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大島出身の志士・世良修蔵 生涯辿る展示―柳井(山口新聞2008-08-31)

幕末四境戦争鳥羽・伏見の戦いで活躍した周防大島町出身の維新の志士、世良修蔵の生涯を辿る「世良修蔵展」記念講演会が30日、柳井市ふれあいタウン大畠で開かれた。展示は9月15日まで。

展示は、世良が学んだ勤皇僧月性清狂草堂(同市遠崎)や克己堂跡(同市阿月)、軍監を務めた第二奇兵隊本陣跡(光市石城山)、四境戦争大島口戦蹟碑(周防大島町源明山山頂)などの写真32点と資料。鳥羽・伏見の戦いの図や、世良奥羽鎮撫総督参謀として参戦した際、仙台藩士らに暗殺されるきっかけとなった大山格之助(綱良)宛ての密書の写し、福島県白石市にある世良の墓の写真も展示されている。

講演は、明治維新研究家で大島商船高専講師の田口由香さんが「世良修蔵〜清狂草堂志士とその時代」と題し、尊皇攘夷、海防を訴えた月性の教えに影響を受けて討幕に突き進んだ世良の生涯について講話した。



※(関連)→四季風(山口新聞2008-09-04)
※(関連)→列藩同盟密談の史料も 七ヶ宿で戊辰戦争展(河北新報2008-05-21)

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露姫の遺書4通を発見 鹿野・雲龍寺(日本海新聞2008-02-08)

露姫が父に宛てて書いた遺書。老年の父を労わる露姫の心を伝える 露姫が母・たへに書いた遺書。「六歳の夢の名残惜しさに」と、幼くして死ぬ無念さを滲ませる

江戸時代、政治家や文化人に大きな反響を呼び起こした露姫遺書が、鳥取市鹿野町鹿野の雲龍寺で発見された。配布された遺書の実物が覚書と共に見つかったのは初めて。死ぬ直前、露姫が歌や書に込めた真情が現代に蘇った。

遺書は雲龍寺住職の大井大摂さんが、寺の引き出しの中から他の古文書と一緒に偶然見つけた。

露姫の戒名や「御筆」などと表に書かれた包み紙の中に、父、母、兄、侍女に宛てた遺書4通と覚書、戒名や命日を記した法号が入っていた。

遺書露姫の筆跡をそのまま木版に写して刷っており、父の池田定常が友人らに送ったものの1つとみられる。

定常に宛てた遺書は、「おいとたから/こしゆあるな/つゆがおねがい申ます」とある。当時56歳だった父を、「おいとだから」(=老い年だからと、御いとしいからの2つの解釈がある―)、「ごしゅ」(御酒)は上がらないでと気遣う。

母・たへに宛てた遺書には「まてしはし/なきよのなかの/いとまこい/むとせのゆめの/なこりおしさに」とあり、数え年6つで、「むとせのゆめ」(=6歳の夢)を持ちながら死んでいく自分の儚さを詠む。

兄への遺書には、桜の絵を描いた下に「つゆほとの/はなのさかりや/ちこさくら」と記す。「ちござくら」(稚児桜)の短い盛りに、我が身をたとえる。

侍女のたつ、ときの2人には「ゑんありて/たつとき/われにつかわれし/いくとしへても/わすれたもふな」と願っている。

また覚書には、露姫の死後に愛用の箪笥から露姫が書いた書や歌が見つかった事、定常が愁傷のあまりに遺書と法号を全国六十余州の霊地に納めた事などが書かれていた。

鳥取市歴史博物館の伊藤康晴学芸員は「遺書は当時の出版物に収録されているが、配布された実物が覚書と一緒に見つかったのは初めて。覚書は貴重で、定常遺書を友人だけでなく寺に納めた事が初めて確認できた。娘の菩提を弔ったのだろう。江戸にいた定常遺書を鳥取の池田家に送り、池田家覚書を付けて雲龍寺に納めたのでは」と指摘する。

大井住職は「雲龍寺は定常の先祖と関係があるので、遺書が納められたと思う。母への遺書は、もう1人の自分が見ているような歌で、5歳の子が書いたとは思えない程だ」と話している。

◇露姫

鳥取池田家の分家だった西館にしやかた池田家若桜藩とも称した)の5代目で、文化人として知られた池田定常(冠山)の十六女(末娘)として文化14年(1817)、江戸で生まれた。信仰心が厚く、浅草寺などにお参りしていたが、天然痘のため文政5年(1822)に5歳で亡くなった。死後、父母らに宛てた遺書が見つかった。定常遺書を木版刷りにして友人らに配った。その遺書は松平定信、水野忠邦、滝沢馬琴、谷文晁ら一流の政治家や文化人を感動させ、1500人以上の人が追悼の書や絵画を寄せた。定常はそれらを集めた『玉露童女追悼集』浅草寺に奉納した。

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日本初・外国人英語教師 北海道上陸160周年 故郷米・オレゴンで記念式典(北海道新聞2008-05-24)

マクドナルドの記念碑の前で挨拶するバーニーさん(中央)と谷田部新会長(右)

鎖国下の幕末、蝦夷地(北海道)に単身上陸し、「日本初の外国人英語教師」となった米国人ラナルド・マクドナルド。その北海道上陸160周年を祝う記念式典が22日、マクドナルド生誕の地・オレゴン州アストリアで開かれ、命を懸けて未知の島国に渡った勇気に、参加者は思いを巡らせた。

オレゴン州の市民団体「マクドナルド友の会」の主催。同会はボランティアら60人からなり、毎年2月、マクドナルドの誕生日を祝う会を開くほか、学校にマクドナルドの伝記を贈る活動を地道に続けている。今回は、会結成20周年記念も兼ねた。

当初から会の運営に携わってきたブルース・バーニーさんは、会創立に奔走したエプソン米国法人の元社長、冨田正勝さん(故人)を労い、「マクドナルドを通じ、日米の絆が深まる事を望んでいる」と挨拶した。

この日、新会長に就任した同州ポートランドの谷田部勝さんは「今後、日系企業に入会を呼び掛けて、活動を発展させたい」と、抱負を語った。参加者は会食後、アストリア中心部にある、マクドナルドの記念碑に花を手向けた。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)「日本最初の英語教師―ラナルド・マクドナルド」→


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備中松山藩通し幕末回顧(中国新聞2008-05-16)

書などが並んだ「板倉勝静と山田方谷展」

江戸幕府最後の老中で高梁市に城を構えた備中松山藩主板倉勝きよと、家臣で陽明学者山田方谷を紹介した展示会が6月29日まで、高梁市原田北町の市歴史美術館で開かれている。今年9月が明治改元140年に当たるのを記念。明治政府を創った薩長などと敵対した幕府首脳らの人物像や事跡を辿る事ができる。

勝静の関連資料は約30点。14代将軍徳川家茂勝静に送った直筆書状明治時代に描かれた勝静肖像画、使っていた硯や筆などを並べている。藩参政として勝静を支えた方谷の関連資料は約30点。第二次長州戦争最中の慶応2年(1866)に家茂が亡くなった時、幕政の今後を勝静に問われ回答した書状「征長再役善後策」などを展示している。300〜150円。

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篤姫付老女「幾島」 薩摩藩士の娘、63歳で死去 鹿児島市の招魂墓に記録(南日本新聞2008-05-15)

篤姫付老女「幾島」の生没年や出自などが書かれた招魂墓

篤姫(天璋院)島津家から13代将軍徳川家定に嫁いだ際、篤姫付の老女として江戸城大奥に入った「幾島」招魂墓が、鹿児島市唐湊二丁目の唐湊墓地に残っている事が14日までに分かった。不明だった出自や生没年などが碑文に記され、尚古集成館の寺尾美保学芸員は「基礎情報が揃う事で、幾島の実像に迫る事ができる」と話している。

墓石は六角柱で、台座を含めた高さは約1・2m。正面に「朝倉氏幾島君招魂墓」とあり、幾島の事跡などが別の面に刻まれている。碑文によると、幾島は文化5年(1808)6月18日、薩摩藩士の娘として生まれた。明治3年(1870)4月26日、63歳で東京で没し、島津家の菩提寺大円寺(東京都)に葬られた。父は薩摩藩御側用人を務めた「朝倉景矩(孫十郎)」、母は秋田藩家臣「阿比留軍吾」の娘「民」。13歳の時に、島津家から京都の公家近衛家に嫁いだ郁姫女中となった。

招魂墓朝倉家先祖代々の墓などと共に建つ。墓碑を調査している鹿児島大学職員友野春久さん=同市=が3年前に碑文を記録。資料整理し、幾島招魂墓に気付いた。幕末絵図では、現在の同市長田町の屋敷に朝倉家の名がみられる。

同家の子孫、朝倉康光さん=宮崎市=は「祖父の代に鹿児島から宮崎に移った。(幾島の)墓の存在は知っていたが調査はしていなかった。皆さんに広く見て欲しい」と話している。
篤姫(天璋院)付老女 幾島
島津家郁姫が京都・近衛家に嫁いだ時は「藤田」と名乗り、郁姫没後は「得浄院」となって近衛家に残る。安政3年(1856)、「幾島」として大奥に入った後は将軍継嗣問題などに関与。篤姫の信頼も厚かったという。江戸城開城の際、西郷隆盛天璋院嘆願書を届けたともいわれる。「心たくしく肝太い」などと評された。

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津和野で乙女峠まつり 殉教者を追悼(山陰中央新報2008-05-04)

乙女峠の聖堂を目指すマリア像を担いだ行列

キリシタン殉教の地として知られる島根県津和野町で3日、殉教者を追悼する乙女峠まつりがあり、全国から集まった信者約2000人が初夏を思わせる日差しの下で聖母行列や野外ミサを行った。

県内や近隣の広島県や山口県、九州や関西から参加した信者たちは同町後田の津和野カトリック教会を出発。女子中、高校生8人が担ぐマリア像を真ん中にして、賛美歌を口遊くちずさみながら2km離れた乙女峠を目指した。

乙女峠に到着すると、聖堂横の広場で野外ミサを行い、歌や祈りで弾圧で亡くなった殉教者の霊を慰めた。沿道には大勢の観光客や町民が詰め掛け、長々と続く行列の姿をカメラに納めていた。

乙女峠には慶応4年(1868)から弾圧で捕らえられた長崎県浦上村のキリスト教徒153人が幽閉された。津和野藩から改宗を迫られ亡くなった36人の殉教者を追悼するため、昭和27年(1952)からまつりが催されている。



※(関連)→マリア像祈りの行進 乙女峠まつり(読売新聞2009-05-04)
※(関連)→津和野で乙女峠まつり(山陰中央新報2009-05-04)
※(関連)→殉教者へ祈り 乙女峠まつり(中国新聞2009-05-04)

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埋葬地 京都の寺跡か 新選組六番隊長・井上源三郎(東京新聞2008-04-11)

井上泰助の額の前で説明する井上さん(左)と市川さん

◇『御霊を生家に』子孫ら訪問 所縁の『欣浄寺』 資料と証言重なる

戊辰戦争から140年に当たる今年、新選組六番隊長井上源三郎埋葬地が京都市伏見区の寺である可能性が高い事が府中市の歴史愛好家が見つけた関連資料や源三郎の子孫の井上雅雄さんらの話から強まった。井上源三郎資料館(日野市日野本町)の館長でもある井上さんは先月、自ら現地を訪ねて土などを持ち帰り「やっと御霊を生家に連れ帰る事ができた」と無念の死を遂げた祖先を偲んだ。

源三郎は慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いで戦死した。新選組が大坂へ敗走する際、刀持ちだった甥の泰助が源三郎の首と刀を羽織に包んで運んだ。しかし、少年の泰助には重過ぎ、京都の宇治川を渡る手前で埋めた。

泰助はその後、埋葬場所を捜したが、川の流れが変わり、見つけられなかったという。

埋葬地とみられる場所を見つけたのは、ボランティアグループ「日野 新選組ガイドの会」の市川三千代さん=府中市。昨年11月、新選組の史跡巡りで京都市伏見区の淀城跡に設置されていた当時の絵図を見た時、欣浄寺ごんじょうじの文字の記載を見つけた。

欣浄寺源三郎の生家の近くにもある事から「泰助さんが、故郷と同じ名前の寺を見つけ『此処なら叔父も安らかに休めるだろう』と思って埋葬したのでは」と想像した。

その事を後日、井上さんに伝えたところ、井上さんが祖母ケイさんから「泰助は骨を欣浄寺に埋めた」と聞かされていた事が分かった。

京都の欣浄寺は現存しないが、古地図や古文書などで場所を特定し、井上さんと市川さんは先月上旬、京都の欣浄寺跡地を訪ねた。

その時、地元の人の話から以前、多くの墓石と人骨が見つかった事が分かり、「源三郎の骨も埋まっていた」との思いをより強くし、井上さんは跡地から土を持ち帰った。

◇日野の「資料館」 来月に企画展

資料館では5月上旬から中旬に特別展「源三郎の埋葬地を訪ねて」(仮称)を開き、訪問の様子の写真パネルや古地図を展示する。また、持ち帰ってきた土について、井上さんたちが今年9月に開く源三郎140回忌に供えられるという。

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最古の甲府城絵図か 京大で発見、描写も詳細(読売新聞2008-03-04)

江戸時代初期より以前に描かれたとみられる甲府城絵図が、京都大学工学部図書室の所蔵資料の中から見つかった。発見した県教委によると、甲府城絵図では最古の部類で、描写も極めて詳細という。存在の有無が焦点となっている天守閣は描かれていなかったが、県教委は「(1590年代に築城されたという)甲府城の初期の姿を解明する大きな手掛かりとなる」と期待を寄せている。

県教委が3日、県庁で開かれた、甲府城天守閣復元の可能性などを検討する「甲府城跡保存活用等調査検討委員会」で報告した。

絵図「甲府城並近辺之絵図」。縦2m14cm、横2m33cmで、色付きで、土塁や石垣などが詳細に描かれている。県教委が2月22日に同大学で発見した。

絵図には、甲府城北東側の稲荷櫓の近くにあり、これまで形が不明だった2棟の櫓が描かれていた。天守閣はなかったが、天守台は描かれており、県教委は「天守閣が存在するとしたら、絵図より前の年代と推測される」と指摘する。

絵図は、これまでの資料や描かれた内容から、万治3年(1660)以前に制作された可能性が高い。また、緻密な描写などから信憑性も高いといい、県教委は「当時、江戸に居た領主などに、甲府城や城下を紹介するために絵師に描かせたのではないか」と推測する。

同大学の資料からはその他に、享保9年(1724)以降に描かれた「(甲府)城下絵図」も見つかった。城の土塁の規模や、城や城下町に植えられていた植物も詳述されており、当時、どういう城下町が形成されていたか分析できるという。

県教委と委員会では今後、絵図の調査・分析を進め、新年度にまとめる甲府城の調査研究報告書に反映させる。

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新婚旅行、日本初は小松帯刀?/かごしま探検の会 龍馬の10年前、霧島へ(南日本新聞2008-01-27)

旧小松邸のあった宝山ホール前に立つ小松帯刀の銅像 坂本龍馬とおりょうが、日本初とされる新婚旅行で訪れた塩浸温泉にある2人の像

日本初の新婚旅行坂本龍馬ではなく薩摩藩家老小松帯刀―。鹿児島市の特定非営利活動法人(NPO法人)かごしま探検の会の東川隆太郎さんが、帯刀の日記を元にしたユニークな説を紹介している。

『小松帯刀日記』(鹿児島県史料集)によると、帯刀は妻ちかと結婚した直後の安政3年(1856)4月、夫婦で栄之尾えのお(えのお温泉、霧島市牧園町高千穂の霧島いわさきホテル周辺)を訪れた。

義父の清穆きよあつの湯治を兼ねたと思われ、ちか清穆は4月19日に栄之尾に出発、仕事を片付けた帯刀は同22日に後を追った。23日の日記には「栄之尾占大鐘時分着直ニ入湯ナリ」(=栄之尾に午後6時頃着き、直ぐに温泉に入った)とあり、以降12日間「入湯無事」などの記述が続く。

一方、龍馬薩長同盟を成功させた後、怪我の治療を兼ねて妻おりょうと薩摩を旅したのは10年後の慶応2年(1866)。塩浸温泉=霧島市牧園町宿窪田=などに滞在し、これが日本初の新婚旅行とされている。

薩長同盟は京都の帯刀邸で結ばれ、帯刀龍馬夫婦の新婚旅行の際には大坂から薩摩までの船に同乗、夫婦を鹿児島市原良の別邸に宿泊させるなど親密な関係だった。

大河ドラマ「篤姫」に関連した歴史を検証している東川さんは「帯刀夫婦にはちかの父も同行していて今の感覚とは違うかもしれないが、親孝行と新婚旅行を兼ねて霧島滞在を楽しんでいる。帯刀はこの経験を龍馬に教え、勧めたのではないか」と推測。「帯刀の魅力を伝えるエピソードの1つとして知ってもらえば、歴史の楽しみ方も広がる」と話している。


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浦上キリシタン資料を初公開 長崎歴文博(長崎新聞2007-12-12)

初公開された幕末から明治初期の浦上キリシタン資料

中央大学の清水紘一教授が所蔵する幕末明治初期の貴重な浦上キリシタン資料が、長崎市立山一丁目の長崎歴史文化博物館で初めて公開されている。

資料は現存最古とみられる「日繰り」(教会暦)や教理書一部破損した十字架など23点。キリスト教禁教下の幕末から明治初期にかけて、長崎奉行所が浦上村の信徒を捕らえた「浦上四番崩れ」の際に押収され、その後東京の明治政府に送られたとみられる。

外務省が1960年代に大量廃棄した文書の中から故稲生典太朗氏(元中央大学教授)が発見し、稲生氏から譲り受けた清水教授が研究を進めている。「長崎の人に是非見て欲しい」という清水教授の意向を受け、長崎歴文博での公開が実現した。

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資料の大半は、大浦天主堂プチジャン神父らから与えられた教理書を、浦上村の信徒が書写したとみられる素朴な冊子。「じわんの庄太」という名の信徒が書写した教理書には、創建当時の大浦天主堂のスケッチも残されている。

長崎歴文博の安高啓明研究員は「何れも重文級の貴重な史料。長い潜伏の時代を耐え忍んだ浦上村の信徒が、正統な教義を習得しようと必死に努力していた様子が窺われる」と話した。

会期は平成20年(2008)3月17日まで。常設展観覧料(大人600円、高校生400円、小・中学生300円)が必要。

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平地地蔵(京丹後市大宮町上常吉)―ふるさと昔語り(京都新聞2007-08-15)

悲しい一揆の歴史を秘め、静かに住民を見守る平地地蔵

◇一揆の首謀者慰霊

京丹後市大宮町上常吉の集落から少し外れた与謝野町との境目にかかる平地峠。

そのほぼ中央部の小高い山裾にある平智山地蔵院境内の一角に、穏やかな表情を称えて府内で最も背が高いといわれる「平地地蔵」が立ち、行き交う人々を温かく見守っている。

合掌する姿で、高さ5・3m。台座も含めると約7mもある。

文政5年(1822)冬、この地を支配していた宮津藩の重税などの圧政に耐えかねた農民が決起した「文政丹後一揆」が起きた。

「義を見てせざるは勇なきなり」と、3万人とも5万人ともいわれる農民たちを率いたとされ首謀者の一人、常吉村出身の吉田新兵衛は、その責めを受けて処刑された。一揆の11年後、新兵衛らの霊を慰めるために村などから集められた浄財で像は建立されたと伝わる。

それと共に、一揆の首謀者を弔う事ができなかった時代的な背景から、峠に出没する山賊を仏の功徳で退散させるとの名目で作られた、という説も地元には残る。

平地地蔵は当時、丹後一円に多くの作品を残した鱒留村(京丹後市峰山町鱒留)の石工、松助の代表作とされる。同市文化財保護課の橋本勝行技師は「立像の大きさと交通の要衝に建てられている事などから、信望の厚かった人物像が浮かび上がる」と話す。

こうした村の歴史を伝え残す昔からの行事が、毎年7月23日夕方から営まれる「地蔵祭」。諸霊を慰める読経などで先人の苦労を偲ぶ。また、境内周辺には夜店が並び、静かな山里は今年も歌謡ショーなどが催され、涼を求める参拝客らで賑わった。

雪深い土地柄だけに毎年11月23日には、檀家世話人会が、藁で編んだ防寒用の頭巾と蓑を着せる。この「みの着せ行事」は、丹後の初冬の風物詩としても広く知られている。

世話人会代表の大木秋男さんは「先祖供養の意味もあり、大切な地域のシンボル。今は夏の盛りですが、今年も時期になれば春先までの約4か月間を温かく過ごしてもらえるように心を込めて蓑を着せたい」と語る。

平地地蔵には口の右上に黒い斑点があり、「あざとり地蔵」とも呼ばれて親しまれている。転じて交通安全や安産など諸願成就の信仰を集め、近隣から参拝者も多い。また、世話人会が手編みで作る蓑と頭巾は計約60sの重さ。約4か月間身に纏い、雪解けの春を待つ。

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“将軍暗殺”騒動の藩士偲ぶ 大津・安昌寺で地元住民ら(中日新聞2007-11-25)

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江戸時代末期、将軍の暗殺を企てたとして、切腹や斬首を命じられた膳所藩士11人を偲ぶ供養祭が、命日に、大津市膳所の安昌寺で営まれた。

事件が起きたのは慶応元年(1865)5月。14代将軍徳川家茂が上洛途中に、膳所城に滞在するのを知って、御殿造営に当たった藩士が、家茂暗殺を企てたと疑われた。藩は11月、幕府に忠誠を示すため、11人に責任を取らせた

一連の騒動は「膳所事件」と呼ばれる。11人は膳所烈士と称されて市内2か所に埋葬。19世紀末から毎年、上級武士4人が切腹した安昌寺で供養祭を行っている。

この日は近くの住民ら60人が参加。小泉義和住職が読経し、参列者は焼香して、藩士の冥福を祈った。

その後、膳所歴史資料室運営協議会の戸田耕吉会長が「膳所城事件に思う」と題して講演。「藩士たちは気の毒だった。頭の片隅でもいいから、事件を覚えていて欲しい」と呼び掛けた。

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天明噴火の大型民家跡(上毛新聞2007-11-22)

八ツ場ダム建設に伴い県埋蔵文化財調査事業団が発掘調査を進めている長野原町川原畑の東宮遺跡で20日までに、天明3年(1783)の浅間山大噴火の泥流層下から大型の民家跡が発見された。泥に密閉されていたため保存状態が良く、出土した多数の遺物が224年前の惨禍を生々しく伝えている。泥流災害のメカニズム解明に繋がる他、同事業団は「近世の1つの集落がそっくり発見される可能性がある」と、今後の調査に期待を寄せている。

同事業団八ツ場ダム事務所は今年9月末から、約3500uにわたる同遺跡の発掘を開始。天明の泥流層の下から、間口約20m、奥行き約12mの大規模な民家跡を発見した。同噴火による泥流層から発掘された建築物としては最大。涌き水によって土が湿り、泥でパックされた状態の遺物が次々と発見された。

母屋からは建物の土台となる礎石だけでなく、その上に使用された木材、板の間の床板、倒れかけてはいたが柱もほぼ当時のまま見つかった。日用品類は線香の灰が残る線香立てや鉢に入った梅、未だ臭いのする馬小屋の馬糞など。

母屋の南側からは、地表に埋められる形で直径約1・8mの桶8つが並ぶ建物も発見された。

民家跡は天明の泥流に覆われた後、新たに家が建てられた時期もあるが、その後は水田などとして利用されていた。

吾妻地方で天明泥流の下から発見された民家遺構は、今回でまだ3例目。遺物は文献の少ないこの地域の中・近世の暮らしを知る貴重な史料として注目される。発掘開始直後から大規模な民家跡が発見されたため、今後も多数の遺構の発見が期待でき、泥流に埋まった近世の“村”全体が掘り起こされる可能性もある。

今回の発見について、嬬恋郷土資料館の松島栄治名誉館長は「天明3年の泥流に埋まった民家であるとすれば、規模の大きさや豊富な出土物は非常に貴重」と同遺跡を評価。(1)生活用品などが熱で焼けていない(2)豊かな生活の様子がうかがえる―事などを指摘した上で「近世史を見直す発見に繋がる可能性もある」としている。

同事務所の巾隆之所長は「調査は始まったばかりだが、天明期の集落の形態を知る上で貴重な発見。火山災害泥流被害の実態も解明していく事ができるのではないか」と話している。

遺跡の発掘作業は冬期は中断。来年度から、桶の中身や遺物の詳細な分析など本格的な調査を行う。同事務所は付近住民を対象にした現地説明会も行う予定。

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農民救った義人偲ぶ 綾部で大祭、参拝者で賑わう(京都新聞2007-11-11)

家内安全などを願って講元の細井さん宅を訪れた参拝客ら

村人の困窮を幕府への直訴で救った三義人を偲ぶ京都府綾部市の伝統の祭り建田たったの金刀比羅講大祭」が10日、同市佃町の民家で営まれた。講元の民家を社殿にして神事を行う住民手作りの祭り。山あい長閑のどな集落は、多くの参拝者で終日賑わった。

大祭は綾部市武吉たけよし、佃、ただの3町で受け継がれ、それぞれの頭文字から「たった」の名がある。

江戸時代年貢米の厳しい取り立てに苦しむ農民らを救うため、3地区の住民各1人が幕府への直訴を決意。金刀比羅さんのお守りのお蔭で奏功した、という由来が、祭りの始まりという。

以来、約300年にわたって、3町輪番で続けられ、今年は佃町の細井實さんが講元を務めた。室内に祭壇が設けられ、お守りなどが販売された細井さん宅には、地元や近隣市町から約2000人の参拝客が訪れ、家内安全などを願った。

午後には「戸渡し式」があり、次の講元、忠町の温井貞夫さん宅に御神体が引き継がれた。

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理兵衛堤防の史跡調査始まる 中川村と国土交通省天竜川上流河川事務所と (伊那毎日新聞2007-10-16)

掘削作業を進める理兵堤防

中川村田島の天竜川天の中川橋上流で15日、国交省天竜川上流河川事務所と中川村教育委員会による理兵衛堤防の発掘調査が始まった。10月末までに本格発掘し、形や構造など全容を明かにする。

昨年7月の豪雨で被災した田島の堤防護岸復旧工事が貴重な土木遺産、理兵衛堤防にかかる事から、工事完了後の理兵衛堤防の復旧方法について、基礎資料を得るために調査を実施する。具体的には下流から上流に向け、両側を掘削し、全体の姿を出し、積み方を調べたり、測量する。

調査に先立ち、村や同事務所、発掘関係者ら約20人が出席した発掘式で、発掘団長の松村正明教育長は「天竜川治水工事の歴史的遺産が7月の豪雨の後、200年の時を経て姿を現した。本格発掘し、形や構造など十分な記録を取りたい」と挨拶。

この後、早速、重機や手作業により発掘調査を開始した。

理兵衛堤防とは、天竜川と前沢川の合流地点の田島の水田は洪水の常襲地帯で、洪水から耕地を守ろうと、前沢村の大地主松村理兵衛忠欣は寛延3年(1750)、私費投じて、築提に取りかかった。その後、堤防は何度も洪水で流されたが、常邑忠良と3代60年掛けて完成させた。延長180m、延べ50万人余が工事に従事し、3万両の巨費を投じた。天竜川では唯一の治水工事の遺構。

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沖田総司、凛と立つ 霊山歴史館「日本初」のブロンズ像(京都新聞2007-10-10)

凛とした佇まいが印象的な沖田総司のブロンズ像

幕末に活躍した新選組の天才的な剣士でありながら、写真や肖像画などの史料が残っておらず外見が謎に包まれている沖田総司ブロンズ像を、京都市東山区清閑寺の霊山歴史館が制作した。「日本で初」(同館)という沖田の像は、「親しみ易い人柄だった」との言い伝えに加えて、現代の居合道高段者の動きも参考に、左京区の彫刻家江里敏明さんが、凛とした姿に再現した。

沖田総司新選組の1番隊長。結核のため慶応4年(1868)に25歳で亡くなった。池田屋事件などで武勇伝が多いが、顔や姿は「笑うと愛敬があり、子どもに親しまれてよく遊んだ」との姉の言葉のみが言い伝えられているという。

沖田総司は、高さ90p、重さ60s。新選組の印「誠」を背中に染め抜いた羽織と袴の姿。両足を肩幅大に開き、太刀を体の前についたゆったりとした立ち姿ながら、静かな眼光をたたえた穏やかな顔を右斜め前に向け、「隙のない身のこなし方で、静の中にも動がある」(江里さん)という。

江里さんは「史料が限られ、私自身が沖田像を作り上げる緊張感があったが、その分、創作意欲が沸いた。色んな方の意見を聞いてみたい」、監修した同館の木村幸比古学芸課長は「今回の挑戦が、沖田の像の原型になれば」と期待する。

沖田総司は、18日〜11月25日の同館の秋季特別展「龍馬と西郷」で公開する。問い合わせは同館へ。

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輪中の知恵再現(岐阜新聞2007-06-07)

苗を田舟で運び再現された「堀田」の田植え

嘗ての輪中低湿地帯の伝統的な水田堀田ほりたの田植えが6日、海津市海津町萱野の市歴史民俗資料館で再現された。

堀田江戸時代後期から明治時代に盛んに造られた。水田の一部を掘り上げて苗を植え掘った部分は田舟たぶねの交通水路として利用された。資料館によると、県内では嘗て海津市南部から瑞穂市にかけて造られたが、土地改良で1960年代に姿を消したという。

この日は、地元農家の4人が嘗ての作業風景を再現。田舟を竿で巧みに操りながら苗を運び、手植え役の人たちがくし状にかたどられた堀田に次々ともち米の苗を植えた。

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国定忠治:敵対博徒の子孫、170年越し「手打ち」(毎日新聞2007-06-01)

約170年を経て、静かに和解の時を待つ。赤城山の大沼湖畔に佇む忠治像

講談や芝居で知られる江戸末期侠客国定忠治忠治一派に殺された博徒らのそれぞれの子孫が2日、地元の群馬県伊勢崎市で手打ち式を行う。共に同市内に住みながら「しこり」を残して来た両者が、約170年の時を越えて手を結ぶ。

忠治は本名・長岡忠次郎で、上野国左位郡国定村(現在の伊勢崎市)の生まれ。和解するのは忠治と、、天保5年(1834)、同13年(1842)に忠治の子分に殺害されたとされる「島村の伊三郎」「三室の勘助」親子のそれぞれの子孫。賭場を巡る縄張り争いが発端だったという。

伊三郎が縄張りとした現在の同市境島村の一部では、今も「忠治」は禁句。忠治が登場する民謡踊り「八木節」が演じられる事は殆んど無く、やっても忠治の件は省かれるという。

仲介役を買って出たのは、忠治の公式ファンクラブを名乗る「伊勢崎忠治だんべ会」の桜場弘美代表。忠治のPRを兼ねた手打ち式を思い立ち、一軒一軒、説得して回った。

忠治から5代目の長岡富男さんは「そういう時期かなという感じ。応じないわけにいかない」。伊三郎の子孫、町田吉則さんは「粋な事をしてくれるじゃねえか」と快諾。勘助の子孫、木村政司さんは「遺恨がないと言えば嘘になるが、地域を盛り上げるために水に流したい」と話す。

当日は忠治が眠る養寿寺(同市国定町)やそれぞれの墓を参拝。手打ち式では桜場さんが中央に座り、乾杯の音頭を取り、子孫らが杯を交わす。

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淀城など描いた屏風絵見つかる 京都市歴史資料館で展示(京都新聞2007-06-02)

伏見の街並み(手前)や淀城などが描かれた新発見の屏風絵

江戸中期の宇治川や淀川流域の様子を描いた『淀伏見近郊図屏風』がこの程見つかり、京都市歴史資料館(上京区)のテーマ展「屏風」で展示されている。同資料館は「淀城周辺の景観を一望する史料として貴重」と話している。

同屏風は六曲一双で、一隻は縦75?、横203?。昨夏、市内の愛好家から寄託を受けた。左に伏見、中央に淀城、右に石清水八幡宮を配し、随所に桜や金の雲に埋め尽くされ、小振りだが華やかなつくりだ。

宝暦6年(1756)に焼失した淀城天守閣が描かれ、この頃の作とみられる。城内の様子や水を引く水車、庭園、城下の高札場が詳しく描かれ、観月橋周辺の街並み、船遊びをする人々や船上で飲食物を商う「くらわんかぶね」も描かれている。裏面には秋をテーマにした「波に千鳥図」がある。

宇野日出生研究員は「誇張はあるが、ポイントはしっかり描かれている。依頼主の何らかの要望があって描かれた品だろう」と話している。

同展は8月26日まで(月曜・祝日休館、無料)。同屏風の展示は6月28日まで。

― ◇ ◇ ◇―

→(参照)『淀伏見近郊図屏風』

淀伏見近郊図屏風

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幕末の天才棋士・本因坊秀策顕彰の悲願「生家復元」着工 尾道市・因島合併記念事業「囲碁の館」建設(せとうちタイムズ2007-03-10)

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広島県唯一の市と市が合併した尾道と因島。合併協議のなかで地域文化を融合、継承するのは難しいとされてきた。なかでも囲碁文化という地味な分野の話だから尚更である。旧因島市が誇る幕末の天才棋士本因坊秀策にあやかって、囲碁でまちおこしを―と「市技」に制定したのは平成9年(1997)。以来、まちをあげて囲碁文化の継承や男女の子どもから大人、アマ・プロの競技大会を主催、全国への発信に取り組んだ。こうした流れのなかで、旧因島市が合併前から計画していた、後世、碁聖と仰がれる本因坊秀策生家復元と囲碁資料館の2つを備える「囲碁の館」を合併記念事業として建設する事になった。既に建設用地の買収も完了、建設費1億5124万9000円が尾道市議会に計上されれば同19年度(2007・4〜08・3)に着工、同20年(2008)秋のオープンを目指して準備を進める。地元因島をはじめ全国の関係者にとっては悲願だった半世紀の夢が叶えられる日も近い。

◇囲碁をまちおこしに

「市技」という耳慣れない言葉が旧因島市で誕生した。国技の相撲に倣い全国でも珍しい囲碁をテーマにした発案である。元は、といえば村上水軍の血を引く造船の島、因島である。どうした事か、幕末に天才棋士本因坊秀策を輩出し、昭和の戦後囲碁界のトップ・アマ本因坊、村上文祥(故人)が送り出された。こうした事もあって因島の囲碁愛好者は約3000人。住民の10人に1人が囲碁を嗜み、そのうちの約300人が有段者という囲碁のまちである。

そうした環境を「まちおこし」に活用しようと試みたのは造船業界の構造的不況の波をもろに受け「島が沈む」とまでいわれた90年代の頃から。

◇秀策の隠れた功績

何故、本因坊秀策が近年になって世間一般にまで脚光を浴び、まちおこしにあやかれるようになったのだろうか。

その遺徳顕彰の1つは、秀策没後5年後の慶応3年(1867)4月。広島、三原、尾道など有志の浄財で三原城東3?にある糸崎神社境内に「本因坊秀策師之碑」が建立された。碑文は当時広島藩の儒者木原藉之秀策が幼児の頃より三原藩主浅野候の庇護を受け、商都尾道の大旦那橋本吉兵衛竹下親子の支援などもあって故郷因島が見える糸崎浜松の地を選んだと伝えられる。

そして、大正15年(1926)10月には秀策50年忌に際し、尾道市因島外浦町の生家前碁盤の台座に乗った「本因坊秀策碑」が建立除幕された。裏面碑文は当時三原出身の貴族院議員で法学博士花井卓蔵氏撰。このように顕彰碑が2基も建立されている事は珍しく、秀策が如何に偉大であったかを知ることができる。

2つ目は、14代本因坊秀和「跡目」のまま若干34歳という若さでこの世を去った秀策だが、後世「本因坊」「碁聖」と仰がれた事について異論を唱えた人はいない。

◇殿堂入りした秀策

秀策流という先番必勝法の一・三・五という布石を確立。プロ棋士の登竜門ともいわれる名局の数々を通して後進を導く指針として初心者でも秀策先生に学ぶ事が多い、と日本棋院の棋聖小林光一氏は傾倒する。

日本棋院創立80周年記念事業として、平成16年(2004)11月15日東京都千代田区にオープンした囲碁殿堂資料館。第1回の栄えある殿堂入りを果たしたのは、囲碁を「国技」に高めた天下人徳川家康近代囲碁史の開祖・初代本因坊算砂。後世碁聖と仰がれる島根県仁摩町(現大田市)出身の4世道策と因島出身の14世跡目秀策の4人。

殿堂入りを前にして、一躍有名になったのが秀策。アニメや漫画雑誌に登場。囲碁に縁が薄かった子どもやご婦人層の囲碁ブームに火を点けたのが、『少年ジャンプ』『ヒカルの碁』。初挑戦した囲碁を題材とした漫画雑誌が累計で1800万部を突破したというからホクホクである。原作者(絵コンテ)ほったゆみさんは「登場人物のモデルは秀策さんと所縁の地因島だけ。後は架空の人物と場所」だという。

これが起爆剤となって全国から少年少女が保護者に連れられて因島の秀策生誕の地へ遣って来た。当時の因島市は、秀策顕彰碑の付近の駐車場にトイレを新改築、秀策の墓地に通じる道しるべを立てるなど対応に追われた。

25年前の昭和55年(1980)、旧因島市制27周年記念のイベントとして行われた「名人戦」(大竹英雄名人対趙治勲)の時にはタクシーの運転手が知らなかったという秀策生誕の地だが、現在は全国的に注目を集め訪れる人が急増している。

◇その時歴史が動いた

NHKも秀策の偉大さに注目。昨年5月6日にはBS2(約2時間)で「碁聖・本因坊秀策無敗伝説」を放映。近代囲碁史に残る秀策流「耳赤の一手」をクローズアップ。7月5日には総合テレビ「その時歴史は動いた」「勝負師は志高く〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜」が放送された。

囲碁の天才・神童と騒がれた秀策は9歳で古里を離れ江戸本因坊家へ入門。三原浅野藩からの囲碁留学修業が始まった。家元で受けた教育は囲碁の指導研鑽を通してただ強くなるだけでなく、人としての品格をも植え付ける人間形成だった事にスポットを当て、幕末の動乱期、家元が文化を担う時代から「大衆文化」に姿を変えていく経緯に迫った。

◇NHK教育で再放送

NHKは昨年5月にBS2で「初心者にもわかる名勝負」というサブタイトルで「耳赤の一手」などを放映したあと、7月には総合の「その時歴史は動いた」秀策の無敗伝説を放映、反響を呼んだ。その一方で、再放送を望む声も多くこれまで番組編成を検討していたが、春の高校選抜野球中ならと、3月25日午後1時05分から同2時55分まで教育テレビで再放送することを決めた。

34歳という若さで激動の幕末期を駆け抜けた本因坊秀策跡目であったにも拘らず碁聖・本因坊と仰がれる要因に

 ・徳川幕府が主催した「お城碁」で前人未到の19連勝
 ・稀にみる温厚な人柄、沈着冷静、礼儀正しく孝道

など数々のエピソードが挙げられる。その秀策を偲ぶメッカ「囲碁の館」に寄せる思いを描ける場所の創設にかける期待は大きい。

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