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姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)

震災当時には避難所となった五村別院

◇湖南・草津市 琵琶湖博物館でギャラリー展示中

県立琵琶湖博物館(草津市)では6月7日まで、ギャラリー展示「100年前の大地震〜姉川地震に学ぶその備え〜」を開催している。

平成21年(2009)は、姉川地震(明治42年=1909)の発生から100年目にあたり、その間、近畿では大規模な地震があったが、滋賀県を中心とする大規模な地震は発生していない。姉川地震から100年という節目の今年、滋賀県の防災への備えを考える機会として開催するもの。

この展示では、100年前に発生した姉川地震について、当時の災害記録写真を展示解説するほか、防災シェルターや資機材等も展示し、また、日本の地震がどうやって起きているかなどの自然科学的な解説と、現在の地震防災の取り組みを紹介している。

尚、関連イベントとしてGW中に、起震車「グラグラ号」による地震の揺れ体験や防災ヘリコプター「淡海」による救助訓練が行われた。



※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

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100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)

姉川地震当時の被害を紹介した写真パネル

100年前に県内で起きた姉川地震を振り返る資料展が、草津市の県立琵琶湖博物館で開かれている。来月7日まで。無料。

姉川地震は明治42年(1909)8月、県北部を中心に発生した。震度6に当たる「烈震」と呼ばれる強い揺れを観測し、県内で41人が死亡、約3500の家屋が倒壊した。

発生から100年の節目に同館が企画。現在の長浜市や虎姫町で収めた被災当時の写真や、調査報告書に記載がある被害状況などを約60点のパネルで紹介している。

屋根まで崩れ落ちた民家の写真は、被害の大きさを生々しく伝えている。現在の姿と一緒に展示された小学校や寺院の写真もあり、復旧に要した人々の苦労が垣間見える。

県内にある活断層を解説したパネルや被災時に不可欠な備蓄品の展示を通じて、備えの大切さを呼び掛けている。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

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村山実銅像:何処へ 尼崎産高統合、移転先決まらず(毎日新聞2009-05-10)

移転先が決まらない村山実さんの銅像

市立尼崎産業高の校門に立つ阪神タイガースの元エース故・村山実さんの銅像が、同校と市立尼崎東高との統合で移転せざるを得なくなり、関係者を悩ませている。同校は統合で校名や場所も変わるが、銅像を立てたOBらは「この場所でなければ意味がない」と譲らない。新設予定地から基準値を上回る鉛や砒素が検出されたため、統合は1年先延ばしされ平成23年(2011)春になった。同校は「猶予期間はあと2年。早く置き場を決めなければ」と頭を抱えている。

村山さんは同校の前身、住友工業高のOB。昭和34年(1959)に阪神に入団、通算222勝を挙げた。同校OBらが「偉大な先輩を学校の誇りにしてもらおう」と平成16年(2004)の七回忌に合わせ校門近くに建立した。「ザトペック投法」と呼ばれた投球フォームを再現した銅像は、市民にも親しまれている。

統合後の跡地利用は決まっておらず、OBらは「銅像村山さんがプレーしたこの場所に残したい」とするが、学校側は「OBの思いは尊重したいが、学校がなくなるので、銅像も何処かに移したい」と意見が合わない。

現役の野球部員らにとって村山さんは、「伝説の大スター」。山住豪志主将は「銅像に見守られているという心強さは大きい。尼崎産業高の名前が消える前に甲子園に行き、村山先輩を超えたい」と話していた。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→Mr.タイガース・村山実氏の銅像の落ち着き先が宙ぶらりん!

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「障害児教育の母」知って「筆子・その愛」9日上映会 さいたま(読売新聞2009-05-05)

石井筆子を演じる常盤貴子さん(左)

「日本の障害児教育の母」と呼ばれる石井筆子の生涯を描いた映画「筆子・その愛―天使のピアノ」の上映会が9日、さいたま市民会館おおみや(大宮区下町)小ホールで開かれる。

筆子は長崎県生まれ。華族女学校(後の女子学習院)の仏語教師時代に出会った津田塾大学の創設者・津田梅子と共に、米国へ派遣された。外国人の接待役を務め、「鹿鳴館の華」と称され、女子教育の普及活動や貧しい家庭の子女への保母教育などに尽力した。

次女と三女が早世し、若くして夫とも死別したが、知的障害のある長女の養育を通して、日本初の知的障害者施設「滝乃川学園」(現在は東京都国立市)創設者・石井亮一と知り合い再婚。知的障害者の福祉や教育に力を注いだ。

映画は、平成17年度(2007・4〜08・3)に「児童福祉文化賞」を受賞。筆子役は女優の常盤貴子さん、亮一役は歌舞伎俳優の市川笑也さんが演じる。筆子は結婚祝いに、天使が刻印されたピアノを実家から贈られた。その「天使のピアノ」は現在も同学園に残されている。

同映画の山田火砂子監督自身、重度の知的障害のある娘を持つ。筆子の生き方に感銘を受けて映画化を決意したといい、「社会福祉に携わる人だけでなく、多くの人に見てもらえたら嬉しい」としている。

午後2時開演。当日は山田監督の舞台挨拶を予定。定員約300人。当日券は大人1300円、障害者と60歳以上は1000円。問い合わせは、現代ぷろだくしょんの上映担当へ。


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企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)

◇「写真や報告書」「メカニズム」「防災グッズ紹介」の3部構成、揺れ体験や救助訓練も―6月7日まで

県北部を震源に多数の死者を出した姉川地震(明治42年=1909)を振り返る企画展示「100年前の大震災・姉川地震に学ぶその備え」が、県立琵琶湖博物館(草津市下物町)で始まった。6月7日まで、無料。

姉川地震は、虎姫町付近を震源に震度6程度の揺れが起き、県内をはじめ岐阜県にも被害が及んだ。展示は、

・当時の写真や報告書などによる被害の説明
・地震のメカニズムの解説
・緊急時に使う浄水器などの防災グッズの紹介

の3部で構成されている。

29日から5月6日までのゴールデンウイーク期間中は、同博物館駐車場に起震車「グラグラ号」が訪れ、地震の揺れ体験もできる。また29日には県の防災ヘリ「淡海」による救助訓練も行われる。

月曜定休(月曜が祝日の場合は開館)。午前9時半〜午後5時。問い合わせは同博物館へ。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

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姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

姉川地震の災害記録写真に魅入る来館者たち

草津市の琵琶湖博物館で25日、明治42年(1909)に県北部の姉川付近で発生した姉川地震や、地震防災の取り組みを紹介する「100年前の大地震―姉川地震に学ぶその備え」が始まった。

地震の発生から100年となる事から、防災意識を高めてもらおうと、同館と県が企画した。姉川地震では、地震の規模を示すマグニチュードは6・8で、岐阜県を含め41人が死亡、約2400戸が全半壊した。

倒壊した民家や寺社の様子を撮った災害記録写真や地震の調査報告書、地震の起きる仕組みなどを解説したパネル約130点を展示しているほか、耐震シェルターや浄水装置など防災グッズも出品している。6月7日まで。無料。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)

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皆知ってる?「学生時代」…青学大に歌碑完成(読売新聞2009-03-18)

歌碑の除幕式で「学生時代」を歌うペギー葉山さん

青山学院大学のキャンパスをモデルにしたヒット曲「学生時代」歌碑が東京・渋谷区の同大学構内に完成し、18日、この歌を歌ったペギー葉山さんらが出席して除幕式が開かれた。

♪蔦の絡まるチャペルで〜♪―で始まる同曲は1960年代に大流行。同大学出身の音楽家の平岡精二さんが、高等部の後輩だったペギーさんの姿を思いながら作ったと言われ、今も青春SONGとして親しまれている。

歌詞の通り、蔦の絡まる礼拝堂前で行われた除幕式で歌声を披露したペギーさんは、「歌う度に戦後間もない頃の青春を思い出す。歌碑と共に、何時までも歌い継がれて欲しい」と話した。

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海を渡った日米親善人形「長崎瓊子」写真見つかる 島原第一小、82年前の送別会か(長崎新聞2009-02-13)

島原市立第一小で見つかったミス長崎(長崎瓊子)の写真

友好の証しとして昭和2年(1927)に米国へ贈られた答礼人形「ミス長崎(長崎瓊子たまこ)」の写真が、島原市城内一丁目の市立第一小に残っている事が分かった。瓊子の写真が島原半島で見つかったのは初めて。来月、島原城で公開される。

当時の新聞記事や同小の沿革誌の記述に照らし合わせると、写真は同年10月11日、島原中(現県立島原高)であった瓊子の送別会で撮影されたと推察される。県内で残存している瓊子の写真は他に、佐世保市と西彼時津町の計4枚だけと云う。

写真は白黒。星条旗と日の丸、リースなどで飾られた祭壇の中央に身丈約80cmの瓊子が置かれている。周りには箪笥や長持ち、日傘などの“嫁入り道具”が添えられている。

瓊子は、昭和2年(1927)に米国から日本各地に贈られた「青い目の人形」のお礼として制作。県内7か所を巡回し盛大な送別会が開かれ、他の都道府県の答礼人形と共に米国へ渡った。

写真は、同小倉庫に残されていた資料の中から大村校長が発見。昭和3年(1928)の同小新校舎の落成式や当時の校長の写真などと一緒に保管されていた。同小には青い目の人形「リトル・メリー」も残っている。

島原親善人形の会は「これまで新聞記事などでしか当時の事は窺い知れなかったが、写真が見つかり喜んでいる。リトル・メリーが残る第一小にあったことも意義深い。人形に込められた日米交流の思いを大切に、地域の歴史の1つとして子どもたちに伝えていきたい」としている。

写真は3月20日から4月5日まで、島原城観光復興記念館で開く日米交流親善人形展「青い目のリトル・メリーと仲間たち」で公開される。問い合わせは同会事務局へ。

― ◇ ◇ ◇ ―


※(参考)「答礼人形 瓊子物語」(『長崎新聞』より)→

― ◇ ◇ ◇ ―


※(参照)「丁寧に着付け直し 青い目の人形と瓊子展今日開幕」(長崎新聞2007-04-07)→
※(参照「80年ぶり“再会”喜ぶ 青い目の人形と長崎瓊子展開幕」(長崎新聞2007-04-08)→
※(参照)「日米友好の証し「青い目の人形」を展示…長崎市」(読売新聞2007-04-08)→
※(参照)「手作り紙芝居好評 6日まで長崎歴文博で『瓊子展』」(長崎新聞2007-05-05)→

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残雪の野麦峠、女工姿で歩く 先人の苦労体験(岐阜新聞2008-05-19)

女工姿で残雪の峠道を歩き、先人の苦労を体験する子どもたち

明治、大正時代に、飛騨の女性が信州の製糸工場へ出稼ぎに行った女工哀史の舞台として知られる岐阜、長野県境の野麦峠(1672m)で18日、第26回野麦峠まつりが開かれた。地元高山市高根町の子どもたちは、女工姿などで峠道を辿り、先人の苦労を体験した。

同祭りは、同市の高根村観光開発公社と、峠で接する松本市の観光関係団体で創る実行委員会が開催。

旧野麦街道のうち、松本市側から高山市高根町野麦のお助け小屋までの1・3kmを歩く記念山行には、子どもから大人まで高山市の約70人を含む約400人が参加。子どもたちは、女子はかすりの着物に手拭いを被った女工、男子は歩荷ぼっか姿で、落ち葉や残雪に覆われた山道を進んだ。

朝日小学校6年生の下林英里奈ちゃん=同町中洞=は「険しくて、もっと雪があったら大変だと思う。家族のために生き生きと働きに出掛けた事は凄い」と、女工たちの逞しさに思いをはせていた。

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戦火に散った名投手・嶋清一 DVDで後世に 和歌山(産経新聞2008-01-04)

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昭和14年(1939)の「夏の甲子園」で、和歌山県立海草中学(現・向陽高校)の左腕エースとして、チームを全国制覇に導き、大学時代に学徒動員のため24歳で戦死した投手、嶋清一の偉業を後世に伝えようと、大阪府立高校教諭、山本暢俊さん=和歌山市在住=らが、の写真や生前のを知る人たちへのインタビューなどを収録したDVDを製作した。山本さんは「野球界で大活躍したであろう選手が戦争で未来を絶たれた。その事実を伝えたい」と話している。

は昭和14年(1940)の第25回全国中等学校優勝野球大会に出場。流麗なフォームから繰り出される剛速球に相手チームの打者は歯が立たず、準決勝と決勝でノーヒットノーランを達成するなど5試合を完封し、球史に残る大投手として知られる。卒業後は明治大学に進学したが同18年(1943)に学徒動員で戦地へ赴き、同20年(1945)3月に戦死した。

山本さんは、平成16年(2004)夏、戦時中に和歌山市内で開かれた出征学生らの壮行会の写真を偶々目にする機会があった。海草中野球部の元メンバー6人が、万歳する人たちの前で、神妙な面持ちで正座していた。の存在を知る程度だった山本さんは写真に写る不安げなの表情を見て、「どんな気持ちで壮行会に出たのだろう」と興味を持ち、伝説の投手の人生を辿る作業を始めた。

写真に写った6人のうち、5人は亡くなったが、古角俊郎さんは、那智勝浦町に暮らしていた。「優しくて、人間味のある男」とを評する古角さんは、新宮高野球部監督を務めた時の教え子、田中弘倫さんを山本さんに紹介。田中さんがDVDの製作を企画し、山本さんらと取材や撮影を進めた。

古角さんの証言やと対戦した事がある元近鉄バファローズ監督の西本幸雄さんらの話を中心に、現在の向陽高野球部の練習風景も収めた。

「当初抱いていた“豪腕”というイメージは取材が進むにつれて変わった。気が良くて人に優しい、繊細な人」と山本さんは振り返る。また、古角さんは「あの戦争では、その後も生きていたら野球の歴史を塗り替えた人たちがたくさん亡くなった」と訴えた。DVDは非売品で、県立図書館や高野連などに寄贈された。

― ◇ ◇ ◇ ―


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トルコ軍艦の遺品 東京で展示(紀伊民報2007-06-21)

トルコ記念館に展示されているエルトゥールル号の遺品

串本町樫野のトルコ記念館に展示されているトルコ軍艦「エルトゥールル号」の遺品や資料が、10月から東京都三鷹市の中近東文化センター付属博物館で開かれる「日本とトルコ友好の架け橋 エルトゥールル号回顧展」に出展される。エルトゥールル号遭難の出来事は日本とトルコの友好の礎。松原繁樹町長は「回顧展を通じて串本をもっとアピールしたい」と話している。

中近東文化センターは、トルコなど中近東の歴史的文化を研究する機関で、三笠宮様が名誉総裁を務める。博物館では常設の中近東の美術と工芸の展示のほか「トルコ文明展」や「トルコ陶器とタイル展」など、これまでも様々な特別展が開かれている。

エルトゥールル号回顧展は約5年前に企画され、今年になってセンターから串本町に協力依頼があった。

計画によると、開催期間は10月6日〜来年2月17日。トルコ記念館にある遺品や資料の一部を出展し、センター所蔵の資料などと一緒に展示する。エルトゥールル号の派遣から遭難、救出、事件後の日本とトルコの交流までの流れを分かり易く紹介するという。

期間中に「串本の日」を設け、串本の文化や物産の紹介、販売もする予定。

エルトゥールル号は明治23年(1890)9月16日、日本での任務を終えて帰国途中、暴風に遭い、串本町樫野沖で遭難。乗組員約650人のうち69人が島民によって救出された。

遭難事故があってからトルコと串本町は5年毎に追悼式を開催。1992年からは青少年をトルコに派遣したり、逆にトルコの青少年を受け入れたりする青少年派遣事業を続けている。平成18年(2006)9月には獅子舞演舞団がメルシン市で開かれた民俗芸能祭に参加、今年3月には桜の苗木を贈るなど、町を挙げて交流している。

遭難事故は史実として小中学校の教科書に掲載され、テレビ番組でも紹介された。今年1月にはトルコの研究者による遺品発掘に向けた海底調査も実施され、全国的に注目されつつある。

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童謡「赤い靴」の親子像 小樽に建設!(小樽ジャーナル2007-06-04)

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童謡「赤い靴」親子の像を小樽に造ろうと、建設委員会が2月に発足し、6月4日から募金の協力を全国各地に求めている。

童謡「赤い靴」は、野口雨情が作詞した詩に、本居長世が曲をつけて、大正11年(1922)に誕生した。札幌の「北鳴新報社」で勤務していた雨情と同居していた鈴木志郎の妻・かよが、幼くして手放した娘“きみ”への思いを打ち明けた事で誕生した童謡。

♪赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった…♪
この歌詞は、雨情が母親・かよの話から作った詩で、娘が異国の地で元気に暮らしているだろうという期待を込めて作られたが、現実は全く違っていたという。

童謡の主人公“きみちゃん”は、明治35年(1905)現静岡県清水市で、岩崎かよの長女として誕生した。貧因などの事情から、未婚の母かよは、当時3歳の“きみ”を連れて函館に渡り、鈴木志郎と出会い結婚した。

やがて夫婦は、新天地を求めて開拓地真狩村(現留寿都町)の平民社農場に入植したが、病弱な“きみ”を連れてゆけず、泣く泣く函館にいた外国人宣教師C.W.ヒュエット師夫婦の養女として預けた。

C.W.ヒュエット師は東京の青山学院の教師となり、米国デンバーに帰国する事になり、重い結核を患っていた“きみ”には長い船旅は困難と、東京の孤児院に託された。そして、僅か9歳という幼い“きみ”は、明治44年(1911)9月15日、東京麻布の病院で亡くなった。小さな亡骸は、青山墓地に埋葬された。

鈴木志郎は、野口雨情石川啄木と共に、小樽の「小樽日報社」に再就職したが、翌年に廃刊となり、鈴木夫妻は、大正3年(1914)にカトリック倶知安教会で洗礼を受けた。昭和15年(1940)小樽に移住し、カトリック富岡教会の門前に家を構えた。熱心なキリスト信者として小樽で暮らしたが、2人共亡くなり、最上町のカトリック墓地で永眠している。2人には、数名の子供や孫がおり、現在でも小樽に住んでいる人もいる。

この「赤い靴」にまつわる像は、既に全国4か所に建てられている。生まれ故郷の静岡県清水市に「母子像」。留寿都町「赤い靴公園」に「きみちゃんの像」「開拓の母の像」。亡くなった麻布十番の商店街に「きみちゃんの像」。母親・かよが、“きみちゃん”が元気に旅たったと信じていた、横浜・山下公園に「赤い靴女の子の像」の4か所。しかし、親子3人が揃った像はなく、小樽に初めて建設される。

赤い靴鈴木一家が小樽の町とカトリック教会と縁が深い事から、「今日の家族関係の荒廃の現状を憂いて、親子の絆の大切さを託したい。この世では薄幸だった“きみちゃん”が、天国で両親と幸せに暮らしている姿を夢に描いて」(高橋昭三建設委員長)と、カトリック富岡教会(富岡一)前に建立する。

親子3人の像のデザインや原型作成は、版画家・造形作家のナカムラアリさんが行う。亡くなった“きみちゃん”と同じ年頃の娘を持つナカムラアリさん。カトリック富岡教会・新海神父が、「8歳の女の子を持っているので、母と子の関係の思いが強いのでは」と製作を依頼。台座を含み高さ140cmのブロンズ像となり、台座には「赤い靴」のオルゴールが鳴る仕組み。義父の鈴木志郎と母・かよが椅子に座り、小さな“きみちゃん”の手と肩に触れ、幸せそうな笑顔で顔を合わせ、親子の絆の大切さが深く刻まれる像となる。

像の原型制作費80万円、像と台座制作費420万円、広報・渉外・事務費など30万円、除幕式費用60万円、オルゴール設営費60万円、メンテナンス料など30万円の計650万円の予定で、小樽市民や各団体などに募金を呼び掛けていくという。鈴木志郎氏の命日となる11月23日の勤労感謝の日に除幕式を予定している。制作費などの募金は、この日まで行い、それ以降の募金はメンテナンス費にするという。団体1口10000円、個人1口1000円より。問い合わせは「赤い靴・親子の像」建設員会 カトリック富岡教会内へ。

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「西洋料理発祥の碑」建立30周年を祝う…長崎(読売新聞2007-11-22)

記念碑の前での式典に臨む料理人たち

国内での西洋料理発祥の地とされる長崎市で21日、「西洋料理発祥の碑」建立30周年を祝う式典が行われた。全国から集まった西洋料理人80人が、お馴染みの白いコック帽、シェフコート姿で列席し、食の文化発信を誓った。

全国のコックで作る全日本司厨士協会が、発祥の地を調査。その結果、幕末の文久3年(1863)、長崎市伊良林に西洋料理店「良林亭」(後に自由亭)がオープンした事をもって、国内での西洋料理発祥とした。良林亭はその後、場所も変え、現在はその建物がグラバー園に移築されており、協会は昭和52年(1977)、記念碑を同園に建立した。

式典では、記念碑の前で、同協会の細井和芳・顕徳章審議会会長が「記念碑がある限り、その趣旨と由来、西洋料理文化を継承し、食文化に貢献したい」と挨拶した。また、江戸時代に長崎・出島でオランダ商館の人々が食べていたという西洋料理のうち、スープと揚げパンを再現、グラバー園を訪れた観光客にふるまった。

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国際港敦賀の繁栄描く(日刊県民福井新聞2007-11-29)

稽古をする出演者たち

◇1、2日に市民劇 『熊谷ホテル物語』

空襲で焼けたが、戦中まで敦賀市元町にあった熊谷ホテルを舞台に、港町敦賀の繁栄を回顧し、平和を願う市民劇「熊谷ホテル物語」が12月1日、2日の両日、敦賀市民文化センターで上演される。史実とフィクションをない交ぜにした劇の全編に流れるのは「愛」だという。

◇解説交え 『躍動的舞台に』

脚本は花木真子さん。熊谷ホテルの関係資料は乏しかったが、ホテル経営者の遺族からペナントなどを探し出してもらい想像力を膨らませた。

リトアニア領事代理だった故杉原千畝氏や、杉原氏発給のビザで敦賀に上陸したユダヤ人難民も登場させ、国際港敦賀の活気を描く。

恋に破れて敦賀に流れてきて同ホテルで働くようになったチヨがヒロインで、アマチュア劇団「いっかいこっきり」の団員、川口慶子さんが演じる。アマチュアや公募で参加した市民まで多彩な人たちが奮闘する。制作を担当する田代牧夫さんは「場面転換が多いのが特徴。理解を助けるためスクリーンに文字の解説を映しながら展開する。躍動的な舞台になればいいと思う」と話し、来場を歓迎している。

1日は午後7時、2日は同2時開演。前売り入場券は大人2000円、大学生以下1000円(何れも当日は500円増し)。同センターなどで販売中。

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ユダヤ難民の足跡まとめる 報告書『人道の港 敦賀』発刊(福井新聞2007-11-29)

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戦前、故杉原千畝氏の「命のビザ」で福井県敦賀市に上陸したユダヤ難民の行動や、市民との関わりなどを調べてきた日本海地誌調査研究会が、調査結果をまとめた報告書『人道の港 敦賀』を発刊した。聞き取り調査などから、ユダヤ難民にとって敦賀が単なる通過点ではなく、市民と交流があった事が分かった。

昭和15年(1940)9月から同16年(1941)6月まで、敦賀に入港したユダヤ難民は約6000人といわれる。敦賀駅から列車で神戸などに向かい、米国など国外へ旅立っていった。

同研究会は殆んど知られていない当時の実情を記録に残そうと昨年3月、会員8人で「敦賀上陸ユダヤ難民足跡プロジェクトチーム」を結成。今年3月まで1年間かけ、聞き取りを中心に調査した。

聞き取りは70、80歳代の市民ら28人に実施。ユダヤ難民敦賀駅に溢れていたり、街中を歩いていたという目撃談が得られた。

更に、港近くの銭湯が浴場を無料開放した事や、駅前の時計店が時計を買い取ったり、食べ物を提供していたなどの証言があり、市民との交流の一端も分かった。

聞き取り以外でも時計店が買い取った時計の実物、ユダヤ難民が宿泊した旅館の写真も見つかった。

報告書ではこの他、大正時代に敦賀へ入港したポーランド孤児や、昨年10月から旧敦賀港駅舎で開かれているユダヤ難民の足跡などを紹介したパネル展「人道の港 敦賀」についても解説している。

報告書はA5判、64ページで1000部印刷。国会図書館外務省外交史料館、福井県、市の関係団体、市内の小・中・高校、短大などに配布した。希望者には実費で販売する。問い合わせは同研究会の繁田良三さんへ。

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丹後縮緬の始祖 絹屋佐平治 宮津の元教諭ら 紙芝居作り上演(京都新聞2007-11-27)

佐平治が糸撚り機を初めて見るシーンを説明する森山さん

丹後縮緬ちりめんの始祖で江戸時代中期の絹屋佐平治らの功績を現代に伝えようと、宮津市内の元教員らが紙芝居「たんごちりめんものがたり」を制作し、丹後各地の小学校や寺院などで上演している。

佐平治は、縮緬を織る技法を京都の西陣から丹後に持ち帰り、享保5年(1720)に初めて丹後縮緬を織り上げ、丹後に技術を広めた。後に峰山藩主京極高長から功績を讃えられて森田治郎兵衛と改名、藩主らの菩提寺、常立寺(同市峰山町)に墓が今も残る。

京都府宮津市や与謝野町で小学校教諭をしていた森山道子さん=同市喜多=が紙芝居のストーリーを考え、与謝野町出身の小巻正直さん=兵庫県芦屋市=が絵を描いた。

2人は「丹後の機音を子どもたちに伝えよう」と、昨年10月から制作を開始、手織りの機織り場に通ってイメージを膨らませたり、『峰山郷土史』など資料を読みながら時代考証も行い、今年8月に完成させた。

上演では、森山さんが佐平治ら登場人物を丹後弁で声色を変えて語り、機織り歌も交える。ラストシーンは、子どもたちが「丹後で縮緬が織れるようになって、おとうもおかんも機嫌がええわ」と飴屋から笑顔で飴を買う。

2人は「佐平治が縮緬の技術を伝え、300年も丹後が潤った。丹後を出て行く子どもたちが多いが、何れ丹後に帰って身に付けた技術や特技を生かして欲しい」と願っている。

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セーラー服導入、平安女学院が元祖 大正9年、通説より1年早く(京都新聞2007-10-05)

平安女学院の初代セーラー服。付け替え可能な白い襟が清らかな印象

セーラー服を学校制服として日本で初めて導入したのは、京都市上京区の平安女学院だった事が、岡山県の制服メーカーの調べでわかった。通説だった福岡女学校(現・福岡女学院中高、福岡市)の大正10年(1921)を1年だけ遡る。

明治末期から袴とバックルを統一していた平安女学院が、洋式制服を導入したのは大正9年(1920)。ウエストにベルトが付いた紺色のワンピースで、胸から開いた大きな襟と胸元のリボンが特徴だった。同校が平成12年(2000)に発行した『写真で見る125年史』には、「好評で他校生からも羨望視された」と紹介されている。

「ユニフォームミュージアム」を持つ岡山県の制服メーカー「トンボ」が、大正時代に女子制服を導入していた約15の学校に調査して判明した。

同社によると、セーラー服はイギリス海軍で1857年(安政4)にデザインされ、19世紀末には制服としてヨーロッパ各国の女生徒に広まった。日本では大正10年代(1921〜26)、学校関係者に欧米人がいるミッション系の学校で相次いで採用され、全国に広まった。今でも中学で半数以上、高校でも2割強の学校でセーラー服が着用されているという。

同社ユニフォーム研究室長の佐野勝彦さんは「京都は元々着る物への関心が高かったために、当時最もモダンだったセーラー服を受け入れる素地があったのでは」とみている。

平安女学院は「他校に先駆けたという認識はあったが、日本で初めてとは知らなかった。歴史と伝統を重んじる学院にとって誇りになる」と話している。

同学院は昭和52年(1977)に中高校生の制服をブレザーに一新したが、平成18年(2006)に中学校のみセーラー服を復活させている。

→※(参照)「制服の歴史」(学校法人 平安女学院 本部「平安女学院について」より)
→※(参照)「セーラー服の歴史」(株式会社トンボのホームページ内、ユニフォームミュージアムより)
→※(参照)横浜マリタイムミュージアム企画展「セーラー服と縞のシャツ―その由来と広がり―」

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「パルナスの歌」がCDに収録、初めて発売へ(朝日新聞2007-08-22)

パルナス製菓のお店に飾られていたシンボルキャラクター人形、パルちゃん(右)とピロちゃん 「パルナスの歌」が収録されることになったCD

♪ぐっとかみしめてごらん
 ママのあたたかい心が
 お口の中にしみとおるよ…
関西の人の耳に今も残るちょっと悲し気なロシア民謡調のメロディー「パルナスの歌」がCDに収録され、初めて発売される事になった。大阪府豊中市にあった洋菓子会社「パルナス製菓」のCMソングとして作られたが、同社が平成14年(2002)に廃業したため幻の歌となっていた。

曲は、昭和33年(1958)から関西圏の日曜午前のアニメ番組の合間などで、赤ちゃんの顔や影絵が映し出されるCMのバックで流れていた。歌っていたのは中村メイコさんとボニージャックス。子ども時代を関西で過ごした一定の年齢以上の人にとって、忘れられないメロディーだ。同製菓は昭和22年(1947)に創業。関西に200を超す店舗を展開し、ピロシキやロシアのパン、ケーキなどを販売したが、平成12年(2000)に営業を終了。同14年(2002)に会社の清算を終えた。

曲が収録されるのは、キングレコードから9月5日に発売される『心と耳にのこるCMのうた』(税込み2500円)。「♪この木なんの木、気になる木〜」の歌詞で知られる日立グループの「日立の樹」など、計20曲は何れも全国的に知られているが、ボーナストラックとして「パルナスの歌」を収録した。

♪甘いお菓子の
 お国のたより
 おとぎの国のロシアの
 夢のおソリが運んでくれた…
提案したキングレコードの菱川尚子さんは徳島県出身で、子ども時代に聞いた記憶はない。だが大阪に勤務していた平成11年(1999)、バラエティー番組「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送)の総集編でパルナスの歌が取り上げられたのを見て、「とても印象深いメロディー」と心を打たれた。

「聞いた事がない」という関東出身の社員らを説得。同社が自主廃業の直前、関係者に配った自主製作のCDから曲を見つけた。ボニージャックスからエピソードなども聞いて、CD付属のブックレットに掲載した。

この曲を巡っては、インターネットで商品化の希望を募るホームページ「たのみこむ」でもCD化希望が書き込まれ、130人を超える賛同が集まっていた。掲示板には「今CMを見たら涙が止まらないかも」などと熱い思いが記されていた。菱川さんは「長年の思いをようやく実現できた。ロシア民謡を元にしたメロディーは今聴いても深い味わいがある。早く皆さんにお届けしたい」と話している。

大阪出身のミュージシャン、チチ松村さんも、パルナスの歌の熱烈なファンの1人。子どもの頃から身近に聞いており、「聞くだけで条件反射的に涙が出てくる」と懐かしむ。

レパートリーの1曲としてライブハウスで演奏する事もある。「関東の人や小さな子どもたちに聞かせても『何この曲?』と喜ばれる。悲し気に始まってだんだんテンポアップする曲調に、勇気が出てくるような高揚感がある」と話す。

今回のCD化に、「とても嬉しい。パルナス製菓には他にもたくさんの曲があるので、パルナス製菓の曲だけでアルバムができてもいい」と思いは止まらなかった。

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「被爆電車」で演劇 東京の劇団、車掌など務めた女学生描く(産経新聞2007-07-06)

平和を訴える劇の舞台となる被爆電車

62年前の夏、原爆に被爆しながら今も現役で走り続ける広島市の路面電車「被爆電車」の車内で今月末、当時の実話を基にした演劇の幕が開く。路面電車の車掌や運転士を務めた女学生たちの姿を描いた「桃の実」。東京都内の劇団により昨年都内で上演されたが、元女学生たちが広島での再演を熱望。鉄道会社も協力した。元女学生たちは「劇を通じて平和がどんなに有り難いものか伝えて欲しい」と願う。

◇「平和の大切さ訴える」

劇団は「モケレンベンベ・プロジェクト」(東京都荒川区)。走行中の路面電車を舞台にした演劇活動を行っている。物語の主人公は、広島電鉄(広島市中区)が戦時中に開設していた全寮制の家政学校で授業を受けながら、労働力不足を補うため広電の車掌や運転士を務めた女学生たち原爆で家族や仲間を失いながらも、被爆から3日目に運行を再開させ、市民らに希望を与えた姿を描いた。

物語のモデルの1人で、脚本作りに協力した広島市安佐北区の末盛愛子さんはあの朝、早朝の車掌勤務を終えて爆心地から約2km離れた広電本社前で被爆した。建物の陰にいたため無事だったが、多くの同級生が犠牲になった。

「避難場所へ向かう途中、水を求めて彷徨う人々や焼け焦げた死体、燃え上がる建物など想像を絶する光景が広がっていた。まるで地獄絵図のようで、今でも脳裏から離れません」

空腹に耐えながら、負傷者の治療や遺体の処理など、絶望的な作業にあたる中で、近くの住民から桃を貰った。

「口に含んだ時の瑞々しさ、美味しさは忘れられない。桃に生きる勇気を与えられた」

劇団の脚本家、及川均さんが記録や元女学生らへ取材して脚本にまとめ、昨夏に都電荒川線の車内で上演。被爆者らの評判を呼び「是非広島でも」との要望が相次いだ。電車を借り切っての上演となるため広電と交渉し、現在も運行している被爆電車2両のうちの1両での上演が決まった。

及川さんは「桃が、生きる事の象徴のように感じられた。東京の人間が演じて受け容れられるのかという不安もあったが、実際の被爆電車の中で演じる事で、より平和の大切さを訴える事ができるはずです」。

末盛さんは「被爆電車の中で原爆の演劇を見るのは楽しみな半面、当時の事を思い出し、辛くなるので複雑な心境です。でも、核の惨劇が風化して欲しくないし、劇を通じて平和がどんなに有り難いものか伝えてもらえれば」と話す。

広島での上演は28、29日。他に東京の都電荒川線で8、21、22日の3日間、長崎市の長崎電気軌道で15、16日に上演される。予約制で、問い合わせは及川さんへ。

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動員学徒の姿、克明に展示(中国新聞2007-08-01)

第二次世界大戦中の学徒動員をテーマにした平和展

第二次世界大戦中の学徒動員をテーマにした平和展「戦時体制のなかの学徒動員」が1日、府中市府中町の市立図書館で始まった。福山市人権平和資料館が所蔵するパネル35枚を展示。広島県東部の学校などに残る写真や日誌を基に、児童生徒たちが田植えや荒れ地の開墾、校庭を薩摩芋畑にする作業に励む様子などを伝える。17日まで。

posted by 御堂 at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代

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