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月形洗蔵を知ってるかい 「春雨じゃ、濡れて参ろう」モデル 筑紫野市(西日本新聞2007-05-22)

月形家に残る西郷隆盛から送られた礼状と月形宏さん 西郷隆盛が月形洗蔵に送った礼状(一部)。最後の行に「月形洗蔵」、左から3行目に「西郷吉之助」の署名が見える

「春雨じゃ、濡れて参ろう」の名台詞で知られる時代劇の主人公「月形半平太」のモデルの1人とされる福岡藩士月形洗蔵の功績を再評価する取り組みが福岡県筑紫野市で始まった。月形坂本龍馬らにも劣らぬ重要な役割を担ったとされる幕末志士だが、早くに亡くなり広く知られていない。子孫に当たる福岡市中央区の会社員、月形宏さんは「祖先の功績を認めてもらえるのはとても嬉しい」と喜んでいる。

◇幕末の志士 顕彰の動き 「地域振興に繋げたい」

月形半平太『国定忠治』で知られる劇作家の行友李風が、月形洗蔵土佐武市半平太をモデルに創作し、数々の時代劇に登場した。洗蔵は文政11年(1828)、福岡城下早良郡(現在の福岡市早良区)で出生。23歳で家督を継ぐが、藩主に異論を唱え、34歳で筑紫郡(現筑紫野市)に閉居を命じられる。

2年後に大赦で解かれると、朝廷を追放されて長州藩で再起を図った三条実美五卿が太宰府に移るのを手助けし、幕府軍による第一次長州征伐の矛を収めさせるなどした。高杉晋作西郷隆盛を会わせ、薩長連合のきっかけを作るなど重要な役割を担ったが、大政奉還前の慶応2年(1865)、藩主による勤王派弾圧に遭い、38歳の若さで処刑された。月形家には西郷隆盛月形洗蔵に送った礼状など貴重な史料約10点が今も残っている。

そして、筑紫野市所縁の志士にスポットを当てて地域振興に繋げようと、市観光協会など4団体が中心になって「月形洗蔵顕彰会」をこの程結成した。顕彰会長で市観光協会の久芳康紀会長は「地元所縁の幕末志士を後世にまで伝えていきたい」と意気込み、宏さんも「地域振興に繋がれば、洗蔵も喜ぶと思います」と歓迎している。同顕彰会への問い合わせは市観光協会の古野憲顕さんまで。

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「お救い長屋」 近く取り壊し 中京、蛤御門の変 被災者“仮設住宅”(京都新聞2007-05-22)

地元住民に「お救い長屋」と伝えられる古い民家。膨らんだ屋根に特徴がある

江戸時代困窮する市民のために建てられた「お救い長屋」と呼ばれる住居がある。お助け長屋、或いはお救い小屋とも言われる。そのお救い長屋と伝えられる古い民家が京都市中京区小川通御池上ルにある。蛤御門の変禁門の変、元治元年=1864)で焼け出された人のための幕末版の『仮設住宅』だ。近く取り壊される予定で、地元の人は「お救い長屋の存在を知って欲しい」と話す。

◇地元住民、惜別「存在知って」

蛤御門の変でこの辺りは丸焼けになり、被災者が住むための長屋が造られた―近くの下古城町に住む三好英之助さんは父親からそう聞いたことがある。「うちの町内でお救い長屋は1軒になった」とも言われたその家が現在取り壊し予定の平屋建ての古い民家だという。

民家がお救い長屋だったと結論付ける古文書などはない。しかし関西大学の浜野潔教授が下古城町から約200m南の西堂町に残る宗門改帳を調べたところ、蛤御門の変直後の元治2年(1865)に「御救借屋」と表記された家が9軒あった。

『御』という字があることから、公的機関が町人のために建てたもので、下古城町のお救い長屋も同様と考えられる」。更に「今の仮設住宅であり、直ぐに取り壊したと思っていたが、長期間の使用に耐えられるような家を建てていたなら、違った見方ができて面白い」とも言う。

お救い小屋と伝えられる民家は平屋で、屋根の中程が盛り上がった「むくり屋根」が特徴的だ。京都工芸繊維大学の矢ヶ崎善太郎准教授は「外観のデザインは大正時代以降のものだが、建物はその都度手を加えられていく。近所の人の証言があるなら、大正よりもっと以前の建物の可能性はある」。

三好さんは「昔も仮設住宅があったということが興味深い」といい「お救い長屋があったことをみなさんに知って欲しい」と願っている。

― ◇ ◇ ◇ ―

→(参考)浜野潔「災害と復興の人口史―元治大火と京都町人ー」(平成14〜18年度学術創成研究費『暦象オーサリング・ツールによる危機管理研究』より)(PDF文書)

― ◇ ◇ ◇ ―

取り壊されるのは残念ですね。災害救助、復興支援、危機管理の研究をする上で、興味深い着眼点があるのに…

まぁ、耐震性の問題等を指摘されてしまうと仕方ないのかな?

せめて、家屋の構造をそっくり真似たミニチュア模型を造って、博物館等で展示して頂ければ嬉しいのですが…

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義民の霊祀る社殿を建立 伏見区の御香宮神社(京都新聞2005-05-17)

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京都市伏見区の御香宮神社恒例の義民祭が18日営まれるのを前に、同神社は「伏見天明事件」で犠牲になった町人たちを祀る社殿を建立した=写真。

事件は天明5年(1785)、伏見奉行の悪政から町を救おうと、文珠九助義民7人が幕府直訴。奉行は罷免されたが、その後7人は獄死した。

「義民の碑」の前に建てられた社殿(高さ約2・4m)は、移築先を探していた亀岡市内の祠を譲り受けた。屋根を銅板葺きに替えるなど補修も終え、同社の三木善則宮司は「再生した社殿に御霊を迎えることができた」と話している。

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会津出身女性に焦点/講演会「おけいと捨松」/若松で来月2日(福島民報2006-11-12)

会津出身の2人の女性に焦点を当てたふれあい講演会「おけいと捨松 二つの愛」は12月2日午後2時から、会津若松市の会津若松ワシントンホテルで開かれる。入場無料。主催するお菓子の蔵太郎庵(本社・会津坂下町)は店頭で入場整理券を配布している。

講演会は日本最初の女性移民であるおけい「鹿鳴館の華」と言われた大山捨松について語る。会津美里町のエッセイスト大石邦子さん、大山捨松の曾孫で元日米協会専務理事の久野明子さんが講師を務める。

おけいは明治2年(1869)、砲術指南として日本に来ていたドイツ商人の子守役として米国に移住。古里会津を思いながらも突然の熱病で19歳で生涯を終えた大山捨松会津藩家老の娘として生まれ、戊辰戦争を体験。戦後、12歳で日本初の女子留学生として渡米した。帰国後は薩摩藩出身の陸軍卿大山巌と結婚し、留学経験を生かして海外と日本の橋渡し役などを務めた。

入場整理券は先着400人まで。問い合わせは同社本社工場へ。

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新島襄の足跡辿る(上毛新聞2007-05-12)

五味牧師の話を聞く参加者たち

新島学園短大の「新島襄ゆかりの地をたどる旅」と題した授業が12日、安中市内で行われた。学生ら35人が日本キリスト教団安中教会など関係施設を歩いて訪ね、郷土の偉人の足跡に思いをはせた。

授業は、同短大の才藤千津子准教授が担当する「新島襄―その時代と生涯」の一環。キリスト教精神を育んだ新島襄や学園の歴史背景を学んでもらおうと、一般の学生や教職員も参加して行われた。

新島学園中学・高校を出発した参加者は、新島襄に洗礼を受けた地元信徒が建てた安中教会の礼拝堂を訪問。五味一牧師から偉人の業績や教会の歴史について説明を受けた。

続いて新島家の墓がある妙光院、旧安中藩武家長屋新島家旧宅など所縁の施設を見学した。

新島学園は、安中藩の武家に生まれた明治期の教育者、新島襄の理念を受け継いだ人々が昭和22年(1947)に創設。短大は同58年(1983)に開学した。

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国定忠治ガイド好評(読売新聞2007-05-09)

◇所縁の地紹介、2000部増刷

江戸時代の侠客国定忠治所縁の地などを紹介したガイドブック『国定忠治探訪ノート』が伊勢崎市によって作成され、初版3000部に続き、2000部が増刷されるなど好評を博している。

郷土の著名人である忠治を紹介することで、観光客を呼び込もうと、同市文化観光課が昨年秋頃から構想を練り、市観光協会と同課の職員2人が忠治を取り巻く人々の子孫をインタビューしたり、県内の所縁の地に足を運んだりして、3月2日に完成した。

忠治のプロフィールや人間関係、忠治が3回破ったとされる大戸の関所跡(東吾妻町)や、忠治の墓や遺品館がある養寿寺(伊勢崎市国定町)などが、B5判16ページの中でイラストや図などを用いて紹介されている。

完成以来、東京都や横浜市など県外からも毎日数件の問い合わせがあり、初版3000部は配布終了。増刷した2000部も残り半分という。人気があるため、同課などで1人1冊を原則に配布している。

同課は「これを機会に所縁の地を歩いてもらい、忠治や伊勢崎の魅力を再発見して欲しい」としている。

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義民の心伝える自作の歌CDに 総社・新本小5年生と教諭が制作(山陽新聞2007-03-21)

完成したCDを手に笑顔を見せる児童ら

嘗て総社市新本地区の暮らしを命懸けで守った義民の功績を讃える歌を、地元の新本小児童と教諭が作り、CD化した。タイトルは「想い〜今、新本に生きる〜」。児童らは「勇気ある義民の行動を後世まで伝えたい」と意気込んでいる。

歌の題材となった義民江戸時代中期、当時の新本村を治めていた岡田藩が村人の生活の糧だった山を立ち入り禁止の留山とめやまとしたのに反発。村の暮らしを守るため、藩主に直訴した4人の処刑と引き換えに、留山が廃止された。

新本地区では、彼らの行動を讃え、毎年7月に「義民祭」を開くなど地区の恩人として顕彰を続けている。

歌は、4年生の時に義民について学んだ現在の5年生が共同で作詞し、同校教諭の金池兼広さんが作曲。校内の音楽集会や市の音楽発表会で披露したところ、完成度の高さに地域住民や保護者からCD化の要望が寄せられ、京都市の製作会社に依頼した。

歌詞は、「赤米の里新本で起こった悲しい物語 ぼくらは伝えるその想い」と、児童らの義民の心を受け継ごうとする強い思いが込められている。

CDには、同小が毎年義民祭で披露するオペレッタの前奏も収録。500枚製作、1枚500円で販売する。問い合わせは同小へ。

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幕末の種痘記録を新発見 伊万里の旧家から(佐賀新聞2007-02-05)

山本家に伝わる幕末の日記。安政6年9月15日の日記では、4人の医師が村の子どもたちに接種したことが記されている

伊万里市の旧家に伝わる史料から、幕末期佐賀藩全国に先駆けて導入した種痘に関する記録が見つかった。山代郷立岩村(同市山代町)で藩派遣の医師らが子どもたちに接種した記述などがあり、史料を調べている佐賀大学地域学歴史文化研究センターは「佐賀藩が組織的に導入を進めたことを示す貴重な史料」と話す。

種痘は嘉永2年(1849)、10代藩主鍋島直正が長男の淳一郎(直大)に接種させ成功したのを機に、全国に広がったことで知られる。佐賀藩は同年、好生館「引痘方」を設けて藩内で推進したとされてきたが、庶民層への導入経過は不明な点が多かった。

今回見つかったのは明治期の県議会議員で県内初の産業組合創設に尽くした山本源三の家にあった幕末の日記。地域学センターが市民ボランティアと進める山本家の史料整理で発見された。

日記では嘉永7年(1854)4月、種痘を未実施だったという村の子どもたちに引痘方の医師と村の医師ら5人で接種。2年後には130人に実施したが、庄屋らの要望で、さらに80人に追加接種している。

安政6年(1859)9月の日記では、引痘方の医師と在村医らで20人に実施。数日後の検査で「善感」を確認し、引痘方種痘済みの札を発行したと記している。

これらの記述から、藩が地域の医師を巻き込む形で組織的に推進したことが明確になった。地域学センターの青木歳幸教授は「佐賀藩反射炉築造などが注目されるが、医学面でも日本一の水準だったことが分かる」と評価。同センターは発見史料をミニ企画展「幕末佐賀の医師と医療」(今月23日まで)で展示している。

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義民の里・青木 義民讃える230年前の古文書発見(信濃毎日新聞2007-05-03)

平林新七を讃える古文書を手にする松田新治郎さん

青木村で江戸時代一揆を起こし、上田藩に年貢軽減を訴えて人々を救ったとされる義民の1人、平林新七を讃える約230年前の古文書が2日までに村内で見つかった。同村の郷土史家、清水利益さんと村教育委員会が確認した。同村では江戸から明治初期に5回の一揆が起きたとされ、「義民の里」として知られるものの、新七の資料は少なく、義民研究の貴重な資料となりそうだ。

一揆を讃える文書頌徳文しょうとくぶんと呼ばれる。百姓一揆義民を研究する保坂智・国士舘大学教授によると、一揆は違法行為であり、江戸時代に(一揆について)書くのは憚られることだったため、この年代の文書は珍しい。

古文書は同村田沢の農業、松田新治郎さん宅の蔵から見つかった。漢文で書かれ、清水さんによると、筆者は押印から、一揆が起きた中挾なかばさみ村(現在の青木村田沢)の隣村の漢学者、橋爪玄惟げんい。中挾村の人々は凶作に苦しみ、新七は何度も領主に救済を願い出て、領主が願いを聞き入れた―との内容。「可知郷人追尊秦氏」(秦氏=新七=の功績を村中の者がよく知らなければならない)と記されている。

新七の墓には没年が享保6年(1721)と刻まれており、文書には没後50年余が過ぎた―との記述があるため、明和7年(1770)頃に書かれたとみられている。これまで写しがあることは知られていたが、原本は未確認だった。村公民館主催で清水さんが講師を務める「古文書教室」に参加した松田さんが、「これではないか」と清水さんに文書を見せた。

地元の言い伝えでは、新七は中挾村の組頭で、役人を切り殺し、領主に年貢を減免させ、その後については死刑、追放―など諸説がある。松田さんは「新七は村のために奮闘した英雄」とし、古文書の発見を喜ぶ。清水さんは「言い伝えられてきた新七一揆の信憑性がより高くなった」としている。

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「明和義人」を上演(朝日新聞2007-04-15)

白山公園にある明和義人の碑。市民の有志が顕彰会を創り、昭和3年に建てられた

今から約240年前の江戸時代に、新潟の町民が長岡藩に対して反乱を起こし、約2か月間の自治を行った「新潟明和騒動」。フランスの「パリコミューン」に先立つ市民蜂起とされる史実が8月、新潟市の政令指定都市記念ミュージカルとして上演される。市民参加の「下駄総踊り」も取り入れ、港町の熱気を再現する。

タイトルは「明和義人」。市が平成17年(2005)、指定市への移行を記念する事業のアイデアを公募し、優秀案に選ばれていた。

明和騒動の発端は明和4年(1767)。財政難の長岡藩が、新潟町民に1500両の御用金をかけたことだった。

不景気のため、町民たちは支払いの延期を求めたが許されず、後に町民の代表者となる涌井藤四郎を捕まえるなどした。反発した町民らは豪商や町役人の家を次々と壊し、約2か月間にわたる自治を行った。

市は、当時の町人の精神を「市民自治の源流」と捉え、史実を「分権型指定市」の礎にしようと考える。12日に制作発表した篠田昭市長は「歴史的にも市民自治を掲げる十分な理由があることを全国に知って頂きたい」と期待を込めた。

演じるのは、秋田県を拠点に海外でも活躍する「劇団わらび座」。脚本は、新潟市出身の歴史小説作家火坂雅志さんが執筆中の小説に基づく。

プロの俳優に交じり、古町芸妓や市民合唱団など、のべ約300人の一般市民も舞台に立つ。

市は22日から「下駄総踊り」の踊り手(4公演で延べ約200人)と、新潟奉行のトップで町民を厳しく取り調べる「石垣忠兵衛」役の俳優を公募する。公演は8月31日から計4回、同市中央区の市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)劇場で行われる。問い合わせは市文化政策課まで。

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最古の童謡集写本発見 鳥取藩士「筆のかす」(日本海新聞2007-04-10)

国内最古の童謡集『筆のかす』の写本『古今童謡』を持つ大嶋学芸員

鳥取藩士野間義学江戸時代中頃因幡地方のわらべ歌を集めた『筆のかす』の写本が見つかり、鳥取県立博物館(鳥取市東町二丁目)が入手した。『筆のかす』国内最古の童謡集で、「江戸時代の庶民の生活の様子が分かる貴重な史料」という。

わらべ歌を集めた江戸時代の文献には、釈行智『童謡集』(文政2年=1819=頃)や小寺玉晃『尾張参河童遊集』(天保2年=1831=)などがあるが、『筆のかす』は更に古い。江戸時代後期の歴史家、岡嶋正義が記録に残しているが、原本も写本もなく幻の史料として研究者が長年探し求めていた。

野間は歴史家として知られ、様々な書物を著した学者。写本は『古今童謡』と命名され、縦24p、横16pの用紙で16ページ建て。紙質などから野間の死後、江戸時代後期に書き写されたとみられる。

50以上のわらべ歌や子どもたちの遊びが収録され、遊び方の挿絵も8か所描かれている。わらべ歌には、野間による解説も付いている。

例えば、「雪やこんこ、あられやこんこ、深山の奥のたびらこや、こんここんこ」の歌は、「雪・あられが降る冬の寒い日にうたう」とし、歌の元は吉田兼好『徒然草』「ふれふれ粉雪、たんばの粉雪」ではないかと説明する。

県立博物館の大嶋陽一学芸員は「当時の子どもの遊びや具体的な生活の様子が文字で残っていること自体極めて珍しい。鳥取の庶民の生活文化を垣間見ることのできる貴重な史料」と話している。

『古今童謡』は、わらべ館(鳥取市西町三丁目)が創刊した童謡・唱歌の研究情報誌『音夢』で紹介されている。

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但馬に偽名で1年子と遊ぶ様子 桂小五郎の潜伏記(読売新聞2007-04-05)

公開される『木戸孝允公出石潜伏中之記』 桂小五郎(木戸孝允)

「維新の三傑」の1人、桂小五郎(後の木戸孝允)が、長州藩禁門の変(元治元年=1864)に敗れた後に、但馬国出石(兵庫県豊岡市)で暮らした約1年間の潜伏生活を中心に描かれた『木戸孝允公出石潜伏中之記』が発見され、5日から東山区の霊山歴史館で公開される。幕府側から追われる身となったが複数の偽名を使って逃れる一方、地元の子どもらと遊ぶ様子も記され、専門家は「政治家の隠れた一面を見ることができる」としている。

記録は、を匿った出石の小間物屋、広戸直蔵が、の死後の明治中期に、当時を振り返って執筆した。昨年1月、広戸家から霊山歴史館に寄贈された刀や写真など約200点の中から見つかった。

記録では、京都から逃れる際、は船頭に変装し、偽名を使って広戸らと共に関所を通った。

出石では荒物屋を開き、博打や囲碁に興じながら、密かに情報収集を続けた。長州藩と自らの不遇を嘆いて、「思ふ程/思ひ甲斐無き/浮世哉」と句を詠んだ。子どもたちと花札をして、勝敗に関係なく菓子を上げるため、子どもらが先を争って遊びにきたことや、後に妻となる幾松と再会し、暫く同居していたことなども記されている。

出石から長州に戻る船中で、幕府側に名を問われ、「京都・宮川町の広江孝助」と名乗って逃れてから、「はあ、もうよし」と、長州訛りで喜んだという。

木村幸比古学芸課長は「侍の身分ながら町人に化けるなど、何としてでも生き延び、新しい時代、日本を作ろうという強い意志が感じられる」と話している。

記録は春季特別展「桂小五郎と幾松」で、5月6日まで展示される。

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江戸期の広島城下こうだった(中国新聞2007-04-03)

歴史愛好家グループが作った「広島城下大絵図」

広島市中区を中心に活動している歴史愛好家グループ「広島城下町案内衆」が、現在の市中心部と江戸時代の町名や建物などを重ね合わせたカラー地図「広島城下大絵図」を作った。昨年10月から、メンバー約20人が文献などを参考に当時の街並みを調査。広島城や縮景園のほか、中区の元安橋傍にある一里塚の基点である里程元標や、西区楠木町に残る船着き場用の雁木なども書き入れた。

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伊達騒動「寛文事件」で断絶 原田一族の冥福祈る(河北新報2007-03-25)

犠牲者の冥福を祈る参列者

江戸期仙台藩を揺るがした伊達騒動「寛文事件」で絶命した家老、原田甲斐とその一族を供養する三地蔵尊供養会が25日、仙台市青葉区新坂町の荘厳寺であり、檀家や歴史愛好家ら約50人が参列した。

荘厳寺には、原田邸にあった門が移設されたほか、逆臣の一族として命を落とした犠牲者を弔うため、3体の地蔵が置かれるなど原田家と縁が深い。

朝からの雨がやみ、住職が地蔵の前で読経する中、出席者が1人ずつ焼香し、冥福を祈った。供養会世話人代表の横尾兼剛さんは「今日の雨は一族の涙雨。今年は337回忌でしたが、年々参拝する人が増えており、末長く供養していきたい」と話し、手を合わせた。

供養会は、仙台市文化財ボランティアが犠牲者の追善供養をしようと、平成16年(2004)に始めた。毎年命日月の3月に行っている。今年は檀家、新坂町内会、歴史愛好家らで組織する供養会が主催した。

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“嘉永の大地震”記述リアル―『月ヶ瀬村民日記』など奈良市指定文化財に(奈良新聞2007-03-14)

絹本著色渡宗天神像 大地震難渋日記 地震帳

「大大大大大大大をうぢ志ん(地震)」―奈良市教育委員会は13日までに、市文化財保護審議会の答申を受け、菅原天満宮の絹本けんぽん著色ちゃくしょく渡宗天神像」の掛け軸奈良市月ヶ瀬地区に残る大地震関係の資料有形文化財に、小倉八柱神社境内の社叢を天然記念物として、新たに市指定文化財に指定。市指定文化財は127件となり、市内に有する文化財は国、県指定を合わせ1016件となった。

天神像は、菅原天満宮(同市菅原町)所有で奈良国立博物館で所蔵。室町時代の京都東福寺などの僧、愚極くきょく礼才れいさいが、道真の功績を讃える漢詩を書いたもの。

縦88・6p、横33pの掛け軸は、梅の枝を持って立つ天神像を綿密に描いた作品。絵の作者は不詳だが、県内最古の天神像で、菅原氏の故地とされる菅原地域に伝来し、天神信仰の伝統を窺える重要な遺品。

大地震関係の資料は、江戸時代末期の嘉永7年(1854)6月15日に起きた大地震について、月ヶ瀬地区の村民がその様子を記録した日記帳面

大地震は、三重県伊賀上野市から奈良盆地北部に走る木津川断層を震源地として起きたマグニチュード7・2、震度6〜7で近世の奈良を襲った地震の中で最大規模のもの。阪神大震災レベルの揺れを記録していたという。

日記は、同市月ヶ瀬石打の石打自治会が所蔵。同地区の庄屋が記した『大地震難渋日記』で、地震の揺れを「馬の腹の皮を動かすごとく」などとユニークな表現で形容している。

地震帳は同市月ヶ瀬月瀬の今西信博さん所有で、今西さん3代前の先祖・伊介氏が書いた地震体験記「大大大大大大大をうぢ志ん(地震)」「大」を7文字書いて地震の大きさを表現している。何れも体験記で、地震史料としての価値が高い。

小倉八柱神社(同市小倉町)の境内にある森は、杉や檜などを伴う極相林。森は標高500m前後だが、盆地部よりも平均気温が低いため、標高800m前後の高地に分布する赤樫アカガシ極相林が発達している。中には高さ15mの赤樫も境内にあり、学術的な価値が高いという。

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大坂夏の陣:焼き打ちされた土蔵群跡など出土(毎日新聞2007-03-07)

大坂夏の陣で焼き討ちされた土蔵跡

大阪府文化財センターは7日、堺市堺区戎之町東4丁の環濠かんごう都市遺跡から、大坂夏の陣(慶長20年=1615)で焼き打ちされた土蔵群跡などが見つかった、と発表した。この大火で千利休会合えごうが築いた町が壊滅したとされるが、江戸期の地層からはワインボトルなど多数の舶来品も見つかり、復興の様子が窺えるとしている。

土蔵跡は、ごうで囲まれた町の東端から計7棟分(各9〜16u)が確認された。豪商の倉庫とみられ、3階建てだった可能性もある。町の隅々まで蔵を構える裕福な人々が住んでいた実態が初めて裏付けられた。大火で赤く変色した瓦も多数見つかり、豊臣方に逆らい、約2万軒が焼かれた凄まじさを伝えている。

また、地層(江戸期)からは、中国や越南(ベトナム)製の陶器、和蘭(オランダ)製のワインボトルの破片なども出土。同センターは「大火後、貿易から商業の街として復興し、大名クラスが試すワインを、闇で入手する豪商もいたのだろう」と分析。角山栄・堺市博物館長は「狭い土地に約10万人と莫大な富が集中する、世界屈指の都市だったと改めて確認された」としている。

現地説明会は、10日午後1〜3時に4回開催。南海高野線「堺東駅」から徒歩10分。問い合わせは同センターへ。

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幕末に活躍 小栗上野介 殺害直後の古文書発見(東京新聞2007-03-05)

発見された小栗上野介殺害直後の古文書

幕末に勘定奉行陸軍奉行などを歴任した小栗上野介が、領地の旧倉渕村権田(現高崎市)で新政府勢力に殺された直後、首が運ばれて継嗣や家来も殺害された様子を記録した古文書が、安中市板鼻の旧家で発見された。古文書は県立歴史博物館(高崎市)が買い取り、関係者は「歴史の空白を埋める貴重な史料」と注目している。

古文書は昨年夏頃、板鼻宿の本陣跡に近い旧家の蔵から見つかり、前橋市の古本屋が購入。昨年秋に同博物館が購入し、解読を進めている。

古文書は和紙に墨で書かれ、縦約16p、幅約55p。先ず新政府勢力に屈した高崎安中両藩が、権田から上野介の首を持参して帰った経緯を伝えている。

続いて、高崎藩に出向いていた上野介の継嗣・又一と家来3人も、打ち首となった史実を公表する高札の写しを記載。

最後に、高崎藩などが又一の首を(上野介の首と共に館林にいた新政府勢力へ)持っていき、家来3人の首が晒された様子を綴っている。

ただ、宛て名や差出人、日付がなく、主に高崎での出来事を書いた記録が約5q西の板鼻に残った理由は分からない。

同博物館の小山友孝主任専門員は「高崎の関係者が板鼻に送ったか、板鼻の関係者が高崎にいた可能性が考えられる」と推測。「内容からすると、捏造する理由はなく、古文書は本物とみていい。上野介の死に関連する公文書はあるが、殺害後の状況と又一らの死の様子を記した古文書は他に確認できない。庶民の視点が興味深い」と史料の価値を評価する。

上野介の墓がある東善寺(高崎市)の村上泰賢住職によると、又一小栗家と同じ旗本から迎えた養子。殺害時は21歳の若さで、外交交渉のフランス語通訳に加えられた逸材だったという。

上野介の研究家でもある村上住職は「内容からすると、高崎で書かれた古文書では。上野介の首が運ばれ、又一らが殺された様子を記した古文書が出たのは初めて」と指摘。「文末に小栗家の悲劇を嘆く言葉が添えられている。地元の人々が小栗家に同情的だった様子が分かり、胸に迫る」と感慨を込めている。

この旧家の子孫、中田邑子さんは「高崎には昔から親類がおり、古文書が書かれた当時の先祖は高崎でも手広く仕事をしていたと聞いている。古文書が残っていたのは誇り」と先祖に思いをはせている。

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上田市と下関市 「三吉慎蔵」縁で交流を 子孫と上田東高関係者 江島市長訪問(西日本新聞2007-01-30)

江島潔市長と話す三吉慎蔵の曾孫・治敬さん(左)

坂本龍馬の盟友で、京・伏見の寺田屋龍馬と共に戦った長府藩士三吉慎蔵の息子・米熊が深く関わった上田東高校(長野県上田市)の関係者と、慎蔵の子孫らが29日、下関市役所を表敬訪問、両市の交流を呼び掛けた。米熊は、国内最初の蚕業学校で、上田東高の前身である小県ちいさがた郡立蚕業学校の初代校長を36年間務めた。信州大学繊維学部の前身の上田蚕糸専門学校設立にも関わった。下関来訪は、米熊が幼少期を過ごし、また、蚕種渡来の地ともされる下関との交流を深めるのが目的。上田東高同窓会や上田市の関係者のほか、慎蔵の曾孫で、上田市在住の治敬さん夫妻も同行した。

下関市役所で応対した江島潔市長に対し、上田東高校の宮入英夫同窓会長が「下関と上田は生糸で繋がれた関係です」と、上田市の宮下省二商工観光部長も「上田市と関わりがある下関と交流をしていきたい」と挨拶。江島市長は「交流のお申し出は大変嬉しい。積極的に進めたい」と前向きに答えた。

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赤穂浅野家、分家の史料数千点を発見 相生の民家(神戸新聞2007-01-19)

「従五位下」「内匠頭」。浅野長矩の官位などが記された口宣案

忠臣蔵で知られる赤穂浅野家とその分家について記した数千点に上る江戸時代の古文書が、相生市内にある分家筋の民家で見つかった。たつの市立龍野歴史文化資料館が18日、発表した。浅野内匠頭長矩の官位を記した朝廷の文書口宣くぜん案」や分家の陣屋絵図などで、同資料館は「赤穂浅野家の貴重な文書に加え、これ程大量の史料が一度に出てくるのは珍しい」としている。

赤穂浅野家の分家・若狭野浅野家は3000石の旗本で、相生市内に陣屋を構えた。初代長恒は、長矩の叔父に当たる。同家の子孫の民家が昨年12月、道路拡幅工事で取り壊されることになり、古文書について相談を受けた同資料館が調査し、寄贈を受けた。

「口宣案」は、天皇から口頭で受けた官位の辞令を文書化したもの。赤穂浅野家の初代長直の父長重から「従五位下」だった長矩までの4代分が残されていた。家臣の給料や役職、討ち入りした武士の名を記す「赤穂分限帳」の写本などもある。

分家関連では、現在も相生市内に建物の一部が残る陣屋の配置図が見つかった。3棟の建物の配置や詳細な間取りが記されている。江戸・日本橋にあった屋敷図、歴代当主が京都や堺で役職に就いた際に手に入れたとみられる二条城や大大坂城の絵図も確認された。

大石神社(赤穂市)の飯尾義明宮司は「本家が取り潰され、散逸したと思われた史料が見つかったことは興味深い。長矩の官位も改めて証明され、価値ある発見では」と話す。

同資料館の市村高規学芸員は「本家に関する資料が更に出る可能性もある。一般にも公開し、研究者にも活用してほしい」と話している。

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「天明の一揆」題材に小説(中国新聞2007-01-13)

福山藩天明の一揆を題材にした小説『天明の篝火』を書き上げた藤井さん

福山市瀬戸町、美術品販売業兼作家の藤井登美子さんが、農民側の完全勝利で知られる江戸時代の「備後福山藩天明の一揆」を題材に歴史小説を書き下ろした。謎とされてきた組織的一揆の指導者が神辺地方の庄屋、徳永徳右衛門だったと推測。主人公の1人に据え物語を展開している。小説の題名は『天明の篝火』。古い文献を中心に天明の一揆を再検証し、フィクションを交えて物語に仕上げた。



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