにこれを使用することはその意図ではなかった』と語った」と報じた。

当時、内閣情報局は「天皇陛下は伝統として個人に対する非難をしないはずだ」と記事を批判した。タイムズ紙は10月2日付紙面で記事は正確だと反論した。

このため、研究者の間では「記事はクルックホーンの捏造ではないか」「連合国軍総司令部(GHQ)の意向で改変されたのではないか」などと論議を呼んでいた。今回の発見で、記事が回答文通りだと立証された。

日本の将来についての質問には、「平和的な貢献により日本がやがて国際社会で正当な地位を再び占めることを望む」と回答。「銃剣によって、または他の兵器の使用によって恒久平和が確立されるとは思わない」とも述べている。一方で、幣原原案にあった「国家の教育制度の大改革が行われると思う」の部分は削除されていた。

また、同紙の記事にある「英国のような立憲君主国が良いと答え」に当たる記述はなかった。記者に回答が手渡される前に、さらに修正された可能性もある。

ベイリー氏への回答文では、日本の将来についての考えを問われ、「日本はいま、平和への新たな道を歩み始めたわけであるが、国民がその望ましい目標に到達できることを心から希望しており、そのためにあらゆる手段を尽くすつもりだ」と答えている。

今回の回答文は番組製作者の鈴木昭典さんの情報公開請求がきっかけで存在がわかった。26日のテレビ朝日系「報道ステーション」で特集が放映される。

報道ステーション 7月26日(水)
 「スクープ・昭和天皇が戦争放棄を最初に宣言 それは歴史的なマッカーサー会談の2日前…未発表の宮内庁資料を新たに発見」

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「ごんぎつね」の殿様と南吉の交流にスポット 新美南吉記念館で特別展(中日新聞2006-07-15)

新美南吉記念館(半田市岩滑西町)で15日から、特別展「『ごんぎつね』の殿様 中山家と新美南吉」が始まる。

半田出身の新美南吉と深い関係にあり、作品にも影響を与えた中山家。同記念館が南吉と同家の交流にスポットを当てた展覧会を開くのは初めて。

「むかしは、私たちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまが、おられたそうです…」

南吉の代表作『ごん狐(ぎつね)』の一節に登場する「中山さま」は、岩滑城主だった中山氏がモデルであるとされている。

その流れを汲む中山家の六女ちゑは、南吉が思いを寄せていたことで知られる。中山家は南吉の家の近所にあり、ちゑだけでなく、母しゑや妹なつ、弟文夫も含め家族ぐるみの付き合いをしていた。

特別展では、中山家の人々のことを綴った南吉の日記や同家の資料など約50点を展示。日記では「中山の家に碁盤を借りにいつた」「中山文夫君が工科大学を受けに東京にたつのを見送りにいつた」などと交流の深さを窺わせる記述がある。

また、しゑが死去した昭和12年(1937)の日記には「ふと中山のお母さんはこの世にゐないのだと考へたら、あの人のゐないこの世にゐることが非常に悲しくなった。あれこそ純粋な悲しみといふものであらう」としたためている。

同記念館の遠山光嗣学芸員は「しゑは民話を南吉に語って聞かせ、それが『ごん狐』や『和太郎さんと牛』などの作品に影響を与えている。南吉を語る上で、中山家は欠かせない存在」と話している。

特別展は9月3日まで。中山家の家系図、甲冑、同家に関する江戸時代の書状なども展示される。南吉の誕生日である7月30日には、人形劇などの催しも開かれる。問い合わせは、新美南吉記念館へ。

(参考)『ごん狐』(新美南吉記念館 公式サイトより)


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三重高・廣田投手、脳梗塞乗り越え魂の7球…大分大会(読売新聞2006-07-14)

全力で7球を投げ込んだ廣田投手

全国高校野球選手権大分大会で13日、中学時代に患った脳梗塞の後遺症で左半身が不自由になった大分県立三重高(豊後大野市)の廣田一弥投手(3年)が、先発のマウンドに立った。背番号は、懸命のリハビリを間近で見てきた部員の総意でもらったエースナンバー「1」。「1回限定で走者を背負えば交代」との条件で臨み、先頭打者に7球を投じて四球を与えて降板した。それでも、「マウンドは暑くて気持ち良かった」と爽やかに語った。

大分市の新大分球場での1回戦で、相手は高田高(豊後高田市)。廣田投手は左腕、左脚を十分に動かすことができず、ボールを持つ右手を前に押し出すようなフォームで投球。ファウルが1球あり、2ストライク、3ボールの末、四球を与えた。試合は2―9で敗戦。ベンチから出てきた廣田投手は「僕の野球人生はまだ始まったばかり。大学に入ってプロ野球選手を目指したい」と明るく笑った。

脳梗塞で倒れたのは同県臼杵市の野津中3年だった平成15年(2003)6月。1m79p、78sと体格に恵まれ、最速130qを投げる本格派として活躍し、地区の中学総体で優勝した3日後だった。「もう野球をできないかも」と涙で枕を濡らした。

そんな時、見舞いに訪れたのが、中学総体での活躍を見ていた三重高上尾あがりお隆一監督。「諦めるな」。そう言って新しい硬球をくれた。憧れの硬球の革の匂いに、野球を続ける決意と三重高への進学を決めたという。

推薦枠で同校に進学、野球部に入部。しかし、左手は結んだまま開けず、左足には体重を支える補助装身具が必要。歩行を繰り返し、左手は丹念なマッサージで筋肉をほぐした。2年生の冬には投手として練習ができるようになり、最後の大会を前に、上尾監督、部員らでエースナンバーを背負ってもらうことを決めた。

息子の雄姿をスタンドから応援した廣田投手の母美穂さんは「マウンドに立つ姿が大きく見えた」と感無量の様子。上尾監督は「ノースリーの絶体絶命のところから入ったストライクには感動した。彼の頑張りが仲間にも勇気を与えた」と話した。

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布の世界地図 煌く点字(朝日新聞2006-07-08)

布製の点字の世界地図 ラインストーンを使って都市名を点字で表している
社会福祉法人「京都ライトハウス」(北区紫野花ノ坊町)が目の不自由な人のため、布製の点字の世界地図を140枚作った。都市名などを表す点字に、ガラスやアルミの粒で出来た服飾材料「ラインストーン」を活用した。布の手触りは優しく、紙製と違って点字が摩耗しない。全国の盲学校や点字図書館あてに近く発送する。銀色のストーンがきらきらと光って綺麗で、目の見える人も一緒に興味を持って欲しいという。

平成15年(2003)の京都観光案内図、同16年(2004)の日本地図に続く3作目。目の不自由な人から寄せられた「京都や日本だけでなく、もっと広い世界にも思いを巡らせたい」という願いに応えた。

縦59p、横90pで、大陸や島の輪郭は立体的に盛り上がる発泡インクで描いた。パリやシドニーなど主な首都や都市の位置に直径3oのラインストーンを1粒接着させて表示。その脇に、都市名の点字を直径2oのラインストーンを複数用いて表した。

今回の地図は、京都観光案内図と同じく、ワコール労働組合(南区)の寄付で作られた。ラインストーンの活用は組合の役員だった森好徳さんが提案した。現在、森さんは東山区でラインストーンの服などを作る体験工房「どっと・ていらー」を開業している。「ワコール在職中に、まるで宝石のようにカットされたラインストーンの煌びやかさに惹かれた。ひょっとしたら点字に活用できるのでは、と考えた」という。

今回作った世界地図は、紙の点字による「資料編・世界の国々」(全2巻)とのセットになっている。資料編では各国の面積や人口、地形、主要言語、宗教などを紹介している。

京都ライトハウス情報製作センターの田中正和所長は「点字だけの真っ白な紙製の地図ではなく、文字入りで、点字部分がきらきら美しい。晴眼者(せいがんしゃ=目の見える人)も一緒になって楽しく学べることは、点字への理解を広めることになる」と期待している。

140組作製。個人向けには今秋以降に販売することを検討中だ。

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大和の特攻を米軍が徳山沖で捕捉(中国新聞2006-07-03)

出撃5時間前の大和。旧海軍の戦艦「大和」が沖縄特攻出撃の5時間前に徳山(現周南市)沖で、米軍偵察機によって空撮された記録写真 昭和20年4月、米軍の沖縄上陸で、6日に徳山沖から出撃。翌7日に米軍の爆弾5発、魚雷8本以上の攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖90カイリの東シナ海で3056人の乗組員とともに沈没した

不沈戦艦と呼ばれながら、東シナ海に沈んだ旧海軍の戦艦「大和」は沖縄特攻の5時間前、徳山(現周南市)沖で米軍のB29偵察機が上空から撮影していた。呉市の大和ミュージアムなどが、米国立公文書館から発見した写真で分かった。沖縄へ出撃する前から、「大和」など第2艦隊の行動が「米軍に捕捉されていた事実を裏付ける初めての資料」と専門家らも驚いている。

写真は6月下旬、同ミュージアムと「呉戦災を記録する会」、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議・米軍資料研究会」が米国立公文書館へ調査員を派遣し、共同作業で膨大な資料の中から見つけ出した。

写真は昭和20年(1945)4月6日午前10時頃、徳山沖約30q地点(北緯33°(度)57′(分)、東経131°(度)45′(分))の約9300m上空から撮影したとあり、添えられた報告文書にははっきりと「大和」級の戦艦などを発見したと記されている。

第2艦隊の「大和」を中心に、右下に巡洋艦「矢矧(やはぎ)」、取り囲むように5隻の駆逐艦も鮮明に確認できる。「大和」には小型タンカーが横付けされ、攻撃時の火災を防ぐためガソリンなどの揮発油や可燃物を撤去する作業が写っている。

また、昭和19年(1944)10月のレイテ沖海戦後に、艦尾部や左右の甲板上などに増設された3連装機銃12基なども確認でき、出撃直前の装備が分かる貴重な資料という。

同ミュージアムによると、撮影された直後に第2艦隊所属の各艦艦長は「大和」に集まり、作戦の最後の打ち合わせを実施。同日午後3時20分、沖縄に向けて出撃した。

同ミュージアムの戸高一成館長は「年内に常設展示するほか、新たな写真の発掘にも尽力したい」と話している。

◇実態解明の一級資料

日本の近現代史に詳しい広島大学文書館の小池聖一館長の話―米軍に制空権を完全に握られ、戦艦「大和」は丸裸の特攻だったことが分かる。艦隊の編成や装備など「大和」出撃の実態が解明でき、貴重な情報が詰まった写真だ。資料として第一級の価値がある。

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「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」/池田博穂監督に聞く/9月公開/信じる道貫く姿を提示(下野新聞2006-05-08)

谷中村廃村100年を記念した映画「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」が、9月に全国上映される。足尾銅山の操業停止を訴えて、信念を貫く田中正造の生涯をドキュメンタリータッチで描く映画について、下野新聞社を訪れた池田博穂監督に聞いた。

「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」は、米国の生物学者レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』の朗読で始まる。レイチェル・カーソンは1960年代、農薬などによる環境問題を告発した。

制作会社から「正造を映像で残したい。是非監督を」と話があった。池田監督は、昨年2月の初公開以来、今も各地で上映中の記録映画時代ときを撃て・多喜二」を手掛けたことで知られる。「材料調べや台本づくり」を始めたのは昨年4月ごろ。『沈黙の春』より約80年も前、渡良瀬川流域の鉱害問題は顕在化した。

正造は決して諦めず、自分の信ずるところに向かっていった人。正造の人生は若い人にも、年配者にも勇気を与える」

日本の農業の先は見えにくく、環境問題は深刻化。更にイラクへの自衛隊派遣など平和問題も横たわる。そんな時代だからこそ「問題に立ち向かう正造の姿をありのまま提示したい」との思いが強い。

「闘争が主眼ではなく、どういうからくりで足尾銅山、鉱害は残っていったのか。その辺のサスペンスを感じてほしい」とも。

カツ夫人と正造の心の交流、操業停止運動に起ち上がる女性たちの姿なども描いた。「これは男の映画ではない。女性が活躍する映画です」と言い切る。

完成は6月末。全国公開に先立ち、7月には渡良瀬川流域の本県をはじめ茨城、埼玉、群馬各県と都内で試写会を行う予定だ。

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車椅子お遍路に易しい霊場を…今治明徳短大生がバリアフリー調査(読売新聞2006-04-15)

バリアフリー調査の一環でマップなどを作った学生

◇県内6か寺 急坂や段差、地図に表示

お遍路について学んでいる愛媛県の今治明徳短大の学生が、高齢者や障害者ら車椅子利用者にも霊場巡りを楽しんでもらえるよう遍路道の「バリアフリー調査」に取り組んでいる。これまでに松山市や今治市の7か寺で、「急な坂がある」「段差で移動しにくい」などといった事例を確認。報告書にまとめ、調査地点を示した立体地図を作製した。19日に開かれる公開講座で紹介する予定で、学生たちは「今後は調査範囲を広げ、県内全域のマップにしたい」と意欲を見せている。

同短大は、地域の文化を生かした教育で学生を確保しようと、平成13年度(2001・4〜)から「歩き遍路」の授業をスタート。現在は、この授業を受けようと入学を希望する学生もいるという“看板講義”となり、今年度は約60人が受講している。

バリアフリー調査は、「車椅子利用者にとって遍路道を身近なものにしよう」とする市川ひろみ助教授の発案で平成16年度(2004・4〜)にスタート。

昨年度は松山市の五十二番札所・太山寺を車椅子利用者と一緒に参拝し、今治市の五十四番札所・延命寺から五十九番札所・国分寺までの道のりを実際に車椅子に乗って巡るなどして、現状を確かめた。

その結果、遍路道の中には車椅子で上るのが難しい急坂や、寺院の周辺にバリアフリー対応のトイレでも狭くて使いづらい場所や段差がある環境を確認。

今治市内の札所6か寺について、地図(縦1・1m、横1・6m)を作製した上、延命寺と周辺の遍路道について、車椅子利用者の意見と段差や急な坂を写真で紹介した報告書をまとめた。

調査に参加したライフデザイン学科2年田窪敏晃さんは「実際に車椅子に乗って回ると僅かな段差でも苦労した。調査が少しでも遍路道のバリアフリー化に繋がってほしい」と言う。

同短大は今後、調査範囲を広げる予定で、市川助教授は「福祉分野の仕事を目指す学生が多く、調査を通じて介助する側の気持ちを学べたと思う。報告書は、将来的には車椅子利用者に配布できるようしたい」としている。

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トルコ軍艦遭難時の大島村長日誌 読みやすく改訂 村の対応など詳述 串本町樫野トルコ記念館(紀伊民報2006-03-24)

トルコ記念館で閲覧が始まった旧大島村村長の日記の改訂版 右側が原本のコピー、左側は旧漢字を常用漢字に改訂したもの

「樫野大龍寺ニアル負傷者ハ室内狭隘ヲ来シ…」―串本町樫野の町営トルコ記念館は、トルコ軍艦「エルトゥールル号」が明治23年(1890)9月、樫野崎灯台近くの岩礁で難破した際、生存者や遺体の捜索などにあたった当時の大島村長・沖あまねの日記を常用漢字に改訂するなどして読み易くし、閲覧を始めた。「歴史を肌で感じられる資料。是非見て欲しい」と呼び掛けている。座礁した翌日の9月17日から10月1日までの対応を記した土耳古トルコ軍艦エルトグロール號難事取扱ニ係ル日記』。原本は記念館資料室に展示されているが、手に取って見ることはできない。現場で繰り広げられた救済措置などが詳述され、明治時代における日本の海難処理に関する第一級の「災害教訓資料」と評価されている。閲覧できるのは、旧漢字を常用漢字に改め、難読語に読み仮名を付けたもの。中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」が、エルトゥールル号遭難事件に関する調査をした際、調査委員の1人で東洋大学の三沢伸夫助教授が校訂した。原本のコピーと対比させる形にして1枚ずつファイルしている。10月6日までの動きを記した区長の報告書も含めA4サイズで62ページある。

「エルトゥールル号」は1863年に建造された木造帆船(全長76・2m、排水量2334t、速度10ノット)。

同専門調査会が昨年3月に刊行した『1890 エルトゥールル号事件報告書』(A4判、178ページ)によると、この軍艦は主に皇室儀礼に基づく勲章と贈り物の交換のため、日本に派遣された。

3か月以上に及ぶ日本滞在を終え、9月15日にイスタンブールに向けて横須賀を出航。次の寄港地・神戸に向かう途中の16日午後9時半頃、通称「船甲羅」と呼ばれる難所で座礁した。

日本に滞在中や航海中にコレラ、結核、赤痢などで死者が出たため、座礁による死者数は正確には不明。概数で約500人の将兵が死亡、自力で紀伊大島に上陸した69人だけが助かった事が確認されているという。

日記には当時の行政としての対応や村民挙げての捜索、埋葬、看護などの対応、遺品を巡り将兵同士が諍いを起こした事など当時の取り組みや様子が記されている。

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蝶々夫人の舞台はグラバー邸 原作者遺稿で検証(長崎新聞2005-10-22)

オペラ「蝶々夫人」の原作者ジョン・L・ロングが晩年に書いた未発表の続編で、長崎市のグラバー邸をモデルに蝶々夫人の住まいや間取りなどを描いていたとする調査結果を、同市出身の研究家、野田和子さん(千葉県在住)が21日明らかにした。蝶々夫人のモデルについては「グラバー夫人ツル説」と「架空説」で長年論争があり、新たな論議を呼びそうだ。

未発表の続編は『二十年後の蝶々夫人―追想のドラマ』と題する戯曲。ロングが死去する1年ほど前に書いたとされ、米テキサス大学が原本を保管している。

蝶々夫人の住まいについて「長崎の港を見下ろすヒガシオカの『かの有名な蝶々夫人の茶室』。優雅な庭園は家屋と非常によく調和し、一般の日本の家よりも広く堅固」と説明。「庭園への出入り口は大きく開放」「玄関は左手」「右手に二つの小さな寝室が別々にある」などとの記述がある。

野田さんは「ロングの実姉サラとツルの交際があった明治20年代のグラバー邸は、庭園へ開かれた応接室から向かって右手に寝室が2つ別々にあるなど遺稿と合致する」と指摘。「来日していないロングがグラバー邸を描けたのは、日本に滞在したサラからツルの家を詳しく聞いたから。グラバー邸は南山手だが、『ヒガシオカ』としたのは、モデルとしたツルのプライバシーを守るため」とし、「グラバー邸が舞台だったことで、蝶々夫人のモデルもツルと断定できる」と話す。

野田さんはツルの子孫で、現在学園職員。調査は『続グラバー夫人―お蝶さんと呼ばれた女(ひと)』と題する本にまとめ11月に出版予定。

グラバーなど幕末・明治期の歴史に詳しい松本健一・麗澤大学教授は「オペラの原作と遺稿を重ね合わせると、蝶々夫人の舞台はまさにグラバー邸と考えられる。未発表の遺稿のため文章が混乱している部分もあるが、外観や間取りなど大筋合っている。グラバー邸がモデルだったことで、ツルが蝶々夫人のモデルだったことも明らかに想定される」と話した。

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ロレンスの中東構想図発見 英博物館で展示へ(産経新聞2005-10-13)

トーマス・エドワード・ロレンスが1918年に自らの中東の領土分割構想を書き記した地図

第一次世界大戦でイギリスの対アラブ工作員として活躍し、映画「アラビアのロレンス」で知られるトーマス・エドワード・ロレンスが大戦後の1918年に中東地域の領土分割構想を自ら書き記した地図が見つかり、14日からロンドンの帝国戦争博物館で展示されることになった。

ロレンスがアラブの民族自決運動に共鳴していたことは知られているが、領土問題で本人の具体的な考えを示す資料はこれまでなかった。

ロレンスの構想は、現在のイラク領土をクルド人の多い北部とアラブ人の多い南部に2分割することを提案。また、現在のシリア、ヨルダン、サウジアラビアの一部にまたがる広大な土地をアラブ人の支配領土とし、現在のシリアとトルコの国境付近にはアルメニア人の領土をつくることを主張している。

構想は現地の英植民地当局の反対を受け、政府はこれらの地域を大戦後にフランスとともに分割することを最終的に決定。ロレンスの提案が実現することはなかった。

同博物館のウィルソン歴史顧問は「ロレンスの提案は帝国主義的な領土分割を行った(英仏による)サイクス・ピコ協定に比べ、はるかに優れたものだ」と述べた。

英紙『タイムズ』によると、この地図は英公文書館に保管されていたが、これまで日の目を見ることがなかったという。


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産業奨励館の原寸セット公開(中国新聞2005-08-02)

原寸大で再現した産業奨励館の前で、制作意図を説明する永田さん

◇呉出身永田さん、制作指揮

原爆ドームの前身である広島県産業奨励館の原寸大セットが1日、横浜市青葉区のTBS緑山スタジオで公開された。広島大学、同大学院で建築様式などを研究した同社美術デザイン部の永田周太郎さん=呉市出身=が制作を指揮。大型ドラマ「広島・昭和20年8月6日」(29日放送)に登場する。

鉄骨で基礎を造り、表面にベニヤ板を使用。正面と側面の3か所を再現した。最も高いドーム型の屋根部分は高さ25mで、建物の幅は45mに及ぶ。屋根は青銅色に、壁は淡い灰色に仕上げ、当時の威風堂々たる外観を再現した。6月下旬から延べ4000人近くが作業し、約1か月で屋外に完成させた。

永田さんは、チェコ人の建築家ヤン・レツルが設計した現存図面や、広島大学から提供を受けた資料を基に、外観の模様や窓枠、鉄扉など細部まで精巧に造った。永田さんは「広島県人だからここまでこだわれた。反戦の思いを1人でも多くの人に伝えたい」と制作意図を説明している。

ドラマは人気俳優の松たか子さんが主演。29日午後9時から、系列局で全国放送される。

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映画:「祗園小唄」の名画、HP配信 昭和初期のフィルム一部を再現―京都(毎日新聞2005-06-07)

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◇京都府「当時の芸舞妓映す資料」

京都府はこの程、五花街の芸舞妓が、お座敷や舞台で披露する舞踊の定番として知られている「祗園小唄」が流行するきっかけとなった昭和5年(1930)製作の無声映画「祗園小唄絵日傘」のフィルムの一部をデジタル復元し、京都府のホームページで動画配信を始めた。

「祗園小唄絵日傘」は日本映画の父とも呼ばれる故・マキノ省三氏が京都に設立した映画プロダクション「マキノ御室」製作の3部作。公開当時、舞妓姿の女優がスクリーン脇で字幕に合わせて歌った主題歌の「祗園小唄」が流行した。

今回復元、公開されたのは第2部の「狸大尽だいじん」の一部約7分間で、府が所蔵する9・5oフィルムが現存する唯一のものだという。劣化が進んだ歴史的フィルムの復元・活用を行う「映像フィルムルネッサンス事業」で、京都文化博物館(中京区)がフィルムの汚れや傷などをデジタル修正し、業務用の35ミリフィルムに復元した。府文化芸術室によると、ロケ地である祗園界隈や芸舞妓の当時の映像は、歴史資料としても貴重だという。

配信は、この映画の主演で俳優の長門裕之さん、津川雅彦さん兄弟の父としても知られる故・沢村国太郎氏の生誕100年を記念した。期間は限定しておらず、同室では今後、他の映画の復元、配信も予定しているという。

→(参照)映画「祗園小唄 絵日傘 狸大尽」の画像配信

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西高瀬川、舟入の遺構を確認 京都の近代化を担う(京都新聞2004-11-21)

JR二条駅東側で見つかった明治時代の西高瀬川舟入の遺構

明治時代、京都の水運を担った西高瀬川の舟入の遺構が京都市中京区のJR二条駅東側で20日までに見つかった。明治初期に完成し、大正初期にはなくなったとみられるが、物流の大動脈として京の近代化を担うとともに、鉄道の広がりとともに消えていった明治の水運の拠点跡の出現に市民は感慨深そうだ。

立命館大学新キャンパス設置に伴い、京都市埋蔵文化財研究所(以下、市埋文研)が8月中旬から約3600uを調査。南北約55m、東西約8m、深さ約3mの巨大な溝と、溝の中程にボルトで固定された角材(縦横約25p、長さ約3m)や、護岸用の板が見つかったほか、溝の北側に2棟の建物跡、南側には、大きな建物を支えたとみられる高さ約1m、長さ約12mの石垣も確認された。

西高瀬川は、右京区嵯峨の保津川から伏見区下鳥羽の鴨川まで通じる運河で、幕末の文久3年(1863)に開削。丹波の木材や薪、炭などを、京都市内に運ぶ物流の大動脈となり、千本三条などの周辺には材木問屋街が形成された。

市埋文研によると明治9年(1876)の地図には、四条通に沿った川筋と舟入が描かれているが三条通にはなく、明治35年(1902)の地図には、三条通に川筋や舟入が現れ、大正4年(1915)の地図には川筋はあるが舟入が消えていた。

舟入を埋めたとみられる土の中から、国有化(明治40年=1907)される以前の山陰線を経営していた「京都鉄道株式会社」の文字の入った急須が出土しており、国有化前後に埋められたのではないかとみている。

西高瀬川沿いの教宣寺住職山本和了さんは「祖母が明治時代に、千本三条の船着き場から屋形船に乗って嵐山へ花見に行ったと聞いたことがある。そんな船着き場の跡が出たとは驚き」と感慨深げに話している。

◇武庫川女子大の森谷尅久教授の話

舟入があることは分かっていたが、50mもある大きなものとは知らなかった。当時の京都市民の生活を支えるために、いかに膨大な薪炭や材木を必要としたかを物語る貴重な発見だ。この場所は平安京の朱雀大路に当たり、舟入、JRという3つの大動脈が重なっているところに因縁を感じる。

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歌人・吉井勇を偲ぶ 祗園で「かにかくに祭」(京都新聞2004-11-08)


祗園の花街を愛した吉井勇を偲び、白菊を歌碑に供える芸舞妓さんたち

京都・祗園をこよなく愛した歌人・吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」が8日、京都市東山区祗園の白川ほとりで営まれた。爽やかな秋晴れの下、華やかに着飾った芸舞妓さんたちが、歌碑に白菊を捧げた。

吉井勇は明治42年(1909)、石川啄木らと文芸雑誌『スバル』を創刊。北白川周辺に住んだ晩年、祗園の花街に通い、「かにかくに/祗園はこひし/寝るときも/枕の下を/水のながるる」という歌を詠んだ。その歌碑が白川がせせらぐ祗園新橋近くに建てられ、同祭を祗園甲部組合が毎年開いている。

午前11時15分頃、芸舞妓さん4人が歌碑に献花し、参列した知人らが故人を偲んだ。京情緒溢れる風景をおさめようと、観光客らも訪れ、カメラを向けていた。

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ゾルゲ事件の処刑記録発見 初の公式文書(京都新聞2004-10-16)

太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)10月、ソ連のスパイ組織を警視庁が摘発したゾルゲ事件。その主犯格、ドイツ人記者リヒャルト・ゾルゲと評論家尾崎秀実処刑記録が、16日までに見つかった。

死亡時間や処刑前のやりとりなど、2人の最期に関しては研究書によって諸説があり、公式文書が明らかとなるのは初めて。2人が処刑されてからちょうど60年になる11月、東京都内で開かれる講演会で処刑記録の詳細が発表される。

この記録は社会運動資料センター(東京都三鷹市)代表の渡部富哉氏が、東京の古書店で入手。戦後、同事件を再調査したGHQの英文リポート(1947年8月)の末尾に添付されていた。

「市谷刑務所」の公式便箋に手書きで、本籍、罪名、裁判経過、死刑執行の言い渡し状況などが記入されている。

それによると、尾崎の処刑は昭和19年(1944)11月7日午前9時33分から同51分。「瞑目し職員に謝礼し、南無阿弥陀仏を二唄し執行を受く」とある。

続いてゾルゲが同日午前10時20分から同36分に死刑を執行された。「職員に対し『皆さまご親切有り難う』を繰り返し」刑場に進んだ。

渡部氏は「当時、一部ではゾルゲ生存説がまことしやかに流布していた。米国はこの公式記録によって死亡を確信したはず」と話している。講演会は11月6日午後1時から、東京都品川区の杉野学園で開催される。

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韓国:「日本人シンドラー」に建国勲章 日本の植民地統治時代、独立運動家を弁護(毎日新聞2004-10-13)

布施辰治氏

韓国政府は12日、日本による植民地統治時代、朝鮮独立運動家の弁護活動をした故・布施辰治氏に建国勲章を授与すると決定した。独立運動の貢献者に与えられる建国勲章を日本人が受けるのは初めて。韓国のテレビが「日本人シンドラー」と名付けて特集番組を放映するなど、再評価の動きが広がっていた。

布施氏朝鮮総督府や皇居への攻撃を計画した「義烈団」や、大正15年(1926)に天皇暗殺を図ったとして大逆罪で死刑宣告を受けた朴烈事件の弁護などを担当。1920年代には4度朝鮮を訪問し、講演を通じて朝鮮独立運動の正当性を訴えた。

ナチス迫害からユダヤ人を守った独実業家、シンドラー氏にちなんで、韓国のMBC放送も平成12年(2000)2月、「発掘・日本人シンドラー」と題して1時間番組を放映。昨年7月には独立運動への貢献を評価する「功績審査委員会」が授章に値すると決めたが、日本人の受章に対する韓国世論の反応を考慮し、韓国政府が正式決定を先送りしていた。



「朝鮮版シンドラー」故布施弁護士に建国勲章 韓国政府(朝日新聞2004-10-12)

布施辰治さん

韓国政府は12日、日本の植民統治からの独立を訴える朝鮮人運動家らを弁護し、韓国メディアから「朝鮮版シンドラー」とも呼ばれる故・布施辰治弁護士に建国勲章を授与することを決めた。同勲章は朝鮮独立運動に寄与した人物に与えられ、日本人の受章は初めて。

布施弁護士は明治13年(1880)、宮城県生まれ。明治法律学校(現・明治大学)を出て弁護士になり、戦前の米騒動事件や戦後の三鷹、松川事件などで活躍した人権・社会派弁護士で、昭和28年(1953)に死去した。

三・一独立運動(大正8年=1919)の直前に東京で独立宣言を発表した「朝鮮青年独立団」の関係者や、大正15年(1926)に大逆罪に問われた朝鮮人運動家らの弁護に当たったことなどが受章理由になった。

韓国では、ナチスの迫害からユダヤ多を守ったシンドラーになぞらえ「朝鮮版シンドラー」として評価する動きが広がり、民間団体を中心に布施氏への授章を求める声が高まっていた。

孫に当たる大石進・日本評論社会長は「祖父が韓国の人たちの役に立ったことが認められ、嬉しい」と話している。

韓国の「布施辰治先生存袖会」の鄭ジュン泳(チョン・ジュンヨン)代表は「朝鮮民族の痛みに心を配り、解決のために献身してくれた。授章は韓日関係の発展にも寄与する」と喜んでいる。



日本人初の建国勲章授与された故・布施辰治弁護士(朝鮮日報2004-10-12)

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日帝による植民地時代に、韓国の独立運動家の弁護を担当した日本人弁護士に建国勲章が授与された。

建国勲章は日帝からの独立に貢献した功労が認められる人物に与えられるもので、この勲章が日本人に授与されることは今回が初めて。

政府は12日、閣僚会議を開き、日本人の故・布施辰治弁護士に建国勲章・愛族章を授与することを議決した。

布施弁護士は大正8年(1919)、在日本留学生が宣布した「二・八独立宣言」のリーダー、・崔八龍(チェ・パルヨン)先生、宋継白(ソン・ゲベク)先生など「朝鮮青年独立団」の弁護を担当した。

大正13年(1924)には、義烈団(武力独立運動団体)のメンバーとして東京で開かれた帝国議会に出席した日本首相と朝鮮総督を爆殺するため皇居の二重橋に爆弾を投げかけ、日本人を驚かせた「二重橋爆弾義挙」の金祉燮(キム・ジソプ)義士を弁護した。

大正15年(1926)には、天皇と皇族の爆殺を図ったが、事前に発覚され逮捕された朴烈先生の弁護を務め、無罪を主張するなど、日本の帝国主義に反対し韓民族の抵抗を積極的に擁護した。

勲章は外孫の大石進・日本評論社長に授与される予定で、外国人であるために、遺族年金は支給されない。

これまで建国勲章が授与された外国人は合わせて45人で、国別では、中国31人、英国6人、米国3人、アイルランド3人、カナダ1人だった。



石巻出身の故布施辰治弁護士 韓国から建国勲章(河北新報2004-10-13)

生誕地近くの公園に建てられた布施の顕彰碑

韓国政府は12日、日本による植民地統治時代、朝鮮独立運動家の弁護活動に尽力した宮城県石巻市出身の弁護士、布施辰治に、建国勲章を授与することを決めた。日本人が同勲章を受けるのは初めて。

布施は、宮城県蛇田村(現石巻市)の農家に生まれた。18歳で上京、明治法律学校(現明治大学)を卒業後、いったん検事代理になるが23歳で弁護士に転身した。

2度の投獄や弁護士資格剥奪などにもめげず、植民地下の朝鮮で、多くの独立運動家の弁護を無償で引き受けた。このため、韓国では第二次世界大戦中、ユダヤ多難民を救った続交官杉原千畝になぞらえて、もう1人の「日本のシンドラー」とも呼ばれている。

平成12年(2000)に韓国のテレビ番組で取り上げられるなど、近年、再評価の機運が盛り上がり、国家報勲院は市民団体の要請などを受け昨年、布施の推薦方針を決めた。

しかし、政府内から「日本人に愛国者を讃える勲章を与えるのは国民感情に合わない」との慎重論も出ていた。勲章は孫の大石進・日本評論社会長が受け取る予定。

同勲章は、独立運動造の功労者に与えるもので、外国人にはこれまで中国人31人、英国人6人などに授与されている。

◇石巻の関係者「両国文化交流の礎」

出身地石巻の市民らでつくる布施辰治顕彰会のメンバーは、初めて日本人として受章したことに感慨深げだ。和田長平事務局長は「植民地下の朝鮮半島で人権擁護と弁護活動に尽くした先生の業績が、恩義を忘れない韓国の国民性によって受け入れられたのが嬉しい」と語る。

顕彰運動は昭和58年(1983)にスタート。顕彰会が募其活動を続け、平成5年(1993)11月、生誕地近くに石碑を建立した。縦2m、横4mの碑には、布施の肖像を描いた銅製レリーフとともに、「生きべくんば民衆とともに 死すべくんば民衆のために」との信条が刻まれている。

平成15年(2003)に中心メンバーとなって布施の没後50年記念集会を開いた庄司捷彦弁護士は「当時、多くの日本人が朝鮮に対し優越的な感情を持つ中で、布施氏はそれに反対し、国民レベルの交流を願って行動していた。今の日韓文化交流があるのは、布施氏の功績だと言ってもいい」と話している。



布施辰治の功績に光を 明治大学が研究会 来月、石巻訪問(河北新報2006-07-17)

布施辰治


明治大学は、前身の明治法律学校の卒業生で日本人初の韓国建国勲章を受章した弁護士布施辰治=宮城県石巻市出身=の実績を研究する「人権派弁護士研究会」を設立した。メンバーの法学部教授らが調査のため8月1、2の両日、石巻市を訪れる。弱者の立場に立った布施の活動や精神についてさらに研究を深めるため、資料の発掘に乗り出す。

研究会は4月、明治大学史資料センター内に発足した。布施ら同時代の弁護士3人を対象に共同研究を行う。

石巻市には研究会代表の山泉進・法学部教授ら10人が訪れ、石巻文化センターが所蔵する日記や裁判記録など約5000点の資料を調査する。市民有志で活動する地元の布施辰治顕彰会との交流も検討している。

資料センターは「布施は、大学の建学の理念である『権利・自由』の体現者。石巻の豊富な資料を分析し、多角的に実績を再評価して広く紹介していきたい」と話している。

布施は、日本による植民地統治下の朝鮮で多くの独立運動家の弁護活動を無償で引き受けた。第二次世界大戦中、数多くのユダヤ人難民を救った外交官杉原千畝になぞらえ、韓国では「日本人のシンドラー」とも呼ばれ、韓国政府は2004年(平成16)、建国勲章愛族章を授与した。



布施弁護士の足跡たどる 明大研究会、資料確認 石巻(河北新報2006-08-03)

布施辰治顕彰碑を視察する明大研究会のメンバー

宮城県石巻市出身で日本人初の韓国建国勲章を受章した弁護士布施辰治の調査研究のため、明治大学史資料センターの「人権派弁護士研究会」(代表・山泉進法学部教授)のメンバー8人が1、2の両日、石巻市を訪れた。

初日は、石巻文化センターを訪れ、同センターが所蔵する布施の日記や裁判記録など約5000点の資料を確認。市民有志で活動する地元の布施辰治顕彰会の関係者と意見交換した。2日目は、同市蛇田の布施の生家跡や平成5年(1993)に建立された顕彰碑を視察した。

山泉教授は「日本の人権擁護思想を研究する上で、布施は重要な人物の1人。今後、文化センターの豊富な資料の分析を進め、布施の実績を再評価したい」と話した。

布施は明大の前身の明治法律学校卒。日本による植民地統治下の朝鮮で独立運動家の弁護に貢献し、韓国では「日本人のシンドラー」とも呼ばれいる。韓国政府が2004年(平成16)、建国勲章愛族章を授与。日本でも米騒動、労働争議、入会権紛争などで社会的弱者の弁護に当たった。

研究会は4月に発足。布施を中心に同時代の弁護士3人の活動について本格的な研究に取り組んでいる。


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