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能登駆けた往診駕籠保存 医業13代、志賀の医師方に 江戸時代、地域医療に尽くした証し(北國新聞2006-12-29)

保存されている往診に使った江戸期の駕籠を示す河崎さん

志賀町高浜町で医業が13代続く河崎医院の河崎哲朗院長方に、江戸時代の往診に使われた駕籠が伝えられている。装飾はなく150年程経った今では傷みも激しいが、それだけに先祖が能登を駆け巡って地域の医療に尽くした証しとして、河崎さんはこの家宝を大切に守っている。

現在、土蔵の天井に吊り下げられている駕篭は人一人が座って乗れる程の大きさで、塗りなどは施されていない。河崎さんの話や昭和35年(1960)発行の郷土紙『公民たかはま』によると、駕籠は今から5代遡り名医と慕われた公平氏とその前の環氏が主に使っていたとみられる。

公平氏は天保12年(1841)生まれで、名医の誉れ高く、遠くは穴水、輪島地方まで往診を請われたという。以前調べた際には、駕篭の中には薬籠や使った薬などを記した今でいうカルテも残されており、その活躍ぶりが偲ばれた。

17代続く河崎家は江戸前期の5代目から医業に携わっており、次の18代目も娘さんと夫が継ぐ予定という。河崎さんは「駕籠は長い間、地域医療に生きてきた河崎家の象徴のようなもの。私が先代から受け継いだように貢献の精神とともに次代へ渡していきたい」と話している。

県立歴史博物館によると、武家や僧侶などが使ったものに比べて医者が乗った駕籠の保存例は少なく「大事にしてほしい」としている。

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吉良公偲び第304回忌 吉良・華蔵寺で(中日新聞2006-12-15)

吉良上野介の墓前で手を合わせる参列者たち

元禄15年(1702)の赤穂浪士討ち入りで最期を遂げた吉良上野介義央第304回毎歳忌法要が命日の14日、吉良家の菩提寺である吉良町岡山の華蔵寺で営まれた。

吉良公史跡保存会が営み、町や保存会関係者のほか、浅野内匠頭が切腹した一関藩主田村家(岩手県一関市)の菩提寺である祥雲寺の菅原力総代ら約400人が参列した。

華蔵寺の黒柳建英住職らの読経の中、墓前で保存会の大渓紀雄会長らが焼香して冥福を祈った。吉良町の山本一義町長は「町民として吉良さんを今後とも継承して、崇めていきたい」と呼び掛けた。

4年前の300回忌に復元された経蔵白衣観音木像が特別公開され、華蔵寺の研究をしている桜花学園大学非常勤講師の高井恭子さんの記念講演もあった。

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江戸時代の「義民」穴井六郎右衛門 郷土史研グループが発刊(大分合同新聞2006-12-08)

『天領日田・玖珠の義民 穴井六郎右衛門と代官政治』を市に寄贈する高瀬真実会長(左端)ら

日田市の郷土史研究グループ「自然と史跡探訪会」は、江戸時代に農民を救済し「義民」と呼ばれた馬原本村(現日田市天瀬町)の庄屋穴井六郎右衛門が没後260年を迎えたのを機に、六郎右衛門の義心と当時の代官政治を伝える冊子『天領日田・玖珠の義民 穴井六郎右衛門と代官政治』を発刊した。

六郎右衛門は、江戸時代に日田代官として赴任した岡田庄太夫俊惟による厳しい年貢の取り立てに苦しむ農民の窮状を、江戸に赴いて幕府に直訴。延享3年(1746)12月に現在の日田市の河原で処刑された。

冊子(A5判・61ページ)では飢饉の際に六郎右衛門が農民を救うため私財を投じて行った農民救済事業や直訴に至る経緯を紹介。更に岡田代官の政治を、同様の飢饉の中で農民の窮状を救った飛騨高山(現岐阜県)の代官の善政と比較している。会費や広告主の寄付で1000部発行。うち500部を市内の小中高校や老人クラブ、図書館などに寄贈し、残りを広告主に配る。希望者には増刷して対応する予定。

「六郎右衛門の正義感を今に伝えたい」と話す同会は、10日と24日に市内にある所縁の寺で法要を営む。問い合わせは同会の高瀬真実会長へ。

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江戸末期 農民の“救世主” 黒部市吉田科学館で企画展 椎名道三の偉業紹介(中日新聞2006-12-02)

椎名道三が十二貫野用水に使った石管

江戸時代末期に北陸各地で農業用水造りと新田開発に取り組んだ先人にスポットを当てた企画展「十二貫野用水と椎名道三の偉業」が、黒部市吉田科学館で開かれている。来年2月25日まで。椎名道三の生涯を紹介するプラネタリウム番組「大地をひらく」も自主制作し、功績を伝えるフォーラムや番組の試写会が2日、同館で行われる。

道三は寛政2年(1790)、中新川郡中加積村(現滑川市)の生まれ。黒部市を流れる十二貫野用水加賀藩の命で、天保10年(1839)の着工から15か月で完成させた。

同用水が2月に農林水産省の「全国疏水百選」に選ばれたのを機に企画。3月末の合併で、用水流域がすべて黒部市になったのも記念した。

企画展では、用水に使われた石管、道三が使った測量器具などを紹介。現在は改修工事で殆んどがトンネル化した用水の昔の姿を伝える写真約50点も並ぶ。

またプラネタリウム番組は、科学館が民話や史実に基づき、自主制作しているシリーズの第8弾。貧民救済に捧げた生涯を、冬の星座を交えて紹介する。投映時間は約50分。

焦点を当てたのは、崇高な人間性。道三は、水不足に悩まされていた台地に用水を引き、貧しかった農民を救ったほか、開墾後3年間は年貢米を免ずるよう進言した。藩主からの恩賞も農民に与えたと伝えられている。

フォーラムでは、十二貫野用水の研究では第一人者の越前久松さん、県職員時代に同用水を担当していた長崎喜一さん、番組を制作した滝沢卓さんら6人がパネリストとして意見交換する。

フォーラムは2日午後1時から。試写会は午後2時半から。問い合わせは、吉田科学館へ。

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松山城天守に150年前の大工の落書き発見(愛媛新聞2006-11-24)

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「平成の大改修」がほぼ終了した松山城。平成16年(2004)10月から約2年にわたる改修工事期間中、天守の壁に使われていた板の裏面から約150年前の江戸後期のものとみられる“落書き”がこの程見つかった。市松山城総合事務所は「当時の職人の遊び心や、松山藩の穏やかさが伝わってくる貴重な資料」と話している。

松山城天守は天明4年(1784)元日、落雷で焼失。文政3年(1820)から再建工事に着手し、32年をかけて復興した。落書きが見つかったのは、天守2階の南側にある長さ195p、幅17pの下見板の裏面。左右両端の2か所に墨で描かれており、同事務所は復興時の再建工事に携わった大工が描いたとみている。

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福田侠平偲び慰霊祭―山口(山口新聞2006-11-16)

山口出身の維新の志士で、高杉晋作に最も信頼されたという奇兵隊軍監福田侠平慰霊祭が11日、同市大内氷上の侠平遺髪墓であった。地元の歴史を掘り起こしている大内倶楽部が営んだ。

同倶楽部によると、侠平は文政12年(1829)、同市後河原の長州藩士・十川権右衛門の次男として生まれ、長門・油谷の藩士・福田貞八の養子となった。文久3年(1863)に結成された奇兵隊に志願入隊し、2年後に山県狂介(有朋)と共に軍監を兼務。総督・晋作の片腕として活躍した。

大田絵堂の戦い、四境戦争、戊辰戦争と転戦。味方不利の状況にも酒を飲みながら「騒ぐな、あせるな」と悠然と指揮したという。

平成7年(1995)に設立された同倶楽部は、活動の一環で侠平遺髪墓が地元にあることを知って探訪。同9年(1997)、山根観音堂の裏山の共同墓地にあることが分かり、侠平顕彰する説明板を設置したり慰霊祭を続けている。

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清正・忠広と庄内―射程(熊本日日新聞2006-11-14)

「肥後 加藤清正公・忠広公顕彰会」主催の講演会とシンポジウムが、今月23日午後1時から県庁地下大会議室で開かれる。来年の「熊本城築城400年祭」に向けたプレイベントだ。

加藤忠広は父・清正の死後、11歳で跡目を継いだ。しかし重臣らの派閥争いが絶えなかったことに加えて、忠広自身の統治能力の問題などで、32歳の時に幕府によって改易され、出羽庄内藩(現在の山形県)の酒井忠勝の許に配流された。

忠広と生母・正応院は羽黒山などの出羽三山を望む丸岡城に幽居したが、酒井忠勝が武人としての清正を尊敬していたため待遇は良かったようだ。

18年前、その丸岡城跡を取材で訪れた。西側を見上げると、奇しくも熊本のそれと同名の金峰山があった。

城跡の隣は寺。昭和24年(1949)にここの墓地から、忠広が密かに肥後から運ばせた清正の遺骨が発掘されたという。忠広と正応院は、城跡に近い鶴岡市の日蓮宗の寺に祀られている。

地元には「加藤清正・忠広公遺蹟顕彰会」があり、熊本に対する親近感が強い。丸岡と鶴岡市の寺では、熊本の本妙寺で清正追善の頓写会が行われる7月24日に、それぞれ清正・忠広親子を偲ぶ法要が営まれるそうだ。

プレイベントでは、鶴岡市の研究家「加藤忠広公と庄内丸岡」と題して講演する。熊本では忠広が繋ぐ肥後と庄内の縁についてあまり知られていなかっただけに、いい機会となるだろう。

―◇ ◇ ◇ ―

・築城400年記念・熊本城大サミットプレイヤー 記念講演とシンポジウム「それからの加藤家」

 日 時−11月23日(木・祝)13:00〜16:00
 場 所−熊本県庁地下大会議室
 備 考−入場料無料(但し資料代1000円)

 記念講演−松田安男(加藤清正公・忠広公顕彰会副会長)
      「加藤忠広公と荘内丸岡」
 シンポジウム−「加藤清正が遺したもの」

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「お糸」偲んで慰霊祭(中国新聞2006-11-11)

お糸慰霊祭で焼香する参列者たち

江戸時代、服部大池(福山市駅家町)の造成工事で人柱となったと言い伝えが残る16歳の少女「お糸」を偲ぶ慰霊祭が10日、池のほとりの公園であった。今年で28回目。お糸像の前で式典があり、約40人が参列した。1人ずつ焼香して手を合わせ、お糸の冥福と池の安全を祈った。服部大池は周囲4q。正保2年(1645)、福山藩主水野勝成の命で完成した。決壊を防ぐため、お糸人柱として埋められたという伝説が残る。

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五島崩れ「牢屋の窄」 キリシタンの墓石確認(長崎新聞2006-11-09)

五島崩れ「牢屋の窄」殉教者のキリシタン墓石を確認する研究グループ

県文化振興課の大石一久係長ら研究グループは7日、五島市久賀島の細石流ざざれで、キリシタン弾圧「五島崩れ」の口火となった「牢屋のさこ」事件の初期の殉教者、野浜力蔵の墓石を確認した。

キリシタン禁教策を引き継いだ明治政府の下、五島の迫害は慶応4年(1868)、久賀島の牢屋の窄から始まった。6坪(19・8u)の牢に約200人が押し込められ、8か月もの残酷な責め苦を受け、42人が殉教野浜はその最初の殉教者とする説もある。

大石係長らは平成16年(2004)8月、細石流の山中で「五島崩れ」の中心的信者、畑田栄八らの墓石を確認。西洋の棺のような珍しい形状が注目された。今回の野浜の墓石は、畑田と同じ墓域にあり、ほぼ同形。縦133p、横最大76p、高さ16p。中央に十字架洗礼名、氏名、左右に「死於猿浦獄中」「為天主教信仰」などの文字が刻まれている。猿浦とは牢屋の窄のことという。

研究グループは6〜8日、久賀島に滞在し調査。大石係長は、明治6年(1873)にキリスト教禁止の高札が廃止され信仰が黙認されるようになって以降、明治10年代に墓石が作られたと推察。「野浜は弾圧期の象徴的人物。『死於猿浦獄中』など牢屋の窄事件を裏付ける情報が記され、碑文の内容は豊か。分析を進める」としている。荒廃している墓域の保存の必要性も強調した。

調査研究の詳細は、来年3月に出版する書籍にまとめる予定。

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由利公正の業績に焦点 県立歴史博物館 特別展始まる(産経新聞2006-11-04)

明治天皇が公卿や諸侯らに示した新政府の基本方針「五箇条の御誓文」の原型を作ったことで知られる由利公正こうせい特別展が3日、福井市の県立歴史博物館で始まった。26日まで。

由利福井藩での財政再建の手腕を買われ、慶応3年(1867)の王政復古の後、戊辰戦争を戦っていた新政府の財政を担当した。慶応4年(1868)、土佐藩福岡孝弟が示した列侯会議にあたって、由利は議会の理念を示した「議事之てい大意」を起案した。

この由利案を福岡が修正し、第1条冒頭に「列侯会議を興し」を追加。表題を「会盟」に改め、天皇と諸侯の盟約案にした。

ところが、この形式では天皇と諸侯が対等の関係となり、王政復古には適わないという批判が生じたため、天皇が諸侯らを率いて神前で誓いをするという形式木戸孝允が提案。この際、福岡案の「列候会議」「広く会議」に変更し、国際法の遵守を盛り込んだ五箇条の御誓文となった。

展示では、由利議事之体大意から五箇条の御誓文に至るまでの変遷を、4つの文書で追うことができる。由利は天皇の宣誓となる「御誓文」を想定せず、議会についての自身の信条を記したが、その理念は五箇条の御誓文まで引き継がれており、政治家としての由利の優れた横顔を垣間見ることができる内容だ。

由利は明治4年(1871)、第4代の東京府知事に就任。府知事時代、大火災に遭った東京の都市計画も手掛けており、展示では併せて由利が計画した「銀座煉瓦れんが通り」の業績も紹介している。

また、由利を紹介する約9分のビデオを上映。ビデオは県内の中学校に配布する予定。

午前9時から午後5時までで、観覧料は一般100円、高校生以下と70歳以上は無料。8、22日休館。問い合わせは同館へ。

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名所「百間堤」広めよう 大津、案内看板を設置(京都新聞2006-10-26)

百間堤に設置された案内看板

大津市の旧志賀町域に残る江戸時代末期の大規模な石積みの堤防百間ひゃっけん堤」を知ってもらおうと、地元住民らがこの程、堤を紹介する案内看板を設置した

百間堤は、同市南比良と大物に跨る長さ100間(約180m)、幅18m、高さ最大9mの石垣。比良山系から流れる四ツ子川が、度々氾濫したことから、嘉永5年(1852)の水害後、当時の藩主、堀田正誠が約6年間かけて築造させたとされ、巨石を積み上げた壮観な石組みが今も残っている。

看板は、堤の清掃活動などを行ってきた地元の大物老人クラブ「福寿会」が、今年3月に旧志賀町が大津市と合併したことをきっかけに、名所としてPRしようと設置した。堤ができた経緯や大きさなどを紹介し、安全のための手すりも設置した。

会長の北村寛和さんは「景観もよくハイキングにも最適なので、多くの人に来てもらい、先人の偉業と地元の歴史を知ってほしい」と話している。

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最古「折形」本に感激 オランダの折り紙作家が桑名へ(中日新聞2006-10-20)

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世界的に活躍しているオランダの折り紙作家のパウラ・ワエルスニッケさんが19日、桑名市京町の市博物館で、世界最古の折り紙の本といわれる『千羽鶴折形』を見学した。

『千羽鶴折形』は、桑名市・長円寺の住職だった魯縞庵ろこうあん義道ぎどうが江戸時代の寛政9年(1797)に執筆した。1枚の紙から何羽もの鶴を折り上げる連鶴49種類を考案し紹介している。木版画で200冊が出版されたが、所在が確認されているのは数冊。世界各国の折り紙本には必ずと言っていい程紹介されており、パウラさんは以前から憧れていたという。

パウラさんは今回、夫のヘラルトさんと旅行のため来日。名古屋市千種区の折り紙創作家青柳祥子さんが市博物館に働きかけ、本との対面が実現した。

本を目にしたパウラさんは「折り紙の歴史の中でとても重要な本。こんな機会は一生に一度で、本当に嬉しい」と感激。本に書かれている折り鶴を再現し、写真集を出版した桑名市の大塚由良美生涯学習課長の説明に熱心に耳を傾けた。

パウラさんは長円寺も訪ね、連鶴折りにも挑戦した。

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電子紙芝居:農民一揆「高崎五万石騒動」CD化 完成の記念集会開催/高崎(毎日新聞2006-10-18)

◇55年前の原画、ダイジェストで復元―21日に高崎中央公民館

137年前、高崎藩領で起きた農民が年貢減免を求めた一揆「高崎五万石騒動」が、電子紙芝居でCD化された。高崎五万石騒動研究会が、55年前に作られた原画をダイジェスト版で復元した。同研究会は21日、高崎中央公民館で電子紙芝居完成の記念集会を開く。

五万石騒動は明治2年(1869)から3年間にわたり、高崎藩の重税で貧苦にあえいだ農民による税制改革運動。同年10月、総勢約4400人の農民が高崎城へ押し寄せ、強訴したが、一揆指導者の大惣代3人が斬首の刑に処せられた。

騒動から40年後、16歳で一揆に参加した細野格城『五萬石騒動』を執筆。さらに40年後の昭和26年(1951)頃、この著書を元に青年グループが紙芝居を制作している。紙芝居は上演活動中に行方不明になったが、大惣代の子孫宅から記録用に残した紙芝居のスライドが見つかった。

同研究会は、このスライドを元に昨秋、市民劇団「ロシナンテ」の協力で、声を吹き込み、35分に短縮したメディアCDに復元、1000部を制作した。CDは一部1000円。記念集会では五万石騒動の子孫紹介や郷土史家による記念講演「高崎五万石騒動における農民衆の願いと藩の対応」がある。参加費は300円。

同会の星野進乎会長は「五万石騒動では流血事件や打ち壊し、放火などが1件もなく、農民一揆(※)の暗いイメージを変える統率された行動だった。こうした騒動を市民に正しく伝えるのが、CD制作の目的」と話している。

(注)※=江戸時代までは「百姓一揆」と呼ぶが、明治以降は「農民一揆」と呼ぶ

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土方歳三の「銅座像」完成 東山・霊山歴史館が公開(京都新聞2006-10-06)

18日から公開される土方歳三の銅座像と制作者の江里さん

新選組副長・土方歳三の銅座像が完成し、京都市東山区の霊山歴史館が6日、公開した。彫刻家で日展評議員の江里敏明さん=左京区=の作品。洋装で胸に拳銃、腰には短刀を提げている。18日から同館で始まる特別展「龍馬と新選組の時代」で展示される。

同館の木村幸比古学芸課長は「土方の座像は全国で初めて」と話す。銅像は高さ66pで約50s。ザンギリ頭で、フロックコートようのマントとブーツを身につけている。坂本龍馬桂小五郎、中岡慎太郎ら幕末の志士の銅像を手掛けてきた江里さんに、同館が制作を依頼した。

写真を参考に、約1年かけて完成させた江里さんは「敗者である土方は、写真からは気負いもなく飄々として見えた。彼の思いを想像しながら作った」と話している。特別展では、同じ高さ66pの坂本龍馬の銅座像とともに展示する。

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“孝子儀兵衛”を偲ぶ 西京・冷聲院で法要(京都新聞2006-10-05)

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江戸中期親孝行に励み、尋常小の教科書でも紹介された「孝子儀兵衛」を偲ぶ孝子祭が5日、西京区の冷聲院れいしょういんで開かれ、住民ら約50人が地元所縁の偉人に思いをはせた=写真。

儀兵衛は享保9年(1724)に生まれ、現在の同区川島粟田町の農家の養子となった。10歳で義父を亡くし、貧しかったが、日中働くなどして病弱だった母を支えたと云う。

祭は地元住民らで創る孝子彰徳会が毎年、儀兵衛の命日に実施。墓前や本堂で法要を営んだ。同会会長の辻井和彦さんは「親子のコミュニケーションが希薄になる中、儀兵衛から学ぶ事は多い」などとする祭文を読み上げた。

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「長州ファイブ」所縁の地巡る 29日、東京でスタンプラリー(西日本新聞2006-10-02)

伊藤博文(右上)や井上勝(中央)ら「長州ファイブ」

県と県観光連盟は29日午前9時から、東京都内で、幕末長州藩から英国に密航し、技術や制度を学び、近代日本の礎を築いた伊藤博文、井上勝「長州ファイブ」の所縁の地を巡る「長州・大江戸スタンプラリー」を開く。参加料は無料で、定員1000人。多くの参加者を募っている。雨天決行。

ラリーは、県の首都圏観光PRキャンペーンの一環。首都圏在住者に県への関心を持ってもらい、誘客を図るのが目的。

さらに、県内からの参加者も募る。

訪問地は、日本最初の新橋−横浜の鉄道敷設に尽力した、井上勝所縁の旧新橋停車場を出発点に、伊藤博文墓所、長谷寺(井上馨墓所)麟祥院(遠藤謹助墓所)毛利庭園(長府毛利藩邸跡)おいでませ山口館(山尾庸三関連展示)を経て、世田谷区若林の松陰神社(吉田松陰墓所)にゴールする。

3か所以上巡回して、ゴールに到着した人には記念品を贈る。アンケート回答者には、山口往復ペア航空券や県特産品が当たる抽選会もある。

詳細は山口県東京事務所

参加案内(しおり)(但し、PDF文書)

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有名だった四角い土俵 南部相撲の全貌を紹介(盛岡タイムス2006-09-27)

「相撲極傳之書」遊覧角力ノ図(江戸後期) 「野見宿禰と当麻蹶速対戦之図」(大正〜昭和期)

「四角い土俵とチカラビト」展が23日、盛岡市上田松屋敷の県立博物館で開幕した。同館と県文化振興事業団が主催。四角い「角土俵」を使うことで全国的にも有名だった南部相撲盛岡藩における相撲の歴史的変遷を、全国と比較しながら紐解く。「チカラビト」は、藩のお抱え力士や行司、明治時代以降に草相撲に関わった人々と設定。その足跡を「地域性」と「娯楽性」の観点から探る。「チカラビトの系譜」「土俵の変遷」「行司の系譜」「身近なチカラビト」の4つのコーナーに分け、約140点の資料を展示している。

相撲の起源については『日本書紀』に伝説が残されている。そのエピソードを描いたのが、花巻市の早池峰神社に残されている絵馬野見宿禰のみのすくね当麻蹶速たいまのけはや対戦之図」(大正〜昭和)。野見宿禰は投げ倒した当麻蹶速の脇骨や腰を足で踏みつけ、絶命させたと記されている。この絵馬は地元の草相撲力士たちから同神社に奉納された。

全国的に土俵の区画が明確にできたのは、江戸時代初期といわれる。それまでは、力士の周りを囲む人垣人片屋ひとかたやが土俵の代わりを果たした。

土俵の区分がないため、現在とはルールが大きく違う。突き押しではなく、回しを取り合い、投げを打ち合い、相手を裏返しにするような技が主流だった。

「角土俵相撲興行之図」(江戸初期)などの資料から、江戸時代の中期までに、全国に角土俵が出現していたことが分かる。元禄時代以降(17世紀後半)に大坂や京都で行われた勧進相撲の中にも、角土俵の使用を示すものがある。

盛岡藩の土俵については「相撲極傳之書(遊覧角力ノ図)」(江戸後期)の中に、5つの相撲様式の絵入りの記載がある。

儀式的な「式正相撲」では八角形の土俵を三重に巡らせ、御前相撲神前相撲は二重の丸土俵を使用。角土俵で行われたのは、庶民が観戦できる相撲のみ。遊覧(勧進)相撲は二重、追善相撲は一重に俵を置いた。角土俵遊覧相撲は、地域によって昭和30年代まで残った。

江戸時代、盛岡藩の領内では遊覧相撲が行われ、多くのお抱え力士を輩出。力士たちは所属した藩を示す印紋が付いた化粧回しを身に着けた。盛岡藩の印紋は菱が2つ重なったものだった。

明治期から昭和30年代までは、街角での草相撲が盛んに行われた。盛岡市や滝沢村、八幡平市や二戸市で現在も続く奉納相撲は、岩手の相撲文化の裾野の広さを示している。

この他、行司の装束や江戸時代の力士の錦絵、「大相撲土俵入双六」、明治、大正時代の板番付なども展示されている。

11月23日まで。午前9時半から午後4時半。月曜休館。入館料は大人300円、学生140円、高校生以下は無料。途中、資料の入れ替えあり。10月1日の午後1時半から同3時まで、同館前の芝生広場で「角土俵の再現」が行われる。

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清水一学の太刀公開 当時の刃毀れも(中日新聞2006-09-27)

一般公開される清水一学の太刀

赤穂浪士吉良邸討ち入りで悲運の死を遂げた吉良家家臣、清水一学が応戦した際に使ったとされる太刀が10月1日、清水家の菩提寺にあたる愛知県吉良町宮迫の円融寺で特別公開される。一学の太刀の古里での一般公開は初めて。町教育委員会の三田敦司学芸員は「大変貴重な史料。歴史ファン必見です」と話している。

一学は二刀流の名手。主君・吉良上野介義央よしひさの末子で若死にした三郎と同い年で、顔立ちも似ていたことから江戸に召し上げられた。元禄15年(1702)の討ち入りの際に、一学は数えで25歳。主君を守るために奮戦、江戸・吉良邸の台所付近で亡くなったという。

太刀は一学の子孫の所有で、長さ約90p。刀のつかの部分に、相州(相模国、現在の神奈川県)の剣職人「広正」の銘が刻まれている。つばさやも当時のまま。討ち入りの際に欠けたと推測される「刃こぼれ」も見られるという。一学の墓も公開される。

公開は午前10時から正午まで。円融寺の河合海延住職が解説する。見学は無料。名鉄西尾線上横須賀駅から車で東へ約10分。問い合わせは町教委生涯学習課へ。

→(参照)吉良町「文化財公開」スケジュール

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境内の碑に説明板 京北・山国護国神社(京都新聞2006-09-16)

山国護国神社境内に新設された先人の説明板

幕末の動乱で活躍した山国隊所縁の山国護国神社(京都市右京区京北辻町)はこの程、境内の記念碑などの由来を書いた説明板4枚を立てた。これまで以上に地域の先人の偉業を讃え、郷土史を正しく伝えたい、としている。

京北の山国地域が発祥地という山国隊は、明治維新を迎える各地の戦いに出陣した。同神社は、同隊戦死者を祀るため、明治2年(1869)に創建された。その後、日清、日露両戦争、第二次世界大戦の各地元出身戦没者を慰霊、同社の藤野清臣宮司によると173柱になっている。

また、境内にはこの地域にまつわる4人の顕彰碑や歌碑などがあり、それぞれに木製の説明板(いずれも縦約30p、横約60p)を立てた。4人は、明治期京都府知事槇村正直徳川慶喜の兄で官軍に加わった因幡鳥取藩主池田慶徳山国隊司令長を経て、外遊し実業家になった原六郎因幡鳥取藩出身で同隊隊長を務めた河田左久馬

藤野宮司は「地域の歴史をみんなが知り、間違って伝えられないようにしたい」と、思いを込めている。

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栗きんとん発祥の地PR JR中津川駅前で今日、石碑除幕(中日新聞2006-09-09)

栗きんとん発祥の地をPRする石碑

「栗きんとん発祥の地」と大きく彫った石碑がJR中津川駅前広場に建てられた。栗節句といわれる9日、関係者で除幕して祝う。

石碑は蛭川石(花崗岩)製で、高さ2・8m、幅1・4mの三角錐型。中津川菓子組合、市観光協会、中津川商工会議所の連名で、中津川市と栗の歴史も刻んでいる。

中津川は山間地で山栗が多く採れ、江戸時代には、茹でた栗の中身をほぐして茶巾で絞る栗きんとんの原型が食されていた。中山道などを往く旅人たちの疲れを癒やし、中津川宿で俳諧を楽しむ文化人らの茶会の友となった。

住民の暮らしに根付いていた栗きんとんは、明治の中頃には和菓子屋により商品化され、季節限定の菓子として全国的な評価を得ている。

石碑建立の中心となった菓子組合の小笠原和之組合長は「栗菓子のまち中津川の筆頭格の菓子が栗きんとん。碑はかねての念願だった。改めて気の引き締まる思いだ」と話している。

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