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“手”に伝わる保己一の偉業 本庄の視覚障害者ら温故学会訪問(埼玉新聞2005-03-23)

塙保己一像に接する視覚障害者

本庄市の視覚障害者と家族など36人が20日、東京都渋谷区東の温故学会をバスで訪れ、温故学会会館にある江戸時代の盲目の国学者塙保己一の像や、塙保己一が編纂した大叢書『群書類従』の版木を触り、感激を新たにした。

会館の訪問は、本庄ライオンズクラブが企画した。

同クラブは30年ほど前から障害者との交流を継続しており、今回は郷土の偉人である塙保己一を一緒に学ぼうと、呼びかけた。

塙保己一は延享3年(1746)に児玉郡保木野村(現児玉町)に生まれた。7歳で失明。

15歳で江戸に出て雨富須賀一検校や賀茂真渕などに学び、41年間かけて『群書類従』を完成させるなどした。総検校になった年の文政4年(1821)に亡くなっている。

温故学会では斎藤政雄会長が「来年は塙保己一生誕260年になる。ヘレンケラーも心の師と仰いだ塙保己一の精神、特に、生きる力の素晴らしさを学んでほしい」と語った。

28歳で失明したという男性は「私は東京のヘレンケラー学院を卒業している。塙保己一の編纂した『群書類従』の版木を今回触ることができて、感激している」と話した。

また、3歳で失明したという男性は「塙保己一の版木を触れて感動した。版木は堅い桜材でできている。1万7244枚もあるのは、すごいと思う」と話した。

バスの中でガイド役と司会役を務めたライオンズクラブの西沢良男さんは「楽しい研修旅行となるように心掛けた。喜んでもらえて良かった」と笑顔を見せていた。

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山田長政旧宅は水路沿いの紺屋 静岡の研究家が特定 出生地解明の手掛かり(静岡新聞2005-02-28)

江戸時代の地図から長政の旧宅を特定した佐藤さん

◇江戸初期の駿府城改築時 町割り図入手

江戸時代にシャム(現タイ)で活躍した山田長政の研究を20年以上続けている佐藤郁太さん=静岡市=がこの程、江戸初期駿府城改築時の町割り図を発見し、長政旧宅が静岡市馬場町の水路沿いの紺屋だったと特定した。諸説ある長政の出生地を明らかにする手掛かりになりそうだ。

長政は天正18年(1590)、駿府(現静岡市)で生まれたといわれている。慶長15年(1610)頃シャムに渡り、日本人町頭領となった。王に仕え兵を率いて名を成し、寛永7年(1630)、40歳で亡くなった。

佐藤さんは長政の父清兵衛が尾張出身だったことから、愛知県の佐織町や静岡市を中心に資料を収集し、長政が廃寺で今はない「報身寺」(馬場町)南の紺屋で暮らしていたことまでは確認していた。

駿府城改築時に作成された慶長年間の町割り図をこの程入手し、丹念に調べたところ、馬場町、金座町を通る水路があるのを初めて発見した。「染め物を仕事とする紺屋は水を必要としたため、報身寺南の町屋の水路沿い(現在の車町交差点付近)が長政旧宅の紺屋だったことは間違いない」と旧宅を水路沿いと特定した。

長政の出生場所については諸説がある。有力なのは同じ静岡市内で、駿府城に近い馬場町と郊外の藁科川中流沿いの富厚里。今回判明した馬場町の旧宅近くには生家跡も復元されている。戦国史を研究している小和田哲男・静岡大学教授は「町割り図の内容から見ても、旧宅に関する佐藤さんの説の信憑性は高い。出生地を明らかにしていく上で重要な手掛かりになるかも知れない」と話している。

佐藤さんは、3月26日午前10時、静岡市の清水テルサで山田長政をテーマに講演する。問い合わせはNPOエイジングブライト倶楽部へ。

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幕末動乱伝える手紙(読売新聞2005-02-08)

発見された新居水竹の手紙。幕末の時代の動きがわかる

明治初期に淡路島で起きた稲田家徳島藩からの独立運動「稲田騒動(庚午事変)」を巡って処罰され、刑法上最後の切腹者として知られる幕末の儒家、新居水竹にいすいちくの手紙が京都で見つかり、7日までに、武庫川女子大学の管宗次教授が本物と確認した。幕末に京で起きた尊皇派公家の暗殺事件を、いち早く藩の同志に知らせた内容で、時代が揺れ動く雰囲気を臨場感豊かに伝えるという。

新居の手紙は管教授が京都の古美術商から入手。巻紙に毛筆で37行にわたって記されている。

文久3年(1863)5月20日に姉小路公知が暗殺され、同夜に出された在京各藩への出兵要請に応じて、徳島藩が暗殺場所に近い薬師門を警護したことなどが、日付とともに細かく書かれており、江戸にいた新居が、徳島藩の同志に宛てたものと推測される。

内容、筆跡などから新居の直筆と断定したといい、管教授は「記録性も高い。暗殺があった夜の動きはこの手紙で初めてわかった。幕末の臨場感が伝わる貴重な資料」と話している。

新居が処罰された稲田騒動は、明治政府への不満の高まりから起きたとされ、明治初期の混乱と激動を象徴する出来事。騒動後、稲田家の人々は北海道へ移住させられ、その過酷な体験は上映中の映画「北の零年」で描かれている。

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安政東海地震など克明に 庄屋の公務日記、福知山で発見(京都新聞2005-01-15)

安政東海地震などの被害状況が書かれた庄屋の公務日記

安政東海地震伊賀上野地震など、嘉永7年・安政元年(1854)に発生した大地震の被害状況を記した庄屋の公務日記が、京都府福知山市の民家から見つかった。現地での揺れや、飛脚からの情報を基に大坂や東海地方の被害状況を書き留めており、専門家も「貴重な資料」としている。

先祖が公庄村(現京都府大江町)で庄屋を務めていた福知山市本堀の吉田二三雄さんが、自宅で当時の資料を整理して見つけた。日記は縦35p、横13p、厚さ1p。表に『永代萬覺帳』とあり、和紙に代官所からの命令や献金の記録が書かれている。

地震について触れているのは、嘉永7年6月の伊賀上野地震や安政元年11月の安政東海地震安政南海地震など。マグニチュード(M)7級の伊賀上野地震では「嘉永七寅年六月十四日の夜地震之あり候その後たびたび三十日ばかりの間ちょこちょこ小地震之あり候」とある。

関東から近畿にかけて死者2000〜3000人と言われる安政東海地震(M8級)では「嘉永七寅年十一月四日四つ時に大地震、その後三、四日の間揺り申し候。その後大阪辺で大津波。人死に多く」と明記。通知や飛脚の情報を基に、安政東海地震後も伊勢で大地震があったことや、東海や大坂の各地で町が焼けたり、津波で船が破損した状況が書かれている。大きな被害に「例えようもなく寂しい」ともある。

災害史を研究する北原糸子・神奈川大学講師は「自らの体験か伝聞かの記述の違いで、現地の揺れがどの程度だったのか推定できるなど、色々な解釈ができる。関心をもって書き留めていた事実は貴重」と話す。また京都府立総合資料館の山田洋一・歴史資料課資料主任は「公庄村は江戸末期幕府領で、未だ多くは知られていない久美浜代官所の様子も知ることができる。歴史的資料となる」としている。


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日本初の英和辞書と対面 堀達之助の子孫、英国で(神戸新聞2005-01-07)

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幕末ペリー来航時に通訳を務めた堀達之助の玄孫の堀孝彦・名古屋学院大学名誉教授がこの程、達之助が文久2年(1862)に編纂し、大英図書館が所蔵している日本最初の印刷された英和辞書『英和対訳袖珍しゅうちん辞書』とロンドンで初めて対面、先祖の偉業に感慨を新たにした。

同行した遠藤智夫・日本英学史学会本部事務局長による調査で、この辞書は東京帝国大学総長や文相を歴任した外山正一幕末に英国留学した際、携行したものだったことも最終的に確認された。

堀氏らによると、『袖珍辞書』の初版は、幕府洋書調所から200部だけ印刷された希少本で、現存が確認されたのは計17冊。うち海外には、大英図書館の所蔵品を含め2冊しかない。

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農民一揆の犠牲者慰霊 湖南市で「天保義民祭」(京都新聞2004-10-15)

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江戸後期の天保13年(1842)に起きた百姓一揆の犠牲者を慰霊する「天保義民祭」が15日、滋賀県湖南市三雲の伝芳山上の「天保義民碑」前で営まれた。

一揆は、幕府の役人が目盛りを偽った差しで検地を行い、年貢の増収を企てたのが発端とされる。百姓たちが起ち上がり、役人の宿舎を襲って「検地10万日延期」の証文を取り付けたが、約2000人が捕らえられ、首謀者は処刑された。

義民祭には、義民の子孫をはじめ、地元関係者や社会科で「天保義民」を学んでいる甲南第一小の児童たち約130人が参列した。一揆の中心的役割を果たした庄屋の子孫にあたる徳地行雄さん=甲賀市水口町=が「先人の偉業と、その精神をしっかり伝えたい」と追悼の言葉を述べ、参列者が祭壇に菊を献花した。

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黒羽藩主が代々残した史料、122点を展示―黒羽町芭蕉の館(毎日新聞2004-10-05)

◇公文書保存の重要性訴え

特別企画展「近世黒羽藩主 大関氏による史料保存〜文化財保護に光をあてた大名たち〜」が栃木県黒羽町前田の黒羽町芭蕉の館で開かれている。11月28日(日)まで。

黒羽藩大関氏は16代、約300年にわたり戦国時代末期から明治維新まで現在の同町に黒羽城を構えた。その歴史を伝える約2000点の大関家古文書が町に寄贈されている。同展はその史料の中から、歴代藩主の中で特に史料保存に光を当てた第8代増備ますとも、第11代増業ますなり、第15代増裕ますひろの3人をクローズアップし、史料保存の重要性をアピールする。

展示は、御朱印箱大関家文書を収納した木箱)の虫干し/増備藩政改革への意欲と蔵書/増業の編著書と殖産興業の推進/増裕による史料保存 増業への想い/廃藩置県後の大関氏による史料保存、を柱に、1万8000石の領知朱印状など計122点を紹介している。

今年は増裕増業の書跡、蔵書を専用の「御朱印箱」に整理、収納した明治2年(1869)から140年目に当たり、同館では「公文書保存の重要性について知ってほしい」と話している。

また、9日(土)午後1時半から「大関増裕と幕末の幕府軍制改革」と題した歴史講演会が同館である。講師は茂木高校の石川明範教諭。受講無料。開館時間は午前9時から午後5時。毎月曜休館(祝日の時は翌日)、観覧料は小・中学生100円(20人以上の団体50円)、高校生以上300円(同200円)。

→(参照)石川明範「大関増裕と幕末の幕府軍事改革」栃木県歴史文化研究会『歴史と文化』14号)

→(参考)幕末の改革者に迫る 県立博物館で「大関増裕」展(中日新聞2004-10-04)

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幕末の改革者に迫る 県立博物館で「大関増裕」展(中日新聞2004-10-04)

日本の草創期の陸軍と海軍を率いた黒羽藩主・大関増裕

激動の幕末、幕府の海軍奉行黒羽藩主として改革に没頭し、若くしてこの世を去った大関増裕ますひろの素顔に迫る企画展「大関増裕―動乱の幕末となぞの死―」が3日、栃木県宇都宮市の県立博物館で始まり、多くの見学者が訪れた。同展は11月23日(火)まで。

大関増裕は天保8年(1837)、遠州(現在の静岡県)横須賀藩西尾家の次男として誕生。少年時代を江戸で過ごし、西洋砲術などを学んだ。24歳で養子となり黒羽藩主の座に就くが、幕府から軍事的知識と能力を買われ、初代陸軍奉行も兼任した。県立博物館の千田孝明人文課長は「ペリー来航に始まる時代の変化を幼い頃から感じ取っていたのでしょう」と語る。

増裕はその後、海軍奉行となり、軍艦奉行だった勝海舟とも親交を深め、当時世界最大級の軍艦「開陽丸」の買い付けにも成功した。

一方で、黒羽藩主としても軍制を整備し、火薬の材料となる硝石の採取などの産業を興した。

しかし増裕は、30歳の誕生日、黒羽での狩猟中、鉄砲の暴発により非業の死を遂げる。「増裕は人事面でも大胆な改革を行ったため、抵抗勢力も生まれた。死をめぐり、様々な憶測があるのは、そのせいでしょう」と千田課長。増裕の死は皮肉にも、幕府の大政奉還を受け、王政復古の大号令が発せられた当日だった。

国分寺町から見学に来ていた男性は「増裕のことは初めて知ったが、混乱の時代、若くして大事業に取り組んでいたことに感銘した」と話していた。


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「寺田屋」創業者は城陽市寺田の人 城陽市歴史民俗資料館友の会(洛南タイムス2004-08-20)

現存する寺田屋

◇ブーム「新選組!」あやかり町おこし 今月29日文パルで講演会

NHK大河ドラマ「新選組!」の影響で、京都の観光が賑わっている。「新選組」と聞いて必ず思い浮かぶのが、坂本龍馬が定宿にしていた伏見の「寺田屋」。その「寺田屋」を開業したのは、城陽市寺田出身の人物だった。そんな史実を発掘した「城陽市歴史民俗資料館友の会」は、講演会を開催するなど、市民に城陽市と「寺田屋」の関係をさらに掘り起こし、アピールする計画を立てている。

今年5月、友の会の柏井光彦相談役は、出身会社の松下電器産業OB会に参加した。そこで、「寺田屋」の近くにあり、同宿と縁深い長建寺の岡田豊禅住職の講演を聞いた。その中で、「寺田屋」は万治4・寛文元年(1661)、当時の久世郡寺田村(現城陽市寺田)出身の初代伊助という人物が創業したこと、屋号は出身地からとった、などの史実を知らされた。

柏井さんは早速、工藤会長、山本俊彦資料館長に声をかけ、岡田住職の元に出掛け、直接話を聞いた。そこから様々な資料類を探し出し、調査を進めた。

工藤会長らは、「人口が減少するなど暗いことが多い城陽市にあって、まちづくりの起爆剤として活用していけるのでは」と着目、まず手始めに岡田住職を招き、8月29日午後2時から文化パルク城陽内にある寺田コミセンを会場に、歴史四方山話「幕末伏見寺田屋付近―城陽と寺田屋―」と題する文化講演会を開く。参加は自由、無料。

初代伊助は、『寺田屋お登勢日記』(徳永真一郎著・人物往来社刊)によれば、寺田村庄屋の三男坊関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康が、伏見城や西軍大名の伏見邸を焼き討ちにしたため、伏見一帯はさびれた地域となった。

土地がただ同然で手に入るなどと噂を聞いた初代伊助は、伏見に出掛け、邸の取り壊し作業を見て回りながら物色、掘割沿いの南浜にある空地を選んだ。将来の発展を見込んでの賭けで、その見通し通り、淀川という大動脈を通して大阪、京都、江戸を繋ぐ交通の要所として、飛躍的な繁栄を遂げる。後々、幕末から明治維新の激動期に、歴史舞台として登場するのは周知の通り。

また『城陽市史』第4巻の中に登場する中島真純家古文書の「元和6年伊勢講名簿」の中に、寺田小南小路に住む「伊助」という名前が登場する。工藤会長らによれば、初代伊助が開業した時期と40年ほどのズレがあるため、先代の可能性もあるとか。

いずれにしても、「寺田屋」と城陽市の関係についての研究は緒についたばかり。工藤会長らは、「今後も資料調査などに取り組んでいきたい」と意欲満々。

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新選組 池田屋事件知って 中京の跡地隣にパネル設置(京都新聞2004-07-12)

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幕末池田屋事件を解説するパネルが、京都市中京区三条通木屋町西入ルの池田屋跡の隣に、地元の三条小橋商店街振興組合の手で設置され、新選組ブームで訪れる観光客らの目を引いている=写真=。

元治元年(1864)、旅館池田屋に集まった尊皇攘夷派新選組が急襲した事件だが、跡地には石碑があるだけ。NHKの大河ドラマ「新選組!」で増えた観光客に事件を知ってもらうため、設置した。

パネルは幅3m、高さ2m。事件の経緯や池田屋の間取り、宮部鼎蔵ら犠牲者が記されている。

※ パネルは「新選組!」終了後、撤去されました。それ以降については…
  →(参考)「祇園祭の季節といえば…」

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跡見学園創立者の日記、出版へ 激動の幕末、生き生きと(朝日新聞2004-04-25)

出版される『跡見花蹊日記』 跡見学校創立当時の跡見花蹊

跡見学園女子大を創立した明治時代の教育者・跡見花蹊かけいの50数年に及ぶ日記が出版されることになった。幕末の政変に揺れる京都で見聞した攘夷派の公家暗殺や新選組の活動、ええじゃないか運動などが20代の女性の目で生き生きと描かれている。

花蹊は天保11年(1840)、大坂に生まれた。書や絵画に才能を発揮し、大坂の父の私塾で子女を教育、公家の姉小路家の求めで京都でも教えた。慶応2年(1866)に京都に転居し、維新後は東京に出て明治8年(1875)、神田猿楽町に跡見学校を開いた。

日記は和綴じと当用日記の計47冊。21歳から大正15年(1926)に没する前年、85歳まで書き続けた。跡見女子大図書館の岩田秀行館長らが10数年かけて読み解き、全文をパソコンに起こした。

攘夷派姉小路公知には花蹊の父、姉、弟が仕えていた。文久3年(1863)5月、公知が御所から帰宅途中、暗殺された事件(朔平門外=猿が辻=の変)について日記の記述は生々しい。

公知は浪人3人に襲われ、胸を長さ18p、深さ12p切られた。「太刀を太刀を」と4回叫んだが、太刀持ちは逃げた。顔も切られながら扇子で応戦。相手の刀を奪って切り返し退散させた。自宅に戻り、真夜中、絶命した。

元治2年(1865)1月には、壬生浪人(新選組)が京都で取り逃がした勤王浪士を大阪・堂島で捕らえた話が出てくる。

ええじゃないか運動は慶応3年(1867)10月の日記に登場。鳩居堂で買い物の帰り、踊る人々で道が歩けないほど。「家の門前、表裏とも踊りにてそれはそれはなかなか賑わしき事なり」

同年12月の王政復古、御所に入ろうとした花蹊は、薩摩藩が表門を固めて入れず、他の門に回った。町は混乱し、地方へ逃げる人もいた。乱暴を恐れ夜通し起きていた。

岩田館長は「花蹊は茶道を教育に採り入れたことでも知られる。旺盛な好奇心で社会を見つめ、激動の歴史のなかで、時に日本の将来を案じて涙している。出版は来年秋の予定です」という。

→(参考)跡見学園一三〇年史編集委員会編『跡見学園―一三〇年の伝統と創造』の「第一部 跡見花蹊の創意」より「跡見学校開校前史」(PDF文書)参照


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鴨川の巨大石は二条城の石垣用か?(京都新聞2003-10-09)

鴨川河川敷にある石の説明板。石は二条城で使われるはずだったという

京都市伏見区下鳥羽の鴨川から河川敷に引き上げられ、二条城の石垣用とみられる3つの石の説明板が、この程現地に設置された。

石は元々川底にあり、平成11年(1999)8月、京都府が河川敷を整備した際に引き上げた。うち1つは長さ188p、幅76〜99p、高さ77pで、重さは推定5t。

地元の「京の川・下鳥羽整備委員会」が大学教員や城郭研究の専門家らに調査を依頼したところ、石は花崗岩で、瀬戸内の島で採れたものと見られ、二条城の石垣と似ていることが分かった。

また、下鳥羽にはかつて「鳥羽の港」があり、地元に伝わる古文書には石を運ぶ船が二条城の修理のために立ち寄ったことが記されている。このため石は、運搬中に何らかの原因で川底に沈んだと推測している。

この石について、散策する人からの問い合わせが多く、同委員会は説明板が必要と判断。京都鳥羽ライオンズクラブに設置を依頼した。8日、贈呈式があり、同クラブから委員会に贈られた。

同委員会の松川勇委員長は「説明板で、石の由来が誰にでも分かるようになった。『鳥羽の大石』として名物にしたい」と話している。

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「禁門の変」描いた絵巻物発見!(京都新聞2003-09-24)

「禁門の変」を描いた絵巻物と乾さんが観光した本

幕末の抗争で京が焼け野原になった「禁門の変」(「蛤御門の変」)を描いた絵巻物「兵せん図」が、この程滋賀県内で見つかった。絵の筆者を特定する記述は見られないが、京都大学附属図書館などに現存する模写本よりも優れた筆致で、「原画を描いた前川五嶺筆の可能性もある」と専門家はみている。

絵巻物は、僧侶で俳句研究者の乾憲雄さんが、今年1月に亡くなった大津市内の知人の所蔵品を、遺族の希望で譲り受けた。幅34p、長さ約20mにわたり、大火に焼け出された町衆や、その後の復興の様子が描かれている。

「兵燹図」は、禁門の変を伝える最も有名な史料で、幕末の絵師前川五嶺の原作を弟子の森雄山が模写した「雄山本」などが現存している。

今回見つかった絵巻物は、全体の構成や画の構成が「雄山本」とほぼ同一だったが、サイズがやや大きかった。両者を比較した榊原吉郎・京都市立芸術大学名誉教授は、今回発見された絵巻物について「『雄山本』より大きい分構図がまとまり、筆致も優れている」と評価。「原作者の前川五嶺が手元に残すために描いた下絵の可能性もある」として、より原作に近い作品と評価する。

乾さんはこれを元に、読み下し文を添えて自費出版本を刊行。1部1900円で限定500冊制作した。

絵巻物は10月4日から12日までの間、甲西町立図書館で公開される。

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指さす先は「日本の針路」 勝海舟の銅像が完成 東京都墨田区(朝日新聞2003-07-22)

お披露目された勝海舟像

幕末の偉人で、生誕180年を迎えた勝海舟の銅像が、墨田区吾妻橋一丁目の区役所うるおい広場に建てられ、21日、除幕式があった。勝海舟の子孫や募金したボランティア、区役所関係者など数百人が出席、像は墨田区に寄付された。

建立のきっかけは、鵜沢義行・日本大学名誉教授が平成11年(1999)に区教委主催で開いた「墨田区と勝海舟」講座。現在の両国で育った勝海舟について「江戸を戦火から救い、今日の東京の発展と近代日本の舵取りをした。銅像がないのは寂しい」と話した。講演後、約20人の聴衆が像建立の寄付を申し出た。鵜沢さんの講演料と合わせ3万円が集まった。

その後、「勝海舟の銅像を建てる会」をつくって寄付を募った。800人以上から約4900万円が集まった。

像は身長158pだった本人の約1・6倍の255p。地元で育った彫刻家の木内礼智・東京家政大学名誉教授が制作。像は、江戸城無血開城の時の40代当時の勝を描いた。隅田川の下流を指さしているのは、太平洋から世界に続く道筋、日本の針路を示しているという。木内さんは「芸大に学んだ頃から、近くの上野には西郷像があり、勝海舟の像をつくりたいと思っていた」と話す。

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新選組の最後の屯所に「誠」 不動堂村屯所跡の石碑建立(京都新聞2003-06-15)

関係者の手で除幕された「新選組不動堂村屯所跡」の石碑

幕末に活躍した新選組の最後の屯所「不動堂村屯所跡」の石碑が、京都市下京区のリーガロイヤルホテル京都前に建立され、15日、関係者による除幕式があった。

新選組屯所は壬生から西本願寺、さらに不動堂村へと移転したが、不動堂村の位置は諸説あって明確でなかった。近年、霊山歴史館(東山区)の木村幸比古・学芸課長の調査で、坂本龍馬に仕えていた菊屋峰吉という人物が、堀川通塩小路(現在のリーガロイヤルホテル敷地)に屯所があったと語っていたことが分かり、同ホテルと地元の自治連合会が石碑を建てることになった。

碑は縦0・9m、横1・4mで、「誠」の文字と、新選組局長近藤勇の和歌が刻まれている。不動堂村屯所が置かれたのは慶応3年(1867)6月15日から約半年間といい、除幕した西川千大・安寧自治連合会長や新選組同好会メンバーらは「136年後の同じ日に除幕できて嬉しい。京の新たな観光名所になれば」と話していた。

(参考)因みに、訪ねました!→こちら

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朝鮮使持参「書契」、京で発見 明日から京都造形大で特別展(京都新聞2003-04-27)

初公開される「朝鮮国礼曹参判書契」

江戸時代に12回も日本を訪れた「朝鮮通信使」が持参した「朝鮮国礼曹参判書契」(外交文書)が26日までに京都市内でみつかった。国書に次ぐ重要文書で、28日から京都造形芸術大学(京都市左京区)で始まる特別展「朝鮮通信使と画人・大岡春卜」(入場無料)で公開する。

書契は、縦50p、横72p大。李氏王朝の外務省「礼曹」の次官(参判)から徳川幕府の老中に宛てたもので、8代将軍吉宗の襲職を祝って来日した第9次(享保4年=1719)朝鮮通信使が届けた。内容は朝鮮と日本との誠信の交わりを希望する旨の文書が書かれている。

受け取ったのは、江戸城での国書伝達で将軍吉宗を先導した老中久世大和守重之(下総関宿藩=現在の千葉県野田市関宿)。現在、京都市内に住む久世家家老職の子孫が見つけ、仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授が確認した。云わば外交文書として実務者同士が交わす書契は毎回発給されたようだが、現物の確認は第2次の元和3年(1617)など少なく、仲尾教授は「(双方が)後の時代まで善隣友好を願っていたことが分かる」と評価している。

特別展は、第10次(延享度)通信使の画員・李聖麟と大阪で会った画家大岡春卜にスポットを当てた。朝鮮通信使の行列を描いた絵巻など未紹介の絵画や版本約20点を展示。5月25日まで。

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平川に伝わる「隊中様」(サンデー山口2003-04-06)

平川に伝わる「隊中様」

平川の小出集落から鋳銭司方面に抜ける山道の途中、鎧ヶたおという所に「隊中様」と呼ばれる墓がある。明治初期に悲劇的な死を遂げた1人の若き兵士藤山佐熊すけくまを祀ったもので、ここに参ると病気が治り、願い事が叶うと言われる。130年以上経った今も地元を中心に信仰する人が多く、今年も4月9日(水)にささやかなお祭りが行われる。

郷土史『平川文化散歩』などに拠ると、阿東町嘉年出身の藤山佐熊は慶応3年(1867)、「奇兵隊」と同様に武士や農民で結成した諸隊の1つ「振武隊」に入隊。旧幕府軍との戊辰戦争では他の隊と共に出動し、軍医として活躍した。

しかし、動乱が収まると、新政府は過大になった諸隊を整理、版籍奉還に伴い武士からは領地を取り上げた。これらの処遇に不満を持った「隊中」と呼ばれた諸隊の兵士約2000人が決起し、藩政府(現山口県庁)を強襲。藤山も反乱軍に加わり平川の恒富にいたが、鎮静に乗り出した政府常備軍に追いつめられ、明治3年(1870)に鎧ヶ峠で狙撃され、22歳の若さでこの世を去った。

藤山は鎧ヶ峠付近に駐屯した時に村人の病気を親切に診てあげ尊敬を集めていたという。そのため、村人は彼の遺体を葬り、墓を立てて供養。それが何時しか「隊中様」と呼ばれ、墓に参ると病気が治り、願い事が叶うという噂も広まり、参詣者が増え、ひと頃は近くに茶店が立ち並ぶ程だった。明治5年(1872)、県は賊軍の墓が信仰の対象になることを危ぶみ、墓辺の鳥居などを取り壊し、参詣を禁止したが、その後もお参りする人が途絶える事はなかったという。

隊中様のお祭りは、古くから地元住民らで創る奉賛会が中心になり、藤山の命日にあたる2月9日に行っていた。しかし、雪などで山道が閉ざされた事もあり、40年程前から2か月後の4月9日に開催している。決して大きな規模ではないが、地元の人たちにとっては欠かす事のできない大切な行事の1つだ。世話人の松永孝行さんは「隊中様は我々の先祖がお世話になった人物。派手な祭りではないが、感謝の気持ちを忘れず、若い人に語り継ぎ、これからも続けていきたい」という。

当日は午前11時から墓前で供養のための神事を実施。墓はかなり山奥にあり、お参りできない人もいるため、麓の小出公会堂にも祭壇を設ける。また、参詣者には地元婦人部が作った赤飯、山菜の煮物などが接待される。

問い合わせは、平川公民館へ。

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仕事は経理、小遣い6000円 東京で加賀藩士の家計簿見つかる 下級武士の暮らし伝え 磯田慶大非常勤講師が分析 2代37年、克明に記録(北國新聞2003-04-03)

幕末の武士は年収の2倍の借金に苦しみ、小遣いは現在の貨幣価値で月約6000円だった―加賀藩算用者さんようもの(経理係)、猪山直之・成之親子が37年間にわたってつけたいりばらい帳(家計簿)がこの程、東京で見つかった。この史料を紐解くと金沢城下の下級武士の詳細な暮らしぶりが分かるほか、明治維新後に海軍主計として活躍した猪山一族の隆盛から加賀藩士が日本の近代化に大きな役割を果したことが読み取れる。

入払帳を見つけたのは、近世武士の社会経済史を研究する慶応大学非常勤講師の磯田道史さん。磯田さんの分析によると、猪山家は江戸詰めの御算用者だった頃、年収の2倍にあたる借金を作った。先祖の手柄などで決まる禄高では江戸と金沢との二重生活を賄い切れなかったからだという。

天保13年(1842)、高金利に耐えられなくなった猪山家は家財を売り払い、借金を完済。「もう二度と借金を背負わない」という決心から饅頭1個を買っても記録する”完璧な家計簿”をつけ始めた。以来、明治12年(1879)まで親子2代が克明な記録を続けた。

家計簿からは、武家の婚礼、出産、葬儀などの儀式に伴う出費のほか、習字や算盤など子どもの教育にかなりの費用が必要だったことが分かる。

史料には、金沢の直之から江戸(東京)で暮らす成之への手紙も含まれており、「犀川の土手で泥鰌どじょうを焼いて売る士族が出現」「裕福な商人に武家の娘が嫁ぐ縁組が流行」など明治維新後の激変ぶりが生々しく記されている。

維新後、成之が優秀な経理マンとしての手腕を発揮し、海軍省で出世していくことについて、磯田さんは「当時、金沢の理数教育は非常に水準が高く、それが明治の近代化に大きく貢献した」とみている。磯田さんは分析結果を『武士の家計簿』としてまとめており、近く新潮社から刊行される。

◇類例がない長期の記録

県立歴史博物館の長谷川孝徳学芸専門員は「断片的な武士の家計簿はあったが、これほど長期の記録は類例がない。驚くべき新史料であり、地元研究者にも供することを望みたい」と話している。


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無名奇兵隊士の像完成 晋作支えた志継ごう ブロンズ製 14日、下関で除幕(中国新聞2002-10-10)

奇兵隊士のブロンズ像を仕上げる中下さん(右)ら

◇下関の観光協会注文

広島県呉市で銅合金の鋳物工場を経営する中下義彦さんが、高杉晋作所縁の下関市吉田地区の観光協会からの依頼で、幕末に活躍した奇兵隊士の銅像を制作した。広島県内でのブロンズ像制作は珍く、14日に下関である除幕式で披露される。

像は高さ1・8m、重さ約350s。奇兵隊の特徴とされる笠をかぶり、鉄砲を右手に、刀を腰に差して立っている姿を表現している。

吉田地区は、高杉が下級武士や農民たちを集めて組織した奇兵隊の訓練所があった所。地区観光協会が「有名な高杉晋作の像はあるが、無名ながら苦労した一般兵の像もほしい」と企画。訓練所の跡地に整備構想のある史跡公園の目玉として、入り口に設置する予定にしている。

中下さんは約40年間、船舶や自動車の金属部品の鋳型を作ってきた。約20年前に趣味でブロンズの観音像を制作。奇兵隊士像の企画・製作を請け負ったデザイン会社などが、その精巧な技術に注目し、依頼した。

「一世一代の大仕事」と引き受けた中下さん。2人の助手と9月初めから約1か月間、かかり切りで制作に励んだ。

プラスチック製のモデルを基にして鋳型作り。複雑な型抜きが必要な、腰に置いた手などに気を配り、体を前後2つに分けて作り、銅と鈴を混ぜた合金を8oの厚さに流し込んだ。仕上げでは、数日間かけて黒っぽく光るように磨き上げた。

中下さんは「思い描いた通りの出来栄え。呉海軍工廠から伝わる鋳物の技術を、1000年も2000年も持つブロンズ像に込めた。多くの人に見てもらえるのは嬉しい」と、披露を楽しみにしている。

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