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四境戦争・大島口の戦いの資料展始まる 大島商船高専(山口新聞2006-09-05)

周防大島町小松の大島商船高等専門学校の図書館で4日、幕末四境戦争・大島口の戦いに関する資料展が始まった。15日まで。

大島口の戦いは慶応2年(1866)6月7日、伊予松山藩士を中心とする幕府軍が大島の油宇、安下庄、久賀を砲撃して島に上陸。四境戦争で唯一、長州藩内が幕府軍に占拠された。高杉晋作による幕府軍艦への夜襲や第二奇兵隊の活躍で17日には、幕府軍を大島から撤退させた。

四境戦争など幕末史を研究し、本紙「東流西流」コーナーに7、8月に執筆した同校講師、田口由香さんと学校の図書館が「幕末の周防大島で何があったか。もっと知ってほしい」と企画した。無料。開館時間は午前7時から午後5時まで。土曜日と日曜日は休館。

同図書館は今回の展示を機会に「地域や世界を知る拠点に」と一般の人に図書館の利用も呼び掛けている。周防大島町や山口県など郷土に関する書籍だけでなく、理工学系や一般書籍など約6万冊を所蔵している。問い合わせは大島商船高専図書館へ。

    ※→(参考)
  • 田口由香「幕長戦争の政治的影響―大島口を視点として―」(『大島商船高等専門学校紀要』第38号)

  • 田口由香「幕長戦争までの伊予諸藩の動向―松山藩を中心として―」(『大島商船高等専門学校紀要』第39号)



※(関連)→幕末の激戦モノ語る写文集(中国新聞2009-01-01)

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維新の俊英5人足跡紹介100点 萩博物館で「長州ファイブ展」 「雪中鴨図」公開(西日本新聞2006-08-29)

幕末期、国禁を破って英国に密航し、西洋文明を学んで明治維新後の日本を築いた伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三ら5人の長州藩出身の若き日の足跡を紹介する「長州ファイブ展」が、萩市堀内の萩博物館で開かれている。今月から、井上馨旧蔵の江戸中期を代表する画家円山応挙筆の「雪中鴨図」も初公開され、訪れる人の目を惹いている。9月3日まで。

同展は、5人の群像をモデルに製作された映画「長州ファイブ」が10月から県内で先行上映されるのを前に、企画された。会場には、吉田松陰の脇差しや伊藤博文の書簡、井上馨の肖像画など約100点を展示。5人が若さと情熱を傾けて、新しい日本の近代化をどのように成し遂げたかに迫っている。

「雪中鴨図」(縦97p、横41p)は、井上馨が収集して没後、跡取りの勝之助から縁者に贈られたもの。は鑑識眼に優れ、明治初期に古物の破壊風潮や海外流出に危機感を抱き、書画や陶磁器などを幅広く収集したという。この他「井上馨詩書」「杉孫七郎詩書」も追加展示されている。

入館料は大人500円、高校・大学生300円、小中学生100円。問い合わせ先は、同博物館=0838(25)6447。

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【是より洛中】江戸時代の交通標識―京都 千年の誘い(産経新聞2006-08-14)

是より洛中の石碑

商業活動が活発になった江戸時代、京都の市街には交通標識が登場した。交通事故が多発していたのかもしれない。

「是より洛中 荷馬口付きのもの乗へからす」―元禄8年(1695)、都にはこのような文字が書かれた木製の杭の標識が30か所に立てられた。「ここからは洛中なので、荷を積んできた馬から下りて引っ張って行きなさい」。都へ色々な物資が集まってくるが、なかには馬に乗ったまま入ってくる者もいたようで、こんな標識ができたのだろう。

その後、杭が腐ってきたため享保2年(1717)に石で立て替えられた。現在はそれが10本ほど確認されている。写真の標識は堀川通寺之内を少し北へ行った水火天満宮の境内にあるもの。

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内海忠勝顕彰碑(山口市吉敷)―栗林和彦の山口周辺(サンデー山口2006-08-11)

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天保14年(1843)吉敷毛利の家臣の家に生まれた内海忠勝は、幕末宣徳隊を組織し蛤御門の変に参加、のち高杉晋作の挙兵に応じ、四境戦では芸州口で戦った。

明治4年(1871)から2年間の洋行後、長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の知事を歴任の後、明治34年(1901)内務大臣となる。

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錦小路神社(山口県山口市赤妻)―栗林和彦の山口周辺(サンデー山口2006-08-04)

20060804su.jpg

文久3年(1863)京から山口へ向かう2000人余りの一団がいた。朝廷に仕えた錦小路頼徳他7名の公卿と、それを守る長州藩士で、雨の中での七卿落の絵は印象的である。翌元治元年(1864)、公卿たちは、海岸警備を視察に下関に向かうが、病中の錦小路頼徳は下関で亡くなり、赤妻の地に葬られ、社殿が設けられた。

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【北座】芝居小屋隆盛の名残を示す北座の跡―京都 千年の誘い(産経新聞2006-08-03)

北座跡の石碑 北座跡の石碑

出雲の阿国が慶長8年(1603)、五条大橋の東詰めあたりで念仏踊りをしたのが歌舞伎の始まりとされているが、華美を嫌う江戸幕府によって「女歌舞伎」が禁じられて、今日の歌舞伎の姿になった。

この歌舞伎を見るために、四条河原町界隈に芝居小屋が建てられた。師走の「まねき上げ」などで有名な南座もその1つ。現在、残っているのはこの南座1つだけだが、当時はこのあたりに6軒(7軒とも?)の芝居小屋があったという。四条大橋の東側に小屋は集められ、四条通りを挟んで南側に3軒、北側に2軒、大和大路に1軒。

そこで南座があれば、当然「北座」があるはずと思ったが、その石碑が通りの北側、井筒八ッ橋本舗の前にあった。この店舗を4年前に改装する際、北座を模して建て直したそうだ。北座南座とともに明治まで残っていたが、四条通りの拡張で取り壊されたという。

因みに京都の町衆が歌舞伎に熱をあげていた頃、イギリスではシェイクスピアの戯曲ハムレットに貴族や市民が熱をあげていた。

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江戸時代の郷土力士 物見山団蔵 七瀬川自然公園 記念碑を建立(大分合同新聞2006-08-01)

下宗方生まれの力士、物見山団蔵を顕彰しようと下宗方自治会と市相撲連盟が建立

大分市出身で、江戸時代中期に活躍した力士「物見山団蔵」を顕彰しようと、下宗方自治会と市相撲連盟が七瀬川自然公園内に顕彰記念碑を建立。7月30日、除幕式をした。

言い伝えでは、団蔵臼杵藩の領地だった稙田郷下宗方村出身。藩主に力の強さを見込まれ、相撲の道に入った。大阪や京都で当時の名大関らを負かし、名を知られた。相撲の恨みから毒を盛られ、寛延2年(1749)、52歳で亡くなったという。

式には関係者約150人が出席。神事に続き、会の代表ら8人が除幕。河野好雄会長が釘宮磐市長に碑の目録を渡した。釘宮市長は「郷土の偉人を後世に伝え、健全な子どもたちが育つことを願います」と謝辞を述べた。

碑は御影石製で高さ約3m。公園内の相撲場そばに建てられた。

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遠野は「拾戸(とおのへ)」? 古文書の模写公開(河北新報2006-07-28)

遠野市に寄贈された「拾戸遠野村付之目録」の模写本

江戸時代の遠野領主「遠野南部家」の古文書「拾戸(とおのへ)遠野村付之目録」の模写本が遠野市に寄贈され、28日、同市中央通りの遠野城下町資料館で一般公開が始まった。常設展示される。

古文書は盛岡藩南部利直の命で寛永4年(1627)、八戸から遠野に所替えした直義に交付された生産高調査目録。原本所蔵者で東京に住む遠野南部家の子孫が「所縁ある遠野市に資料を提供したい」と、模写本(縦34・5p、横182・5p)を寄贈した。

「拾戸」南部氏の10番目の領地を意味し、遠野が八戸などと並んで「拾戸」だったとされる言い伝えを証明する貴重な資料という。

目録には「綾織村(現遠野市綾織町)千八十二石四合」などと、領内60か所以上の生産高が、今も残る地名で細かく記載されており、当時の状況が把握できる。

前川さおり学芸員は「市保有の資料に『拾戸』と記したものはなく、歴史を知る上で価値がある」と話している。

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幕末のアイヌ民族詳しく 玉虫左太夫の「入北記」展示 白老(北海道新聞2006-07-28)

アイヌ民族の生活事情を記した玉虫左太夫の著作が並ぶ特別展

仙台藩士の玉虫左太夫(たまむし・さだゆう)が幕末期のアイヌ民族の暮らしぶりを綴った『入北記』(全9巻)の原本などを集めた道内初の特別展が8月13日まで、胆振管内白老町の仙台藩白老元陣屋資料館で開かれている。

特別展は「玉虫の見た蝦夷地」左太夫が函館奉行に随行し、安政4年(1857)に約4か月かけて道内を歩き、筆を執った『入北記』では、アイヌ民族が現在の石狩市や渡島管内長万部町で、幕府との交易をしながらも独自の文化を守り続けている様子が描かれている。また道内各地の気候や産業、風俗も詳細に書き残している。

同町と仙台市が姉妹都市提携を結んでおり、仙台市指定の有形文化財約60点を道内で初公開した。左太夫が幕府に同行して米国に滞在した記録『航米日録』の原本も展示している。


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鄭成功の功績偲ぶ…平戸で誕生祭、台湾や日本の子孫参加(読売新聞2006-07-18)

台湾からの訪問団長で、神事に臨む鄭義和さん

平戸出身で、近松門左衛門人形浄瑠璃「国性爺合戦」のモデルとして知られる中国の武将・鄭成功の生誕祭が14日、同市川内町の丸山公園内の鄭成功廟で行われた。

台湾や日本の鄭氏の子孫をはじめ、台湾の台南市政府の関係者や白浜信・平戸市長ら約300人が参加。鄭氏の功績を偲び神事が行われ、鄭氏が生まれた場所とされる同町千里ヶ浜の「児誕石」の石の一部が、平戸市側から台湾からの出席者に贈られた。「中野自安和楽」(国指定重要文化財)なども奉納された。

鄭成功は17世紀、に滅ぼされようとしているを擁護し、台湾のオランダによる支配からの解放に力を尽くした。父が福建省出身の貿易商・鄭芝龍、母は平戸川内浦(現在の川内町)出身の田川マツで、幼少期を平戸で過ごした。

24年程前から、平戸と台湾の関係者が相互に訪問団による交流を行い、今回台湾から88人が訪問した。


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五稜郭内に箱館奉行所を復元、来月13日から着工(Brain News Network2006-06-30)

箱館奉行所西面立面図 昨年行われた箱館奉行所跡の発掘調査の光景

◇2010年に完成、総工費33億円

国の特別史跡「五稜郭跡」内に箱館奉行所を復元する工事が、来月13日から始まる。

五稜郭はもともと、役所である箱館奉行所を防備上の理由から内陸に築く目的で幕府により建造された。1864年に完成し、僅かな期間、奉行所として機能したが、明治政府の発足に伴って政府機関「箱館裁判所(後に箱館府)」となる。その後、新政府に抵抗する榎本武揚ら幕府脱走軍が占拠、箱館戦争終結までの拠点となるも、戦争後奉行所庁舎は明治政府によって解体された。

復元においては、発掘調査の成果や現存する絵図面、古写真などをもとに、正確に当時の位置に寸分違わぬ姿で建てることを主眼に置いている。但し、復元されるのは奉行所庁舎の主要な部分のみで、全体の1/3程度の範囲。また、建築時の記録に基づき、できる限り当時と同じ材料、工法で建築時を再現する形で工事を行なう。

こうしたことから、函館市教育委員会では完成した姿のみならず、復元工事の課程を見せることにも価値があると考えている。具体的には、工事用の囲いを透明のものにして外から見えるようにしたり、期日を決めて工事途中の建物内部に入る見学会を開催するなどの方法を検討中だ。

工事は平成22年(2010)6月頃に終わり、同年7月のオープンを予定している。完成後の公開は有料(料金未定)となる。「あくまでも役所としての建物である奉行所そのものを見て頂く」(市教委)ことが復元の目的であるため、奉行所庁舎内にガラスケースを並べて展示物を陳列するようなことはしない。

奉行所復元に伴い、五稜郭の内部全体を当時の姿に合わせて整備するため、付属建築物である土蔵や板蔵などの復元も行なう。これに伴い、現在、五稜郭内にある市立函館博物館五稜郭分館は解体される。同館には箱館戦争関連の展示物が収蔵されているが、奉行所完成後は展示スペースがなくなるため、博物館本館に移される予定。

市教委では、「五稜郭は箱館戦争の場として捉えられているが、奉行所完成の折には本当は何故五稜郭があるのか、そもそもの歴史的経過を見て頂きたい」と話している。また、「五稜郭に来られた観光客の方から、『中には何にもない』との声をよく聞く。そういう意味では、中に奉行所ができることにより見て頂く内容が濃くなり、それまでより長い時間留まって楽しんで頂けるのではないか」と観光への効果も期待している。

奉行所復元に伴う総工費は約33億円。うち、本庁舎に関わる工費は約21億円。詳細は検討中だが、全国の有志から奉行所復元に対する募金を受け付けたいとの構想もあるとのこと。

なお、五稜郭裏側の裏門橋と裏門橋側駐車場は工事に伴い7月13日以降、一般の通行や使用はできない。

(参考)
函館市史編さん室 公式サイト

『函館市史』デジタル版

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「蜂須賀家臣成立書」をデータベース化 徳島大学付属図書館、HPで公開へ(徳島新聞2006-02-15)

徳島大学付属図書館は、所蔵する『蜂須賀家家臣成立書』をデータベース化する作業を進めている。成立書は藩士の家系図や居住地のほか、家の設立の経緯などが記されていて、藩政期の様子を知る貴重な資料。平成19年(2007)春に同図書館のインターネットのホームページ(HP)で公開する事を目指していて、現在公開している藩士名入りの屋敷地割が記された徳島城下絵図と連携させる予定。地図にある藩士の家をクリックすれば「どういう家か」「どんな功績を立てた家か」などが分かる仕組みができる。

「蜂須賀家家臣成立書」は、江戸時代末期に藩士が藩に提出した文書を集めている。徳島大学付属図書館が所蔵しているのは藩士約1700家、約1万2000人の家系図などのほか、家紋、出身地を記録している。

「蜂須賀家に尾張から連れて来られた」「長年、女中をしていた功績が認められた」など家の創設の経緯などが分かる。家によっては、豊臣秀吉らからの書状など、今は失われている古文書の写しが収録されている。

付属図書館は本年度、教員や学外専門家らで創る「データベース作成委員会」を設置して、成立書のデータベース化作業に取り組んでいる。

委員の1人、徳島城博物館の根津寿夫学芸員は「単調な資料として見られがちだが、記されているのは人間社会の縮図。他の資料と照らし合わせて読むことで、当時の様子や歴史が生き生きと浮かび上がってきて、非常に面白い」と話している。

16日午後1時半から、同図書館で学術講演会「『蜂須賀家家臣成立書』からみた阿波の社会史―奥女中・町手代・武芸者『感状之家』」があり、根津学芸員が成立書について話す。入場無料。問い合わせは、同図書館総務係へ。

→※(参考)蜂須賀家家臣成立書並系図

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藤村吉九郎墓碑由来記(防府日報2006-02-01)

セラミック製の長州ファイブの姿を見る藤村さんら関係者

28日、西浦小茅山の山麓に眠る藤村吉九郎の遺徳を偲び、墓所に墓碑由来記が建立された。

藤村吉九郎長州の五傑(長州ファイブ)の1人、山尾庸三の実兄。山口市秋穂二島の山尾忠治郎の次男で藤村家に婿入りし、同家を相続した。西浦塩田や西浦焼きなど、精力的に地域産業育成発展に尽力し、地域住民から尊敬を集めた。

ロシアへの渡航経験もあった山尾庸三ロンドン大学(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)から造船の街グラスゴーで造船・製鉄技術を学び、日本の工業振興の礎を築いた。工務卿(建設大臣)や横浜の造船局長などを歴任し、工部大学校(現・東京大学工学部)や我が国初の盲唖学校の設立に力を尽した。

藤村吉九郎翁の墓所からは塩田が眺望でき、塩田跡にはマツダ防府工場が建ち、山尾庸三翁の夢見た工業発展の象徴が実現している。

墓碑由来記吉九郎翁の孫になる藤村秀夫氏、藤村達人氏、藤村利尚氏が記述、エヒメアヤメ保存会の若林清利会長が立会人となり、小西石造鰍ェ施工した。

また昨年県内ロケが行なわれた日英合作映画「長州ファイブ」の上映が今年秋には予定されていることも歴史の巡り合わせか。

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武士道、介護休暇見つけたり 江戸後期 亀山藩士の日記(朝日新聞2005-11-27)

「介護休業」を願い出た内容が記されている古文書

京都府亀岡市にあった亀山藩で江戸時代後期、武士が重病の祖母を介護するために休みを申し出て、家老らに認められていたことが、京都府立総合資料館(京都市左京区)による古文書解読でわかった。先例が勘案されて許可され、祖母は回復した。同資料館の担当者は「現代のような介護休業制度があったのでは」と分析している。

中級藩士だった及川家から寄贈された文書の1つ『御番頭代京火消詰日記』でわかった。『御番頭代京火消詰日記』は、幕府の命で主に京都御所と二条城の消防を担当する役目。その責任者代理だった及川源兵衛広之が、日記を残していた。

日記には、伊丹孫兵衛という藩士が及川を通して家老や年寄らに宛てた文政3年(1820)4月19日付の「休業願」が写されていた。伊丹は火災現場の警備責任者を務めていたらしい。「高齢で病気の祖母の調子がよくないので、命あるうちにしばらくでも看病したい」という内容で、介護休業を「看病之御暇」と記している。

日記には「願」提出の前後のいきさつも書かれていた。介護対象が親でないことが協議されたが、江戸藩邸詰の藩士が祖母の大病で帰郷したという先例があり、伊丹の親類が事前に相談していた「根回し」もあって認められた。祖母は快方に向かい、伊丹は5日後に職場復帰した。

同資料館の歴史資料課古文書担当の山田洋一さんは「亀山藩では当時領民の親孝行を表彰していたことも、休業が認められた背景にあるのでは。絶対服従と思われた武士の意外な側面を伝える記録だ」としている。

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学問所「懐徳堂」を復元 大阪大学で模型公開(京都新聞2005-10-11)

大阪大学で公開された学問所「重建懐徳堂」の模型

江戸時代に大坂商人らが私財を投じてつくった学問所で、財界人らが大正時代に再興した「懐徳堂」の模型が完成し、11日、大阪大学で公開された。

懐徳堂は享保9年(1724)、商人らに倫理や道徳を教えるため、現在の大阪市中央区今橋に設立。自由な学風で知られたが、明治維新で閉鎖となった。

しかし財界人らの呼び掛けで大正5年(1916)、現在の大阪商工会議所がある同区本町橋に「重建懐徳堂」として再建され、市民らが学費を払って倫理などを学ぶ市民の学校として親しまれた。

建物は戦争で焼失したが、残った蔵書を大阪大学が保管。その中に建物の設計図があることが分かり、当時の設計、施工に携わった竹中工務店に模型の製作を依頼した。

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幕末の志士・宮部鼎蔵 御船町上野住民有志らが銅像建立(熊本日日新聞2005-07-11)

肖像画をモデルに造られた幕末の志士・宮部鼎蔵の銅像

上益城郡御船町出身の幕末志士宮部鼎蔵の遺徳を後世に伝えようと、地元の上野地区の住民らが寄付金などを基に銅像を建立。10日、宮部兄弟の記念公園「鼎春園」で、子孫を招き除幕式があった。宮部鼎蔵銅像建立は初めて。

宮部鼎蔵肥後藩の兵学師範を務め、長州吉田松陰らとも交流。後に京都で尊王攘夷派のリーダーとして倒幕運動に参画。池田屋新選組の襲撃を受け、44歳で非業の死を遂げた。

銅像を建立したのは、宮部の供養祭や学習会などに取り組む「宮部先生兄弟顕彰会」。活動の中でシンボルとなる彫像設置の気運が盛り上がり、今年2月から地元住民や出身者に寄付金を募るなどして計画を進めてきた。

銅像は、上野小に残る宮部肖像画をモデルにした裃姿の座像で、台座を含め高さ約2・2m。台座は地域おこし団体「上野愛郷委員会」が提供し、銅像横には郷土史家・奥田盛人氏の撰文を記載した記念碑も設置した。総事業費は約400万円。

除幕式に続き、慰霊祭を兼ねた記念式典が上野小体育館であった。住民や町関係者ら約150人が出席。同会の高村一男会長が「皆さんの協力で、宮部先生の雄姿が見事に復元された。今後も顕彰事業に一層力を入れ、業績を後世に語り継いでいきたい」と挨拶した。

宮部の曽孫にあたる熊本市の宮部増範さんも来賓として招かれ「除幕式に参列し、感動と感激でいっぱい。(関係者に)お礼を述べたい」と話した。

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幕末の材木問屋の伝記 左京と城陽の男性 現代語訳で発行(京都新聞2005-07-05)

幕末の激動期を生きた福田理兵衛の伝記を出版した福田慎吾さん(右)と南部彰造さん

幕末に勤王倒幕を掲げた長州藩士を支え、ともに活動した京の材木問屋福田理兵衛について孫が綴った伝記を、その親類にあたる京都市左京区と京都府城陽市在住の男性2人が再発行した。現代語訳を中心に新たに編集したもので、激動の時代を生き生きと伝えている。

理兵衛は現在の右京区嵯峨で材木問屋を営み、取引を通じて長州藩と繋がりを深めたとされる。文久2年(1862)、長州藩御用達になり、藩の定宿となった天龍寺も理兵衛の仲介という。この間、桂小五郎らと親交を深め、禁門の変では理兵衛親子が天龍寺に兵糧米などを運び込み支援。敗戦後、長州軍と山口に逃れ、現地で武士の身分を与えられ、生涯を閉じた。

伝記は昭和15年(1940)、理兵衛の孫の故福田吉太郎さんが綴った。理兵衛を顕彰する親族たちが受け継いできたが、文語体で装丁も古くなってきたことから理兵衛の一族にあたる福田慎吾さん=京都市左京区=と南部彰造さん=城陽市=が昨秋、再発行を思い立った。

書名は『新編 福田理兵衛』。南部さんが現代語訳を担当し、福田さんが理兵衛所縁の古文書などを提供、筆者の吉太郎さんの人物像を伝える資料も収めた。A5判307ページで、印刷製本は福田さんが短歌サークルに参加している縁で京都ライトハウス(京都市北区)の授産施設に依頼し、400部作った。

2人は「理兵衛さんの活躍はあまり知られていない。明治維新を支えた1人として後世に伝えたい」としている。問い合わせは福田さんへ。

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豪商の生活浮き彫り 倉吉「旧牧田家」調査(日本海新聞2005-05-13)

「貴重な商家遺構」とする調査結果がまとめられた旧牧田家の建物内部

倉吉市は12日、江戸時代の大坂の豪商「淀屋」の再興に関わり、同市内で現存する最古の町家「旧牧田家」(同市東岩倉町)の調査結果を公表した。岡本淀屋(大阪)と旧牧田家を直接結び付ける新たな発見はなかったが、報告書は旧牧田家母屋は柱の配置や大きさ、垂木構造の技法などから「当地方では例を見ない注目すべき、貴重な商家遺構。豪商の生活ぶりが窺える」と指摘している。

旧牧田家の調査は、昭和54年(1979)に続いて2回目。現在、建物(母屋)を所有している個人が市に無償寄付を申し出ていることを受け、保存活用の可能性を探るため、昨秋に専門家による調査委員会を設けて、母屋と付属屋(寄付申し出とは関係ない別の個人所有)を調査した。

母屋は江戸中期の宝暦10年(1760)に建築され、天保9年(1839)に付属屋を増築。現在の母屋の間口は7間だが、当初は8間以上の大型建物で、母屋西端の一部を分割して付属屋を造ったことが今回の調査で判明した。

一方、書院造りの付属屋は、15畳の「奥座敷」「次の間」がある接客用として建てられている。当時は武士階級や寺社関係にしか許されなかった式台玄関が残っており、市文化財課は「付属屋は町人相手ではなく、武士階級を接客していた建物であることは間違いない。当時の牧田家の財力が窺い知れる」と強調している。

市は、旧牧田家母屋の建物活用について方針を決めていないが、調査結果がまとまったことを受けて長谷川稔市長は、12日の定例会見で「市民の関心も高く、取得する意向で進めたい」と寄付を受ける考えを示した。

ただ、「母屋と付属屋を一体で考えることで価値がある」ことから、市は▽建物の改修費などの財源的な裏付け▽母屋の寄付申し出とは関係ない付属屋の扱い▽建物全体の活用策―などの課題をクリアしていく方針だ。

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淀屋の業績、何だろう 豪商取り潰しから300年 大阪・北区でサミット/大阪(朝日新聞2005-05-10)

土佐堀川にかかる淀屋橋(中央区・北区間)の名の由来となった江戸時代の豪商「淀屋」幕府から財産没収、大坂追放の処分を受けて、今年で300年になる。淀屋の業績などを考える「淀屋サミット」が16日午後3時から、北区梅田1丁目の大阪駅前第3ビル28階、鳥取県大阪事務所交流室で開かれる。

参加するのは『真説淀屋辰五郎』の著者で淀屋研究家の新山通江さん、大阪歴史博物館の脇田修館長、後に淀屋再興を果たした「淀屋清兵衛」の出身地、鳥取県倉吉市の長谷川稔市長ら。淀屋の偉業や歴史について、一般参加者をまじえて質疑応答や情報交換をする。

淀屋は初代が豊臣秀吉淀川堤防工事で財をなした。2代目以降、米市を開設するなど大坂で多彩な事業を展開、広大な敷地に48の蔵を建てた。屋敷前から米市までの間に自力でかけた橋が「淀屋橋」の名の起こりと云われる。

当時は貴重品だったガラスを屋敷の天井一面に張り、その上に金魚を泳がせるなど、贅沢の限りを尽くしたが、宝永2年(1705)5月、5代目の辰五郎の時、幕府から闕所けっしょ(財産没収)の処分を下された。「町人の分限を超えた贅沢ぶりが目に余る」との理由だったが、淀屋幕府大名に貸した金は現在の貨幣価値で国家予算に匹敵する程あったと言われ、膨らんだ借金の帳消しを狙ったとの説もある。

会費1000円。懇親パーティー(午後6時半から)出席者は5000円。参加希望者はFAXで申し込む。定員70人になり次第締め切る。問い合わせは倉吉市大阪事務所の伊藤さんへ。

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お天気マーク:江戸時代にも 蕨の宿役人、岡田家所蔵の資料から発見(毎日新聞2005-03-24)

江戸時代の蕨宿役人、岡田家の所蔵資料のうち江戸後期の弘化2年(1845)に書かれた手飛哥恵てひかえ帖』に晴、雨など9種類の天気マークが使われていたことが埼玉県蕨市立歴史民俗資料館の調査で分かった。

『手飛哥恵帖』は、当時宿役人で肥料、質屋、酒屋などを仲町(現蕨市本町)で営んでいた岡田家の当主が記した。正月28日〜2月7日まで江戸を往復した間の出来事を和紙20ページに細筆で書いている。

天気マークは月日の横に記され、晴(快晴)は○、雪は漢字で「雪」とした。雨は細かく分類され、網目の○は「終日小雨」。横線なら「朝時々小雨昼より晴」、縦線だと「朝降り夜中まで降る」―などと説明がついている。●は説明はないが終日大雨とみられる。○の中を上下に分け「夜分より雨、今朝小雨」「八つ時(午後1〜3時)より大雨」などのマークも作っている。

同資料館の照会に気象庁は「文久3年(1863)の記録に天気マークが記されているが、その前にこんなに多種類のマークが使われていたのは驚き。貴重な資料」と評価しているという。同館は国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)にも依頼し、さらに詳しく調査する。

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