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市女の原爆碑、山口に原型 同窓生、説明パネル寄贈へ(中国新聞2007-07-26)

市女原爆慰霊碑に、原型が見つかった事を報告する一場さん(中)ら舟入・市女同窓会メンバー 市女原爆慰霊碑の原型と分かったレリーフ

広島市中区に立つ市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の原爆慰霊碑に刻まれたレリーフは、山口市小郡文化資料館の所蔵品を原型に制作された事が同資料館の調査などで分かった。市女の同窓生有志は関連付けが判明した事を喜び、平和への願いが込められた慰霊碑説明パネルを近く資料館に贈る。

平和記念公園南の元安川右岸に立つ慰霊碑は、もんぺ姿の少女が原子力を意味する化学式の文字を胸に抱き、左右に2人の少女が寄り添っている。

資料館の所蔵品は、少女は1人少ない2人だが、同じ化学式が彫られるなどデザインは酷似している。制作も慰霊碑と同じ昭和23年(1948)。山口県出身の彫刻家河内山賢祐氏の作品で、資料館が開館した平成6年(1994)に収蔵。「婦人(2人)」の作品名で展示していた。

河内山氏が残した書簡などには両者の関連を示す資料はなかった。しかし、河内山氏の関係者からの指摘を受けた資料館が調べた結果、平成6年(1994)に同窓会が再発行した市女追悼集『流燈りゅうとうに明確な記述が見つかった。

追悼集に収録された当時の市女校長、故宮川造六氏の手記などによると、学校側から原型の制作を依頼された河内山氏は京都に湯川秀樹博士を訪ね、原子力の意味を聞いてデザインを考えたという。

在学中に被爆した同窓会の世話役、加藤八千代さん=西区=は「は、戦争や核兵器の悲惨さを伝えようと建てられた。その苦労の証と言える原型が見つかり嬉しい」と感激する。

説明パネルは、加藤さんや市女教員だった一場不二枝さん=南区=らが作成し、資料館に贈る。一場さんは「戦争は罪のない少女の命を奪う事を、市女の歴史とが伝えてくれる」ようにと願う。

資料館は加藤さんらの思いにも応える形で、収蔵作品名をこの程「女子学徒」に改題した。


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デ・レーケ記念碑建立へ 三国港突堤築造に尽力(日刊県民福井2007-06-08)

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坂井市三国町の三国港突堤ファンクラブは、明治期同港突堤の築造工事に携わったオランダ人技師のヨハネス・デ・レーケを顕彰する記念碑の建立を目指す事を総会で決めた。併せて同突堤とオランダの堤防との“姉妹縁組”にも取り組む。

構想は、オランダ交流事業の一環として、1年前のクラブ総会で木村昌弘会長が明らかにしていた。記念碑(顕彰碑)デ・レーケの業績を偲び、国内で2基を製作する。碑文には日本語、オランダ語、英語を刻み、アムステルダム市にあるデ・レーケの墓の横と、突堤にあるオランダ人技師のエッセル&デ・レーケ突堤顕彰碑の付近に設置する計画。

基礎部にオランダ伝来の土木技術を駆使した粗朶そだ沈床工法」が取り入れられている同突堤の築造に携わったエッセルが、オランダにある世界最長(延長35q)の大堤防とも関わりが深い事から、突堤と大堤防との姉妹縁組みも検討している。

木村さんは「港町の歴史を生かしたまちづくりが進められており、この中で事業を推進できないものか、関係機関と協議している。歴史遺産の突堤を後世に引き継いでいくために記念碑の建立を実現させたい」と話している。

坂井市三国町の三国港突堤ファンクラブ(木村昌弘会長)は7日に開いた総会で、明治期同港突堤の築造工事に携わったオランダ人技師のヨハネス・デ・レーケを顕彰する記念碑の建立を目指す事にした。同時に、同突堤とオランダの堤防との“姉妹縁組”にも取り組む。

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直筆原稿や写真発見 「食育の祖」石塚左玄(福井新聞2007-06-01)

由利公正から石塚左玄に宛てた手紙。左玄の病気回復を願った内容も 明治時代、日本で初めて「食育」の重要性を唱えた石塚左玄

「食育」の言葉を明治時代に国内で最も早く使い、食育基本法の生みの親といわれる福井市出身の医師石塚左玄の子孫の家に、左玄宛ての書簡や左玄の筆記ノート、直筆原稿、写真など多数の資料が残っている事が分かった。中には、福井藩出身で東京府知事として活躍した由利公正初代日本赤十字病院長橋本綱常からの手紙もあり、左玄の幅広い交流や、若い頃から大変な勉強家だった事など知られざる人物像が浮かび上がってきた。

左玄に関しては、県内には著書をはじめ殆んど資料が残っておらず、今回のは左玄を知る第一級の遺品。主な資料は9、10日にサンドーム福井で開かれる第2回食育推進全国大会で、コーナーを設け公開される予定。

資料は、左玄の曾孫の坂西珠恵さん=東京都世田谷区在住=の家に保管されていた。左玄について調査研究しているJA県厚生連の岩佐勢市理事がこの事を知り、今年4月、坂西さん宅を訪問。資料を預かり、解読作業を進めてきた。

未だ全部の整理を終えていないが、蜜柑箱3箱程に数十点の資料が納められていたという。

このうち由利公正からの手紙は2通あり、1通は由利左玄の病気回復を願った内容。「他の人と違って左玄は医師であるから、自分で手当てできるといっても、妻共々心配しています」などと記している。日付は10月7日。差出年は不明だが、岩佐さんによると、明治42年(1909)の10月とすると、左玄が病気で倒れて亡くなる10日前のこと。同年でないとすると、左玄は生まれながらの皮膚病と慢性の腎臓病を患っており、その見舞いの可能性もあるという。左玄は、自身の病気をきっかけに食育の大切さに気付き啓蒙活動を始めた。

もう1通は、左玄由利に、江戸時代の職人・明珍作の香炉の値段について問い合わせた事への返事。由利は「13円はそんなに高値でない」などと返信している。

由利は、左玄が顧問となり明治40年(1907)に「食養会」を結成したとき、協賛者の1人に名を連ねていた。今回見つかった手紙は、2人の深い交流を裏付けた形だ。

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NHK「みんなのうた」にブッポウソウ 冨田さん作曲、鳳来寺山舞台に(中日新聞2007-05-29)

来月から放送される冨田勲さん作詞・作曲の歌の舞台となった鳳来寺山

♪ブッポウソウ、帰ってこい―。新城市の鳳来寺山が生息地として知られながらも姿を消した「仏法僧」(和名・このはずく)への思いを表現したシンセサイザー奏者冨田勲さん作詞・作曲「鳳来寺山のブッポウソウ」が、6月と7月にNHK「みんなのうた」で放送される。市は実行委を組織して記念コンサートを企画、「観光振興の呼び水に」と期待する。

歌はNHK東京児童合唱団、アニメーションは大井文雄さんが担当。昨年夏、冨田さんが制作した26分間の曲「仏法僧に捧げるシンフォニー」を、三河の方言を交えて5分間程にアレンジした。

鳳来寺山は古くから仏法僧の名所。戦前にラジオ実況中継が行われた事もある。小1から高1まで岡崎市に住み、三河を第二の古里とする冨田さんは、昨年10月に鳳来寺山でテレビ収録のための野外コンサートを開き、全国放送された。

これに合わせ、湯谷温泉の旅館などは実行委を組織し、6月30日午後7時から鳳来寺本堂前で記念コンサートを開く。地元音楽教室の子どもたちによるコーラス、琴や和太鼓演奏の他仏法僧の説明などがある。

市観光協会は「『みんなのうた』で全国に親しでもらい、鳳来寺山の観光振興に繋がるような継続的な事業を模索していきたい」としている。記念コンサートは入場料3000円。当日の運営ボランティアも募集する。問い合わせは市観光協会へ。

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青い目の人形、所縁の孫同士が対面/横浜(神奈川新聞2007-05-29)

第一次、第二次大戦の谷間で日米関係が軋み始めた昭和2年(1927)、米国の子供たちから親善の証しとしてプレゼントされた「青い目の人形」。この人形を贈る運動を提唱した米国人宣教師シドニー・L・ギューリック博士と、人形の歓迎式を開いた当時の有吉忠一横浜市長(共に故人)の、それぞれの孫が28日夜、横浜・中華街で対面した。

博士の孫は米国在住の元大学教授シドニー・L・ギューリック3世、市長の孫は横浜市中区在住の元会社役員有吉煕さん。青い目の人形を通じた交流をライフワークにしている元YMCA勤務大藤啓矩さん=横浜市中区=の仲立ちで、対面が実現した。大藤さんと、青い目の人形1体を保管・展示している「横浜人形の家」のプロデューサー北原照久さんも同席。

ギューリックさんは「9回目の来日だが、このような機会に恵まれるとは思わなかった」と述べ、有吉さんは「80年前の事を忘れず、未だに交流を続けている事に感激した」と応じた。

青い目の人形は、宣教師として20年余りを日本で過ごした博士が帰国後、日本人排斥運動に心を痛め、親善の証しとして贈る事を提唱。昭和2年(1927)1月、横浜港に300体が到着したのを皮切りに、1万2739体がプレゼントされた。

横浜市では本牧小学校(中区)で歓迎式典を開き、当時の市長らが約2000人の児童と共に”遠来の客”を温かく迎えた。しかし、第二次大戦が始まると、人形の大半は「敵性人形」として処分され、現在残っているのは、全国で約300体のみ。人形が取り持つ縁で、ギューリックさん夫妻は昭和61年(1986)に横浜人形の家の開館式に招かれた。翌62年(1987)から新「青い目の人形」の贈呈を開始し、現在206体になる。

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県歌 信濃の国―県会大合唱伝説の真相(読売新聞2007-05-22)

現在の県庁北側にある議員会館(右の建物)。昭和23年当時、正面にある植栽の奥に県議会の議事堂があった。門柱や左側の銀杏の木は当時のままという

◇可決でも「分県不可能」

昭和23年(1948)4月1日、県議会の議事堂を取り巻く数千人の市民に連動し、本会議の傍聴席からも「信濃の国」の大合唱が起こった。長野県の分県意見書の決議を強硬に主張した黒田新一郎・分県特別委員会委員長ら南信側議員たちは気勢を殺がれ、分県論は収まった―。長野県を1つにまとめた「信濃の国」の影響力をもの語る有名なエピソードの1つだ。

しかし、この前年に就職したばかりで、僅か5人の議会事務局職員の中で若手だった元県社会部長の大沢清忠さんは「実は当時、決議が可決されても、分県は実現しなかった」と打ち明けた。

本会議の1か月前、24歳だった大沢さんは上司に指示され、東京に数回出張した。県議会で分県の意見書が可決された場合、どう取り扱われるかを、霞が関の官庁街や国会の衆院事務局を回って調査した。

その結果、「可決されても単なる意見書。長野県を2つに分けるなんて簡単にはできないし、国も国会も許さない」との結論に至った。

大沢さんの報告は、本会議前に南信側県議にも伝わった。しかし、「分県は南信の意見だから、このままやる」と南信側は言い張った。一方、北信側の議員たちは周到な作戦を練っていた。

当時の議員定数は60、南信側と北信側は同数だった。午前10時過ぎに開会し、北信側だった松橋久左衛門議長の病気欠席が報告され、南信側の小松直治副議長が議長席に着いた。大沢さんは「南信側はこの時、作戦に気付くべきだった」と当時を振り返る。

質疑応答の後、採決に入った。南信側議員は29対29の可否同数で、議長裁決により可決となる事を疑わなかった。が、立岩忠一・議会事務局長から投票結果を聞いた小松副議長の顔色が変わった。

北信側3議員が白票を投じたためだ。29対26となり、賛成が上回ったものの、可決には出席議員の過半数が必要。議長裁決にもならず、午後3時59分、時間切れ閉会、意見書は廃案となった。

こうした実例を解説した文書が県議会の図書館にあり、種明かしすれば、当たり前という意味で後に「コロンブス作戦」と呼ばれた。

大沢さんは本会議中、議長席横に座った立岩議会事務局長の脇にいたが、議事堂の周囲で「信濃の国」が歌われたのは覚えていない。忙しさで、それどころではなかったのだろう。だが、閉会後、傍聴席から上がった「信濃の国」の歌声は、鮮明に耳に残っている。

それから約20年後の昭和45年(1970)頃、諏訪地方事務所に勤務した時、下諏訪町長だった黒田さんが、しみじみと「『信濃の国』はいい歌だ」と語っていたのを思い出すという。

『信濃の国』の歌声が直接、分県問題を解決した訳ではないが、『信濃の国』に対する黒田さんの思いは今、よく分かる」

黒田さんにとって分県論の挫折は、北信側の作戦ではなく、議事堂の周囲や傍聴席で歌われた『信濃の国』に込められていた県民の思いだった。

長野、松本に歌碑が建った4年半後の昭和56年(1981)5月、黒田さんは84歳で亡くなった。遺族は「葬儀で『信濃の国』を歌ってもらえないか」と希望したが、町民葬だったため、下諏訪町の歌が優先され、叶わなかった。「『信濃の国』を歌ってやれなかったのが今も心残り」と、三男で元中学校美術教諭の良夫さんは話す。

◇「あの歌は堪えた」 黒田さん南北間仲介に奔走

「信濃の国」の大合唱は、県議会分県特別委員会の委員長だった黒田新一郎さんに衝撃を与えた。

分県意見書が廃案となった昭和23年(1948)4月の本会議の数日後、黒田さんは下諏訪町の自宅に帰って来ると、家族に「演説したけど、上手くいかなかった。あの歌は堪えた」と、心を動かされた様子で語ったという。

晩年の黒田さんをよく知る元県立図書館長、太田今朝秋さんも「演説を始めようとした時、歌われ、思わず絶句してしまった」と、何度も語る黒田さんの姿を覚えている。

激しい南北対立の渦中で、黒田さんは県を1つにまとめる「信濃の国」の力に気付き、県歌制定歌碑建立に全力を注ぐようになった。

黒田さんは本会議の2年後、県議を辞めて参院選に出馬するなどした後、下諏訪農協の組合長に就任。さらに昭和33年(1958)、下諏訪町長に当選して3期務め、在任中の同38年(1963)に県庁舎の建て直しを巡って南信側から松本への移庁要求が噴出した際は、南信側幹部として仲介に奔走した。諏訪、松本地区の新産業都市指定申請の県議会承認と引き換えに、南信側の矛を収めさせた。

また、同43年(1968)の県歌制定では、委員として「信濃の国」を推奨した。更に、同51年(1976)の歌碑建立では、実行委員長として精力的に県内各市町村を回った。県内各戸10円ずつ、学童・生徒からは1円ずつの寄付を集め、長野、松本2か所の歌碑建立を成功に導いた事でも知られている。

分県論や、移庁(県庁移転)論は、明治9年(1876)に長野県が成立して以来、県庁から遠い南信側の不満から何度も噴出し、その度に県議会などで大問題になった。

県短大学長の上條宏之さんは「昭和8年(1933)もそうだったが、分県・移庁運動が盛り上がるのは、不景気の時。県民に近い政治をして欲しいとの要望と結び付いている」という。

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福祉の僧侶、津田白印に光(中国新聞2007-05-19)

明治33年の開設当時の甘露育児院と関係者

明治から大正にかけて笠岡市内で孤児院を運営し、児童福祉に尽くした僧侶、画家の津田白印を再評価する動きが出ている。市民グループが関心を寄せたのを機に大学教授が論文を執筆。25日には孤児救済事業をテーマにしたシンポジウムが同市で開かれる。白印は、同市の浄心寺住職の二男。長崎などで仏教や絵の修業を積んだ。明治33年(1900)、同市の本林寺に民間孤児院を創設。閉鎖までに延べ469人の子供を収容した。

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丁寧に着付け直し 青い目の人形と瓊子展今日開幕(長崎新聞2007-04-07)

答礼人形「長崎瓊子」を丁寧に着付け直しする武さん

昭和初期、米国から日本に贈られた親善人形を一堂に展示する「青い目の人形と長崎瓊子たまこ展」が7日開幕する。長崎市立山一丁目の長崎歴史文化博物館で6日、展示品を報道関係者に紹介、「瓊子」の着付け直しもあった。

親善人形はシドニー・ギューリック氏が昭和2年(1927)、1万2700体を日本の子どもたちにと贈った。戦禍を潜り抜け国内に現存する人形は約300体。同展では165体を集め披露する。会場には同氏の孫が本県に贈った13体などを含め計185体が勢揃い。皇室に献上の50体のうち唯一残った「ミス・アメリカ」などが並び、来場した関係者らは、80年ぶりの“再会”に感動していた。

米・ロチェスター市立科学博物館から同展のために再度里帰りした答礼人形「長崎瓊子」の着付け直しもあり、横浜市の創作人形作家、武文子さんが約1時間かけ作業。丁寧に帯を解き、スミレやスイートピーが描かれた着物の鮮やかな柄が披露されると、会場からは感嘆の声が漏れた。

武さんは「肩がいかり気味だったのを直せたので、ほっとした」と安堵の表情を見せていた。

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※(参考)「答礼人形 瓊子物語」(『長崎新聞』より)→

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手作り紙芝居好評 6日まで長崎歴文博で「瓊子展」(長崎新聞2007-05-05)

「ある人形のものがたり」の紙芝居を上演する芦塚寿重さん

「皆さんは80年前の日米親善人形交流を知っていますか」―長崎市立山一丁目の長崎歴史文化博物館で開催中の「青い目の人形と長崎瓊子たまこ展」会場で、手作りの紙芝居が好評だ。

ゴールデンウイーク最終日の6日まで、午後2時半から数回、長崎親善人形の会会員が来場の家族連れなどに聞かせる。

題名は「ある人形のものがたり」(松尾英夫作・絵)。昭和2年(1927)に日米で相互に贈られた親善人形答礼人形が、戦前の受難の歴史を乗り越え平和大使として再び脚光を浴びるようになるまでを情感豊かに描く。

読み手の1人、芦塚寿重さんは母親が戦前に着た銘仙の着物と羽織姿で登場。会場に再現された昭和初期の小学校教室の教壇に立ち「当時の女先生はこんな感じで授業をしたのかもしれませんね」と話しながら、紙芝居を始めた。

青い目の人形「ル−ス」を出展する茨城県古河市から遠路長崎に来た幼稚園園長、丸山惠久子さんも紙芝居に感心しながら「分かり易く、良い平和学習。帰ったら長崎でル−スが楽しく過ごしていると報告したい」と話していた。

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※(参考)「答礼人形 瓊子物語」(『長崎新聞』より)→

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日米友好の証し「青い目の人形」を展示…長崎市(読売新聞2007-04-08)

人形に興味深そうに見入る園児たち 

米国で排日運動が盛んだった1927年(昭和2年)、日米の親善を願った米宣教師の提唱で日本各地に贈られた「青い目の人形」165体を集めた「青い目の人形と長崎瓊子たまこ展」が7日、長崎市の長崎歴史文化博物館で始まった。80年ぶりの「再会」を果たした人形たちの愛くるしい表情に、訪れた人たちはほおを緩ませて魅入っていた。

開会式で、同館の大堀哲館長は「1体1体には大変な思いが込められている。世界の平和の大切さについて考える機会になればと願っています」と挨拶。長崎少年少女合唱団が童謡「青い目の人形」などを披露した後、館長や地元の幼稚園児らがテープカットして開幕を祝った。

長い年月に顔の塗装が接がれたり、ひび割れたりした人形も

会場には165体のほか、「青い目の人形」答礼人形として米国に贈られた日本人形の1つ、「長崎瓊子」も展示されている。

東京都府中市から見学に来た米国人のベケダム・スザナさん(小学5年生)は「両親から『青い目の人形』の話は聞いていたが、これだけたくさんの人形を見たのは初めて。可愛がられている様子が分かり、嬉しい」と笑顔を見せた。

五島市末広町の会社役員古瀬絹子さんは「小さい子どもの人形には癒やされ、優しい気持ちになれる。人形を見た小さい子も、他者に優しくする気持ちを培うことが出来たらいいですね」と話していた。

6月10日まで(4月17日、5月15日、6月5日は休館)。午前8時半〜午後7時。大人800円、高校生600円、小中学生500円。問い合わせは同館へ。

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※(参考)「答礼人形 瓊子物語」(『長崎新聞』より)→

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80年ぶり“再会”喜ぶ 青い目の人形と長崎瓊子展開幕(長崎新聞2007-04-08)

開幕初日から人形同士の“再会”を見ようと、大勢の市民らが訪れた「青い目の人形と長崎瓊子展」

昭和初期、米国から日本に贈られた親善人形を一堂に展示する「青い目の人形と長崎瓊子たまこ展」が7日、長崎市立山一丁目の長崎歴史文化博物館で開幕し、多くの市民が80年ぶりの人形同士の再会を喜んだ。6月10日まで。

同展には、故シドニー・L・ギューリック牧師が日本の子どもたちのためにと贈り、全国各地で現存している165体をはじめ、同牧師の孫が本県に贈った人形などを含め計185体を展示している。

オープニングセレモニーには関係者ら約230人が出席。大堀哲同館長が「人形一体一体それぞれに様々な思いが込められている。人形交流は、平和の尊さを伝える人と人との交流だと思う」と挨拶した。

長崎少年少女合唱団17人が童謡「青い目の人形」を高らかに唄い、会場に彩りを添えた。この後、主催者と日米両国の子どもたちがテープカットし、開幕を祝った。

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※(参考)「答礼人形 瓊子物語」(『長崎新聞』より)→

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山宣暗殺の黒幕わかった! 歴史教育者協の本庄さん 背後の特高官僚、丹念に追跡(洛南タイムス2007-04-06)

「山宣」の愛称で庶民に慕われ、初の普通選挙で地元宇治から代議士に当選し、治安維持法の強化(改悪)に反対して暗殺された旧労農党の代議士、山本宣治の研究者でもある本庄豊さん=宇治田原町岩山、中学教諭=が山宣暗殺の背後にいた「事件の黒幕」を突き止めた。事件の黒幕が高級官僚だったことは研究者の間で明らかになっているが、それが誰なのかは謎に包まれていた。山宣刺殺犯の出所後の足取りを調べる中、満州を舞台にした接点が決め手となった。黒幕と目される人物は戦後代議士にもなっており、本庄さんは「未だ謎の多い暗殺の真相を突き止め、戦後の政治史にも新たな角度で切り込みたい」と張り切っている。

◇「南山城の光芒」(本紙連載)で謎解き

本庄さんは群馬県生まれ。東京都立大学を卒業し、京都府の公立中学校の教諭として社会科を教えている。現在は京都歴史教育者協議会副会長も務める。

社会科教師としての授業実践を『新 ぼくらの太平洋戦争』(平成14年=2002、かもがわ出版)として出版し、同15年(2003)の『島崎藤村の姪、こま子の『新生』―山宣と1920年代の女性たち』は第13回紫式部市民文化賞選考委員特別賞を受賞。同16年(2004)には『ここから始める平和学』(つむぎ出版)を刊行。

本紙には、近代日本社会運動史を大正から昭和にかけて綴喜郡青谷村(現・城陽市)で発行していた新聞『山城』(全488号)を糸口に南山城地域から掘り起こすライフワークともいえる労作を「南山城の光芒」(同16年=2004=11月から掲載開始)として好評連載中だ。

100号を超えた本紙連載では、山宣を刺殺した犯人・黒田保久二の晩年の消息や終戦の御前会議にも司法大臣として出席し、山宣暗殺事件では東京地検次席検事として事件究明に全力を尽くした地元菟道小で山宣の後輩にあたる松阪廣政の存在―など歴史に埋もれかけた事実の掘り起こしにも尽力。


連載は第3部「『山城』の周辺」で山宣暗殺者の黒田保久二の生涯にスポットを当て、事件の背後にいる黒幕の特定―へと進める予定だ。

黒幕の特定は、綴喜郡役人が残した当時の暗殺報道スクラップ帳や特高官僚にスポットを当てた治安維持法国家賠償同盟の柳河瀬精氏の『告発・戦後の特高官僚』(同17年=2005、日本機関紙出版センター)など関連文献や資料を丹念に掘り起こすなかで浮上。

犯人の黒田が生まれた徳島県阿波市吉野町や黒田が属していた七正義団本部のあった北九州市での調査を踏まえ、懲役12年を半分で出所し、満州に渡ってからの消息などを洗い直し、黒田の消息と共通点のある特高官僚の存在を絞り込み、核心となる「人物の特定」に至った。

戦後、黒田は大陸を引き揚げ、門司に上陸。古巣の七正義団にいた後、昭和27年(1952)、敗戦後の日本で最初に結成された全日自労(小倉自由労働組合)の組合員となっており、死を前にして、戦後代議士となった「えらい人」が事件の黒幕であることを示唆する証言も行っている。

『告発・戦後の特高官僚』では、戦後に国会議員となった元特高官僚54人が列記されている。本庄さんはこの54人の「えらい人」を1人ずつあぶり出し、事件の鍵を握る1人を絞り込んだ。

息の長い周到な調査を踏まえ、本庄さんは「山宣が暗殺された当時、特高警察は右翼テロに対しても警戒しており、山宣暗殺を警察組織が指示するということはあり得ない」と指摘。

「敗戦で軍隊は壊滅したが、時代の先を見ている警察組織はそつなく生き延び、警察官僚が戦後の早い時期に復権した」とし、山宣に対し「特別の反感や怒り」を抱く高級官僚の人物像に迫った。

地元の資料を糸口にした埋もれた昭和史の発掘は満州国をも射程に入れており、戦前・戦中・戦後と続く政治史の底流に迫る取り組みに本庄さんは更なる情熱を燃やしている。

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川上音二郎像が移転 「母校」博多小で除幕 来春まで(西日本新聞2007-01-23)

博多小内に移設された川上音二郎の銅像

福岡市博多区の博多川端商店街入り口に立ち、観光名所にもなっている地元出身の明治の名優「川上音二郎」の銅像が、近くの博多小学校に移設された。川上音二郎像建設期成会の会員や音二郎の縁者、同小6年生らが参加して22日、除幕式があった。銅像の敷地を提供している福岡銀行博多支店の建て替えに伴う移設で、来年春まで同小内に据えられる予定。

音二郎は、現在の博多小校区内で生まれ、同小の「祖先」となった学校にも通ったという。銅像は「博多の偉人にまちづくりに加勢してもらおう」と、地元住民でつくる同期成会が昭和62年(1987)12月に建立。博多人形師の初代西頭哲三郎が原型を制作した。

除幕式には、音二郎の従兄弟の孫である川上浩さん=同市早良区城西三丁目=が参加。戦前に同小の前身の1つ奈良屋小に通っていた浩さんは「小学校を卒業しても見に来てほしいし、親御さんにも教えてあげて」と挨拶した。

博多小の笠原嘉治校長は昨年11月、社会科の授業で自由民権運動を取り上げる際、音二郎を題材にした。音二郎が児童にあまり馴染みがないことから、銅像の移設に「偉大な博多の先輩を、歴史の勉強に生かせる」と期待している。

同期成会の門田敏郎さんも「音二郎もハンサムになって、笑顔を浮かべているように見える」と喜び、同小6年の小原立壮くんは「銅像を色んな勉強のきっかけにしたい」と話していた。

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ふるさとの鉱山に思いはせ 南丹・児童らが史跡見学(京都新聞2007-01-18)

船岡鉱山の坑道跡を背に、鉱物の種類などについて説明を聞く児童たち

京都府南丹市の川辺小(同市園部町船岡)の6年生児童10人がこの程、学校近くの船岡鉱山跡藁無城、NTT船岡無線中継所などを見学し、地域の歴史や姿に触れた。

地域の歴史に触れることで、ふるさとに愛着を持ってもらうのが狙い。

亀岡市在住で鉱物資源に詳しい京都教育大学の井本伸廣名誉教授や地元の歴史愛好者らが講師として参加した。

児童らは最初に、NTTの無線中継所がある通称「万灯山」(標高430m)の頂上に上り、亀岡市や八木町、るり渓、京丹波町の方面を見て位置を確認。この後、中腹にある江戸時代から大正時代初期にかけて銅や亜鉛が採掘された船岡鉱山跡を見学した。

児童らは、坑道や井戸の跡が今も残る採掘現場で、井本さんから鉱物や地層についての説明を受けた後、地面に転がる様々な岩石を手にして種類を確認。鉱石を精錬した跡地では、先人の苦労や地域の昔の姿に思いをはせていた。

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レルヒ少佐の功績を讃え(新潟日報2007-01-12)

冬季五輪金メダリストの荻原健司さん(右)も参加し、レルヒ少佐の遺徳を偲んだ

1月12日の「スキーの日」を記念し、日本で最初にスキーを伝えたとされるオーストリア軍人のレルヒ少佐の功績を讃える顕彰会が、日本スキー発祥の地・上越市の金谷山スキー場で開かれた。少雪のため一本杖スキーの披露はできなかったが、冬季五輪の複合団体の金メダリストの荻原健司さんら約80人がレルヒ像に献花し、スキー文化の普及を誓った。

スキーの日は、明治44年(1911)、レルヒ少佐が国内で始めて同市で一本杖スキーを指導した日に因んで、全国スキー安全対策協議会などが平成14年(2002)に制定した。

顕彰会では、荻原氏が「レルヒ少佐が伝えた日本のスキーの歴史を、しっかり伝えていく事が必要だ」と挨拶。同市の「レルヒの会」メンバー13人も、男性はネクタイにピーコート、女性は袴という当時の正装で献花した。

同日は、荻原氏が五輪などで使用した距離用スキーが同市に引き渡された。平成7年(1995)に寄贈を受けたジャンプ用スキーと合わせ、同スキー場の「日本スキー発祥記念館」で16日から展示する。

スキーの寄贈を巡っては、昨年6月、参議院議員である荻原氏が寄付しようとしたが、公職選挙法に触れる恐れがある事から、市側が急遽10万円で購入する事になった。

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独兵捕虜の娘、異母兄の行方捜索 鳴門市ドイツ館、情報募る(徳島新聞2007-01-11)

エルケさんから届いたユリウスさん(左)、周太郎さんが収まった写真(大正11年12月25日撮影)

「血を分けた日本の兄を捜して」―第一次大戦当時、板東俘虜収容所で暮らしたドイツ兵捕虜の末娘が、北海道で父親と日本人女性との間に生まれた子供の行方を捜している。

北海道で捕虜の仕事仲間だった松浦周太郎元運輸相の二男光二さん=札幌市在住=の元にドイツから手紙が届き、この程光二さんから、鳴門市ドイツ館に経緯などが伝えられた。同館は館報「ルーエ」最新号で、捕虜に関する情報提供を呼び掛けている。

昨年9月、ドイツ館の田村一郎館長に光二さんから計48ページに及ぶ研究文「ピウカに住んだドイツ人〜映画バルトの楽園に触発されて」が届いた。

研究文によると、兄を捜しているのはドイツ・ハンブルク在住のエルケ・クランツさん。父は第一次大戦当時、中国・青島で砲兵隊として日本軍と戦闘し、大阪や徳島、板東収容所を転々とした元ドイツ兵捕虜のユリウスさんで、エルケさんは4人兄弟の末娘という。

ユリウスさんは、大正9年(1920)に収容所から解放され北海道に渡り、欧州で棺に用いる高級材とされる楢の木などを輸出するドイツの商社に就職。同12年(1923)頃、ドイツ人女性エリザベートさんと結婚した。ピウカ(アイヌ名、現在の美深町)に居宅を構え、エルケさんの姉と兄が生まれている。

ピウカで材木工場を営み、商社とも取引していたのが、戦後地元から中央政界に進出し労働・運輸大臣を歴任した周太郎さん。ユリウスさんとは同年から約4年間、家族ぐるみの付き合いだったという。

エルケさんが捜しているのは、ユリウスさんが結婚直前まで交際していた日本人女性との間に生まれた男子。エルケさんは平成10年(1998)、亡くなる直前のエリザベートさんから事実を知らされたが、相手の女性や男子の名前などは全く不明。

エルケさんは、同12年(2002)9月から手紙をやり取りするようになった光二さんに男子の行方を捜してくれるよう依頼。光二さんは郷土史を調べたり、ユリウスさんの消息についてドイツ館に照会するなどしたが手掛かりはなく、エルケさんに不明を伝えていた。

光二さんは昨年、同収容所を舞台にした映画「バルトの楽園」が公開されたことを機に、これまでの経緯などをまとめた研究文をドイツ館に送った。

田村館長は、収容所研究者らに送付される館報(国内外に約1000部配布)で光二さんの研究文を紹介。「何かの偶然でユリウスさんに繋がる手掛かりが得られるかもしれない」と話している。

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上越でレルヒ少佐所縁品展(新潟日報2007-01-10)

レルヒ少佐直筆の文字や写真、愛用の品などが展示されている「レルヒ少佐〜夫人と語った日本の思い出〜」展

日本に初めてスキーを伝えたとされるオーストリアの軍人、レルヒ少佐所縁の品の展示が10日、上越市の「日本スキー発祥記念館」で始まった。少佐が自宅に飾っていた日本画などが公開され、上越を愛した少佐の人柄を身近に感じることができる。

レルヒ少佐は明治43年(1910)に来日。翌年、配属先の高田(現上越市)でスキーを伝えた。現在も遺族が市民に遺品を寄贈するなど、市民レベルでの交流が続いている。

今回はこれまで公開されなかった6点を含む17点を展示した。若き日のレルヒ少佐やイルマ夫人の写真や、「高田」の文字が刻まれた愛用の煙草入れ、春日山を描いた日本画などが飾られ、少佐が高田をこよなく愛した様子を知ることができる。担当する市文化振興課は「展示をきっかけに、レルヒ少佐のことをもっと知ってほしい」と呼び掛けている。

2月25日まで。月曜休館。問い合わせは同課へ。

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映画「七人の侍」は智頭がモデルだった!?(日本海新聞2007-01-10)

映画「七人の侍」と同じ舞台が記された資料について織田町長(手前)に説明する村尾さん

農民に雇われた侍が野武士から村を守る故・黒沢明監督の名作「七人の侍」と同様の“出来事”が、中世の鳥取県智頭町であった事が、横浜市金沢区の金沢文庫所蔵の古文書に記されている。現在の同町那岐地区で、農民が自己防衛のために用心棒を雇い、村を守る防護柵を作った費用などが綴られた文書は、映画のシナリオに酷似。関係者や専門家の話からも、この資料が参考になった可能性が高く、織田洋智頭町長は「多くの人に町の歴史と文化財などを合わせて見て頂き、地域おこしに役立てていきたい」と話している。

資料は横浜市金沢区にある金沢文庫所蔵の「称名寺文書」の1つ「因幡国智土師ちはじ郷上村ごううえむら結解状けちげじょう(暦応5年・康永元年・興国3年=1342)。町誌などによると、那岐地区は鎌倉時代の末期、智土師郷東方上村(現・同町奥本)と呼ばれ、幕府の重要な祈願寺であった称名寺の領土となっていた。しかし、南北朝の動乱期に入ると幕府の後ろ盾を失った寺領の農民たちは反幕府勢力から略奪を受けるようになり、自己防衛手段を取らざるを得なかったという。

結解状中世の収支決算書)には、用心棒8人分の費用24石のほか、防護柵や堀を作ったとされる「城こしらえ」作業員の食料など、村の防衛に使った費用が記されている。

「影武者」「まあだだよ」「乱」などの黒沢作品に出演し、監督と親交の深かった俳優の油井昌由樹さん=東京都=は20年程前に「江戸勤めの侍の日常生活を描いた作品を考えている時に、『農民が武士を雇った資料があった』という記事のようなものを見て、そこから一気に『七人の侍』のシナリオが出来上がった」と黒沢監督から聞かされたという。

智頭町誌編纂室の村尾康礼さんは「30年以上、歴史研究に携わっているが、農民が武士を雇う資料は称名寺文書しか知らない」と黒沢監督が見た資料が同一のものであった可能性を指摘する。

残念ながら、同町が作品のモデルとなったかどうか真相は、はっきりしない。村尾さんは「智頭町に『七人の侍』に似た歴史の舞台があった事は事実。そこに住む人が郷土の歴史を知り、語ることで、誇りや喜びを見い出して欲しい」と同町の歴史を通して郷土を愛する心が培われる事を願っている。

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地蔵紹介のマップ作製 宮津のグループ 写真付き、伝承も(京都新聞2007-01-10)

地域の地蔵を紹介した「宮津のお地蔵さま めぐりあいマップ」

京都府宮津市のまちづくりグループ「宮津美しさ探検隊」がこの程、安産祈願や幼児の夜泣き封じなど様々なご利益で地域の人々に親しまれてきた市内の地蔵を紹介した「宮津のお地蔵さま めぐりあいマップ」を作製した。

観光施設の紹介が中心の従来の地図とはひと味違った内容を目指して企画した。

同隊の会員のほか、市内の旅館関係者らも加わり、昨年7月に作業を始めた。

メンバーは手分けして、各地蔵にまつわる言い伝えやご利益を調べ、写真も撮影。同時に昔からある石碑や灯籠も含め、300体・基以上を写真付きで掲載した。

各地蔵の位置は、市街地をメーンに描いたマップ上に、一目で分かるように示した。子どもの水難防止と遊郭の女性を守った「浜のお地蔵さん」(同市新浜)や、おねしょを治す「堀越地蔵」(同市山中)など、はっきりと由来の分かる47体には、短い説明も加えている。

同隊代表の永久徹さんは「市内の隠れた魅力を発見する道具の1つとして役立ててほしい」と話している。

マップはA2判で、2000部作製。市内の観光案内所や旅館などで無料配布する。

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「テレビの父」足跡辿る 浜松で高柳健次郎展(静岡新聞2006-12-17)

「テレビの父」と呼ばれる故高柳健次郎氏の偉業を紹介した企画展

浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の教授で「テレビの父」と呼ばれる故高柳健次郎氏の偉業を振り返る企画展「イロハの“イ” テレビ事始―高柳健次郎展」が16日、浜松市蜆塚の同博物館で始まった。

高柳氏は大正15年(1926)12月25日、世界で初めてブラウン管を利用した送受信実験に成功した。快挙達成から80周年の節目に因み、現在まで息づくテレビの原理を発明した郷土の偉人に改めてスポットを当てようと企画された。

高柳氏の生い立ちやテレビが開発されるまでの流れをパネルで紹介したほか、実験で映した「イ」の字の雲母板、直筆のアイデアノートなど貴重な遺品などが並ぶ。テレビが家庭に普及し始めた昭和30年代の茶の間を再現した展示や、最先端のテレビ技術を体験できるコーナーもある。

同展は1月21日まで。入場料は大人400円、高校生200円、小中学生は無料。24日午後2時から、浜松市広沢の西部公民館ホールで、高柳記念電子科学技術振興財団の大森悠生顧問による講演会がある。聴講無料だが予約が必要。定員は先着80人。休館日など詳しくは同博物館へ。

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