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『武雄軍団秋田を駆ける』 市図書館・歴史資料館が図録刊行 戊辰戦争での活躍記す(西日本新聞2009-05-18)

戊辰戦争140年を機に武雄市図書館・歴史資料館が刊行した図録『武雄軍団秋田を駆ける』

『武雄軍団秋田を駆ける』武雄市図書館・歴史資料館が、こんなタイトルの図録を刊行した。サブタイトルは「戊辰戦争140年」同戦争佐賀藩武雄領は、東北諸藩の中で唯一、新政府軍として参戦した秋田藩を支援するために当地に渡り、旧幕府軍と戦った。歳月と共に忘れ去られつつある武雄と秋田の歴史的関係を心に刻んでもらおうと、初めて編集した。

慶応4年(1868)1月に旧幕府軍新政府軍の間で始まった戊辰戦争で、武雄領主の鍋島茂昌は朝廷から出兵を命じられた。佐賀藩の一家臣である武雄領主へ異例の出兵要請がなされたのは、長年の蘭学や砲術研究が評価されたためだったという。

武雄領は約1000人の軍団を編成し、佐賀本藩の兵と共に秋田へ。茂昌は総司令官に任命され、現地で陣頭指揮に当たった。「アームストロング砲など最新の軍備を擁する武雄軍団の活躍は、敵味方を問わず大変驚かせた」と同館の川副義敦副館長は説明する。

旧幕府軍の東北諸藩に包囲され、孤立無援のまま焼土となる寸前だった秋田を救うため、遥々九州から駆けつけた武雄軍団。約2か月の戦闘で14人の戦病死者を出し、多数が負傷した。秋田では、武雄軍団の奮闘で城下が戦禍から免れた史実が語り継がれ、今でも多くの人が感謝の気持ちを忘れていない。

昭和61年(1986)、武雄軍団の兵士を含む戦没者3人の墓があった現地の丘陵地が土地区画整備の対象となり、墓石の移転が必要になった。この時、地元の人たちは「兵士の魂を慰めたい」と武雄にいる子孫を捜し出し、当時の武雄市長も招いて合同慰霊祭を行った。

「翌年には改葬が行われ、遺骨は佐賀を向く形で葬られたそうです。平成5年(1993)には国の重要無形民俗文化財で門外不出とされた秋田市の七夕祭り『竿灯かんとう』が武雄市と佐賀市で演じられ、多くの人が訪れました」と、川副副館長は両地の結び付きの深さを表現した。

図録はA4判、102ページで、武雄鍋島家の関係資料や写真のほか、秋田県内に残る資料も掲載。戊辰戦争での武雄軍団の公式記録『茂昌公羽州御陣中記』の翻刻もある。

川副副館長は「武雄鍋島家に伝えられた古文書のうち約800件が秋田での戦いの関係資料。この膨大さが、決して忘れる事を許さない歴史の重さを物語っている」と結んだ。1冊1000円。問い合わせは市図書館・歴史資料館へ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→『武雄軍団秋田を駆ける』販売について(武雄市図書館・歴史資料館のサイトより)


※(関連)→武雄領の戦い辿る「戊辰戦争140年」発行(佐賀新聞2009-04-15)

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歌碑:生麦事件伝える碑 資金提供の薩摩藩士子孫ら除幕―横浜・参考館(毎日新聞2009-05-11)

幕末の開国直後に起きた生麦事件(文久2年=1862)の資料を展示する横浜市鶴見区生麦の私設資料館「生麦事件参考館」で10日、事件を詠んだ漢詩の歌碑除幕式があった。

◇山階宮晃親王が詠んだ七言絶句

歌碑同館の中庭に建ち、小松石で縦約60cm、横約20cm。「薩州老将髪衝冠」で始まる七言絶句が刻まれている。山階宮晃親王明治初期に「老将」(=島津久光の事件を回顧し、詠んだ。

歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫、有村國宏さん=滋賀県愛荘町=で、妻章子さんと駆け付け、除幕した。有村さんは「開港150周年の記念の年にでき、歴史のあやを感じている」と喜んだ。

式には薩摩藩の子孫、海江田忠義さん=東京都=ら約30人が出席。「鶴見歴史の会」の会員が、漢詩を詩吟で披露した。

15年前から資料集めを続ける同館の浅海武夫館長は「久光の伝記を読み、山階宮漢詩を知った。3年前、横浜外人墓地にある犠牲となった英国人の墓を補修した時、有村さんから寄付を頂き、歌碑として事件を後生に伝える事を思いついた」と話す。


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鉄門:“門”違いでした 「加納城を移築」実は大垣城―各務原(毎日新聞2009-05-10)

大垣城本丸の門と分かった鉄門

◇中山道鵜沼宿町屋館で公開中

加納城(岐阜市)の門と伝えられていた各務原市内の旧家のくろがねが、大垣城(大垣市)本丸の門である事が各務原市の調査で分かった。寄付を受けた同市が移築のために解体した際、土台の柱に大垣藩大工奉行などの名の墨書が見つかった。鉄門は、移築先の各務原市鵜沼西町の中山道鵜沼宿町屋館で公開されている。

各務原市蘇原野口町の安積輝夫さん宅に明治9年(1876)に払い下げられた鉄門で、「安積門」と呼ばれ、加納城の門を移築したとされてきた。昨年6月、安積さんが市に寄付し、市が解体修理をしたところ、墨書を見つけた。「四月十二日土台入れ」と書かれ、江戸末期の大垣藩大工奉行ら11人の名前もあった。鬼瓦には、大垣藩主・戸田家の紋「九曜紋」もあり、市は大垣城鉄門だったと断定した。

は、間口約5・7m、高さ約4・5m。切妻きりづまの瓦葺き屋根のかかる高麗門。明治3年(1870)の県の公売入札告示には、「鉄門 高一丈一尺、巾三間」とあり、規模がほぼ一致。火矢や敵の攻撃を防ぐために正面には短冊形の鉄板を隙間なく張り、軒下は白漆喰塗りで、厳重な防備の可能な構造。高麗門形式鉄門は、名古屋城本丸表二の門と、大坂城(注1)大手門(二の門)が現存する。


※注1 大坂城
「大坂城」は豊臣期の城郭及び徳川期の城郭を指す。明治期以降、大阪と改称されて以降の昭和期の城郭(天守閣)については「大阪城」天守閣と称す。


大垣城は、天文4年(1535)の築城とされ、空襲で焼失した後、現在の城が再建された。版籍奉還後の明治9年(1876)、天守を除く本丸部分が払い下げられた。



※(関連)→民家の門が大垣城鉄門(朝日新聞2009-05-09)
※(関連)→旧大垣城の鉄門を披露 鵜沼宿 各務原の医師寄贈(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→各務原の「安積門」は大垣城鉄門の可能性(岐阜新聞2009-05-09)

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横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)

◇県が全小学校などに配布へ

県は横浜開港150周年を記念し、ペルー船内で過酷に扱われた中国人の保護が国際問題化したマリア・ルス号事件(明治5年=1872)を題材にした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」を制作した。伝統文化の紙芝居を使い情報発信する「かながわ紙芝居プロジェクト」の一環で、1800部を作成。県内の全小学校のほか、図書館や市町村に配布する。

横浜港に停泊中のマリア・ルス号から同年6月、1人の中国人が海に飛び込み、救助された。船内で230人以上の中国人が苦境にあるとの訴えに、権令ごんれい(=副知事)の大江卓は全員を保護し、解決に乗り出した。奴隷制度が残る中、事件は国際仲裁裁判に発展したが、日本側の主張が認められた。裁判は国内の公娼廃止にも繋がったとされる。

大江の活躍は12枚の紙芝居で語られる。「タンキョー」は英語の「サンキュー」の意味で、開港当時の横浜で使われた。救助された中国人も紙芝居の中で、大江に「タンキョー」と感謝した。

県庁内の県政情報センターなどで販売もしている。1部446円。県ホームページ
からダウンロードもできる。松沢成文知事は「是非多くの県民にご活用頂きたい」と話している。

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※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)
※(関連)→中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)
※(関連)→マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)


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明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)

県が「マリア・ルス号事件」をテーマに作製した紙芝居の表紙

明治時代初期に当時の県副知事が清国人奴隷の解放に力を尽くした「マリア・ルス号事件」をテーマにした紙芝居を県が作製し、販売を始めた。

事件は、明治5年(1872)、横浜港に寄港したペルー船籍「マリア・ルス号」に多くの清国人が奴隷として乗せられている事が分かり、当時の県副知事にあたる大江卓権令ごんれい(=副知事)が県庁内で臨時法廷を開き、裁判長として清国人の解放を決めた―との内容。紙芝居ではこの事件の内容をB4判12枚の絵と文章で分かり易く伝えている。県は、今年が横浜開港150周年でもあり、開港後の横浜の様子を知ってもらおうと作製した。

1800部作製し、県内の全小学校や図書館に配布したほか、県庁でも1部446円で販売している。県のホームページからもダウンロードできる。

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※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)
※(関連)→マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)
※(関連)→中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)
※(関連)→マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)


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マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)

紙芝居『タンキョー マリア・ルス号ものがたり』

明治時代初め、横浜港に入港した船から奴隷扱いされていた外国人労働者が解放された事件を描いた紙芝居『タンキョー マリア・ルス号ものがたり』を、県が制作した。

事件は明治5年(1872)、ペルー船マリア・ルス号が横浜港に停泊中、船から逃げた清国の労働者が、船内で奴隷扱いされていたと告発して発覚した。当時の副知事に相当する権令ごんれい(=副知事)の大江卓が裁判長を務め、清国人労働者230人余りが解放された。

紙芝居は、横浜開港150周年を記念して、開港当時の様子を伝えるために作られた。紙芝居作家の若山甲介さんやイラストレーターの笹尾としかずさんらが手掛けた。

B4判で12枚。本文の漢字にはルビがふられ、子どもにも演じられるようにした。1800部制作、県内の全小学校や図書館などに配られる。

県のホームページから無料でダウンロードできる。横浜市中区の県庁第2分庁舎1階県政情報センターで販売もしている。価格は446円。

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※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)
※(関連)→明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)
※(関連)→マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)


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中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)

県が制作した紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」

神奈川県は、明治初期に当時の県副知事が中国人奴隷解放に挑んだ「マリア・ルス号事件」を題材にした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」(全12枚)を制作した。

紙芝居では当時の県副知事に当たる大江卓権令ごんれい(=副知事)が、横浜港に入ったペルー船籍のマリア・ルス号に乗せられていた中国人奴隷を裁判で解放に導くまでの経緯を、カモメの語りで紹介。

県は1800部を制作、県内小学校などに配布予定で、県庁でも販売。また県のホームページからは自由にダウンロードできる。

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※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)
※(関連)→明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)
※(関連)→マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)


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マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)

県が「マリア・ルス号事件」をテーマに作製した紙芝居

明治初期に当時の県副知事が中国人奴隷の解放に力を尽くした「マリア・ルス号事件」を題材にした紙芝居が完成し、製作した県が販売を始めた。

事件は明治5年(1872)に起きた。横浜港に寄港したペルー船「マリア・ルス号」から、奴隷として強制的に乗船させられていた中国人約200人が脱出し、救助を求めた。当時の県副知事に当たる大江卓権令ごんれい(=副知事)は県庁内に臨時法廷を開き、中国人の解放を決めた

紙芝居は、こうした歴史的経緯をB4判12枚の絵とシナリオにより分かり易く伝えている。1800部作製し、県内全小学校や図書館に送ったほか、県庁でも1部446円で販売する。また、県のホームページからも自由にダウンロードできる。

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※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)
※(関連)→明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)
※(関連)→中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)

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マリア像祈りの行進 乙女峠まつり(読売新聞2009-05-04)

マリア像を掲げて進む行列

キリスト教殉教者を偲ぶ「乙女峠まつり」が3日、津和野町後田の津和野カトリック教会などで行われた。西日本各地から集まった約2000人の信者が、聖母マリア像を中心に行列を作り、賛美歌や祈りの言葉を唱えなえながら、同教会から乙女峠のマリア聖堂までの約2kmを行進した。

津和野では慶応4年(1868)から5年間、長崎・浦上村のキリスト教信者153人が幽閉、改宗を迫られ、36人が殉教。昭和26年(1951)、乙女峠に殉教者を記念する聖堂が建てられ、翌27年(1952)から毎年まつりが行われている。

薔薇バラの花で飾られたマリア像は、白いベール姿の高校生8人が肩に乗せて静かに運び、その前を、やはりベール姿の町内の私立保育園・津和野幼花園の園児らが花びらを撒きながら先導。初夏の城下町観光に訪れた人たちも足を止め、厳かな行列に魅入っていた。



※(関連)→津和野で乙女峠まつり(山陰中央新報2009-05-04)
※(関連)→殉教者へ祈り 乙女峠まつり(中国新聞2009-05-04)
※(関連)→津和野で乙女峠まつり 殉教者を追悼(山陰中央新報2008-05-04)

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津和野で乙女峠まつり(山陰中央新報2009-05-04)

マリア像を担ぎ、津和野カトリック教会を出発する女子高校生ら

キリシタン殉教の地で知られる津和野町で3日、「乙女峠まつり」があった。全国各地から集まったカトリック信者約1500人が聖母行列や野外ミサに参列し、殉教者の霊を慰めた。

白いベール姿の高校生8人が担ぐマリア像の列は、地元保育園児の先導で津和野カトリック教会を出発。賛美歌を口遊くちずさみながら、新緑眩しい約2kmの道程を歩き、野外ミサ会場の乙女峠のマリア聖堂を目指した。

野外ミサでは関東地方から参加した熱心な信者らの姿もあり、聖マリア像に敬虔な祈り。聖堂は、殉教者に祈りを捧げる声と賛美歌の歌声に包まれた。

乙女峠まつりは、慶応4年(1868)から弾圧で捕らえられ、津和野藩により改宗を迫られ亡くなった長崎県浦上村のキリスト教殉教者36人を追悼するため、昭和27年(1952)から開かれている。



※(関連)→マリア像祈りの行進 乙女峠まつり(読売新聞2009-05-04)
※(関連)→殉教者へ祈り 乙女峠まつり(中国新聞2009-05-04)
※(関連)→津和野で乙女峠まつり 殉教者を追悼(山陰中央新報2008-05-04)

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殉教者へ祈り 乙女峠まつり(中国新聞2009-05-04)

乙女峠を目指す聖母行列

キリシタン殉教者の霊を慰める乙女峠まつりが3日、島根県津和野町であった。信者約2000人が全国から集まり祈りを捧げた。

信者たちは殿町通りの津和野カトリック教会を出発。白いベール姿の女子生徒が担ぐマリア像を中心に、約2km離れた乙女峠を目指した。沿道には大勢の観光客や町民が詰め掛け、行列をカメラに納めていた。乙女峠にあるマリア聖堂の広場では野外ミサを開き、弾圧による殉教者の霊を慰めた。

乙女峠には慶応4年(1868)から明治6年(1873)にかけて長崎県の教徒153人が改宗を迫られ幽閉され、36人が殉教した。



※(関連)→マリア像祈りの行進 乙女峠まつり(読売新聞2009-05-04)
※(関連)→津和野で乙女峠まつり(山陰中央新報2009-05-04)
※(関連)→津和野で乙女峠まつり 殉教者を追悼(山陰中央新報2008-05-04)

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吉田松陰:「下田密航」米艦日誌に記載 事件の時間経過詳細に―関大教授発見(毎日新聞 2009-04-25)

◇「回顧録と矛盾なし」、今日155年

幕末の思想家、吉田松陰が嘉永7年(1854)、静岡・下田沖に停泊していたペリー提督黒船に乗り外国へ密航しようとした事件の詳しい時間経過が、陶徳民・関西大学教授が米国立公文書館で発見した資料から分かった。松陰が事件の7か月後に著した回顧録『三月廿七記』の記述と矛盾がなく、その現代的な時間感覚が浮かぶ。この「下田密航」から25日で155年。

記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号の航海日誌で、記載責任者はマクルーニー艦長1854年4月25日の欄「(午前)2時45分、2人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らのボートが漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された」と書かれていた。「2人の日本人」は、松陰と従者の金子重之助しげのすけを指す。

事件はぺリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。2人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。公式記録『ペリー艦隊日本遠征記』は、それを「午前2時頃」と記す。

今回の資料を合わせて陶教授は、松陰らは25日午前2時頃ミシシッピ号に辿り着き、2時45分頃ポウハタン号に乗艦、約45分滞留し、3時半頃送還へ―と結論付けた。2人はその後自首し獄に繋がれた。

陶教授は「事件の貴重なデータであり、松陰の厳格な時間観念と驚異的記憶力も裏付けられる」と話している。

◇梅渓昇・大阪大学名誉教授の話

松陰が時間を大事にする事で時代を正しく認識していたのは重要だ。後の岩倉使節団などに繋がる日本近代化の先駆けとなった松陰の向学心を知ってもらいたい。

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武雄領の戦い辿る「戊辰戦争140年」発行(佐賀新聞2009-04-15)

図録『戊辰戦争140年 武雄軍団秋田を駆ける』の表紙

◇秋田出陣の軌跡―最新西洋砲で存在感

武雄市図書館・歴史資料館図録『戊辰戦争140年 武雄軍団秋田を駆ける』を発行した。佐賀藩陪臣(家臣)領だったにも拘らず、明治新政府から異例の出兵命令を受けて戊辰戦争に出陣した武雄領の人々の戦いを辿っている。

同館の図録としては12冊目の刊行。戊辰戦争から140年の節目に合わせて編集した。

約1000人の軍団は武雄領主鍋島茂昌しげはるを筆頭に、慶応4年(1868)7月初めに出発。31藩からなる奥羽越列藩同盟新政府軍が激戦を展開していた東北に向かい、秋田戦線に投入された。4門のアームストロング砲など最新装備を持つ軍団は9月下旬まで転戦。戦病死者が14人出たほか、多数の負傷者を抱えて帰還した。

図録武雄鍋島家に伝わった関係資料はじめ、秋田県内に残る資料など計106点をカラー写真で紹介。付録として、公式記録といえる『茂昌公羽州御陣中記』(武雄鍋島家資料・武雄市所蔵)を翻刻した。

命令書や激戦の記録、戦地で使われた銃や備品などを並べ、軌跡を追っている。『茂昌公関東御出張被蒙朝命候御書付写』新政府が10代佐賀藩主鍋島直正に対し、武雄領主らの出兵を命じた文書。武雄領での「長年の西洋砲術研究が評価され、関東への出兵が命じられた事が分かる」と説明している。

秋田での戦いが終結した後、軍団は東京に暫く滞在した。この経緯については、新政府の軍務副知事・大村益次郎の書簡を紹介。「優秀な洋式装備を有する武雄軍団の羽州戦線における活躍振りは、新政府当局の注目を集め、政府護衛軍として東京に引き留めておこうという意見が出、軍団の帰国は延期されていたのである」と解説している。佐賀藩戊辰戦争を通じて存在感を高めていった事を示す資料ともいえそうだ。

この他「錦の御旗」鍋島茂昌が天皇から拝領した軍扇や杯なども―

解説で武雄市図書館・歴史資料館の川副義敦副館長は武雄鍋島家資料の中に数多くの「羽州戦争」関係資料がある事を示し、「この資料の膨大さが、羽州出兵の事実と共に、決して忘れる事を許さない歴史の重さを如実に物語っている」と記している。

A4判、101ページ、1000円。武雄市図書館・歴史資料館で販売。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→『武雄軍団秋田を駆ける』販売について(武雄市図書館・歴史資料館のサイトより)


※(関連)→○『武雄軍団秋田を駆ける』 市図書館・歴史資料館が図録刊行 戊辰戦争での活躍記す(西日本新聞2009-05-18)

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「治水の神」成富兵庫の水利事業を学ぶ…佐賀で学習会(読売新聞2009-04-12)

佐賀の水環境を考える市民団体「森と海を結ぶ会」は11日、佐賀藩家老で「治水の神」と呼ばれた成富なりどみ兵庫茂安の水利事業や功績などにスポットを当てた学習会を始めた。

同会によると、成富兵庫が築いたとされる治水・水利施設石井樋いしいび(佐賀市大和町)など県内に26か所残っているという。こうした施設の世界遺産登録を目指し、同会は昨年12月、佐賀市で講演会を実施。目標の実現に向けて今年は、計5回の学習会を開く予定にしている。

同市のアバンセで開かれた第1回の学習会には、約70人が参加した。さが水ものがたり館の金子信二館長が講師を務め、成富兵庫が手掛けた治水・水利事業を紹介。参加者たちは、当時の技術が現在の河川で、どのように役立っているかなどを学んだ。

同会の半田駿会長は「成富兵庫の水利事業には、現代にも通じる自然との共生がある。300年以上も前から、そうした事に取り組んだ功績は、今後の水利を考える上でも役立つ。是非世界遺産に登録したい」と話している。学習会の問い合わせは同会事務局へ。


※(関連)→学習会:成富兵庫の水利事業を再評価 世界遺産運動展開へ―佐賀で明日(毎日新聞2009-04-10)
※(関連)→水の力逆らわず生かす 佐賀テクノロジー考(朝日新聞2009-01-05)
※(関連)→成富兵庫の功績辿る 田中さんが新著(佐賀新聞2008-12-03)

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学習会:成富兵庫の水利事業を再評価 世界遺産運動展開へ―佐賀で明日(毎日新聞2009-04-10)

◇さが水ものがたり館長講演

江戸時代初期の鍋島藩家老・成富なりどみ兵庫茂安の水利事業を再評価し、残された施設を世界遺産にしようと呼び掛けるグループの学習会が11日、佐賀市で開かれる。学習会は今年5回開く予定で、今回が1回目となる。成富兵庫の業績を紹介する施設「さが水ものがたり館」(佐賀市大和町)の金子信二館長の講演などがある。

主催は佐賀市の水環境問題に取り組む市民グループ「森と海を結ぶ会」。同会は昨年12月、他の団体や佐賀大学などと共に講演会を開き、成富兵庫の業績の世界遺産化運動を始めた。学習会は「成富兵庫の仕事は複雑で、きちんと知る事が必要だ」とする声に応えるため開催する。

同会などによると、成富兵庫が行った水利事業は現在、26か所残っているという。自然に逆らわず“共生”した形の治水事業で、環境への配慮がより必要になるこれからの時代の先取りとしても世界遺産に相応しいと評価している。

学習会は11日午後1時半〜4時、佐賀市天神の生涯学習センター「アバンセ」4階会議室。参加費無料。問い合わせは同会事務局へ。<


※(関連)→「治水の神」成富兵庫の水利事業を学ぶ…佐賀で学習会(読売新聞2009-04-12)
※(関連)→水の力逆らわず生かす 佐賀テクノロジー考(朝日新聞2009-01-05)
※(関連)→成富兵庫の功績辿る 田中さんが新著(佐賀新聞2008-12-03)

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志津摩桜まつり:小倉藩名家老に因み 苅田で今日まで(毎日新聞2009-04-05)

幕末小倉藩家老、島村志津摩しづまが晩年を過ごした苅田町二崎の二崎山で3日、山桜を楽しむ「志津摩桜まつり」が始まり、夜神楽が上演された。まつりは5日まで続く。

小倉織や養蚕を奨励する藩政改革を進めた名家老、島村の顕彰を地域おこしに繋げようと、地元住民と町が初めて企画した。午後6時過ぎ、篝火かがりびに点火して、同町に伝わる南原神楽が始まると、桜も照らし出されて幻想的な雰囲気に。

5日は午前10時〜午後6時、二崎の農産物や漬物などの加工品を販売し、同6時半〜8時半、ライトアップされた夜桜が楽しめる。


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名家老所縁の桜…苅田・二崎 明日から志津摩桜まつり(読売新聞2009-04-02)

小倉藩家老として勇名を馳せた島村志津摩しづまが、晩年を過ごした苅田町二崎で3〜5日、「志津摩桜まつり」が開催される。期間中は、推定樹齢200年の桜が楽しめ、町特産品の販売会も行われる。

島村は、20歳で筆頭家老となり、藩政の大改革をした人物。幕末第二次長州征伐では藩の第一軍将として活躍し、敵方から「小倉藩に島村あり」と恐れられる程の勇将だったという。廃藩置県の後に一線を退き、44歳で亡くなるまで、馴染みのあった苅田町二崎で過ごした。

同町は、名家老が過ごした場所として二崎地区をアピールし、地域興しに繋げたい考えで、これまでは島村に関する講演会を開いている。

今回は、島村が暮らした屋敷近くにある桜をメーンに、同町の南原神楽の公演、紫芋の焼酎や松会漬けといった特産品の販売会を予定している。

桜は現在、七分咲きで、午後6〜8時はライトアップされる。問い合わせは、同町農政課へ。



※(関連)幕末の知将・島村志津摩を顕彰 3日から初の桜まつり ライトアップや神楽公演 苅田町(西日本新聞2009-04-01)


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幕末の知将・島村志津摩を顕彰 3日から初の桜まつり ライトアップや神楽公演 苅田町(西日本新聞2009-04-01)

慶応2年(1866)の第二次長州戦争長州藩の攻勢から小倉藩を救った知将島村志津摩しづまを顕彰し、地域おこしを目指す初の「志津摩桜まつり」が3日から、苅田町二崎の天神池周辺で開かれる。地元の二崎島村志津摩顕彰会と二崎志津摩桜保存会主催、5日まで。

志津摩桜は、志津摩の屋敷跡といわれる天神池近くに立つ山桜。1日午後6時からライトアップする。3日午前10時には餅搗きをして無料配布。午後6時に篝火の中で南原神楽(苅田町)公演がある。

二崎地区の環境保全に取り組む「鯉クラブ」代表の田渕力三郎さんは、桜周辺の雑木を切り開いて広場や道を造り、休憩所も設けた。二崎の高齢者による「天神クラブ」は棚田を整備した。

田渕さんは「志津摩邸跡を生かし地域の活性化を図りたい。天神池には多くの鷺が巣を作り、山並みも見える。自然を壊さず遊歩道などを整備したい」と話す。

島村志津摩を30年以上研究する元行橋市教育長の白石壽さんによると、志津摩は20歳で家老職に就任。第二次長州戦争で農兵隊を率いて長州藩の進撃を食い止めた。武士や農民に慕われ、敵将山県狂介(有朋)も「小倉藩に島村あり」と称賛。二崎の屋敷に隠棲し、44歳で亡くなった。


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成富兵庫の功績辿る 田中さんが新著(佐賀新聞2008-12-03)

新著『佐賀藩の初期を支えた男 成富兵庫茂安』を手に「成富は凄い男だと感じた」と語る田中耕作さん

佐賀市の郷土史家、田中耕作さんが新著『佐賀藩の初期を支えた男 成富兵庫茂安―戦場に、外交に、そして治水に―』を刊行した。佐賀の武将で、治水事業などでも後世に残る大きな功績を残した成富なりどみ兵庫茂安の功績を辿り、人物像を紹介している。

九州陶磁文化館長や武雄市教育長を務めた後、郷土史研究に専念している田中さん。「鍋島佐賀藩」シリーズで江戸時代の佐賀藩史を辿り、昨年出した『中野三代と鍋島宗茂』に続く7冊目の刊行となった。

基礎史料である『大蔵姓成富家譜』から成富の生涯を読み解き、様々なエピソードを紹介している。治水の功績については、江戸後期佐賀藩士南部長恒が調べ上げて編んだ『疏導要書』を、前山利雄・元県武雄土木事務所長が現代語訳して収録。『佐賀市史』をはじめとする『市史』『町史』から成富に関する記述も集め、成富研究のための基本となるべき情報を網羅した。

勇猛な武将として戦場を駆け巡り、対外関係では加藤清正らに高く評価された事や、石井樋いしいびなど佐賀での治水事業、佐賀藩が担った「大坂城普請」などでの活躍も挙げて、「強敵を破りその名を天下に現し、平時には山野海辺を巡見し新しく田畠を開き、藩の財を増やす」と書いている。

田中さんは「成富は今でいうマルチ人間。難局に対応する知恵が随所にあり、兎に角凄い男だと感じた。多くの人の協力でまとめたが、7冊の中でも一番難しかった」と話している。

佐賀新聞社刊、A5判、341ページ、本体1500円。県内主要書店で販売している。
※(関連)→「治水の神」成富兵庫の水利事業を学ぶ…佐賀で学習会(読売新聞2009-04-12)
※(関連)→学習会:成富兵庫の水利事業を再評価 世界遺産運動展開へ―佐賀で明日(毎日新聞2009-04-10)
※(関連)→水の力逆らわず生かす 佐賀テクノロジー考(朝日新聞2009-01-05)

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四季風(山口新聞2008-09-04)

明治維新といえば吉田松陰、高杉晋作ら長門部の志士が思い起こされる。勿論それに異論はないが、周防部には志半ばで非業の最期を遂げた志士が数多くいた。その郷党を見直す展示が柳井市ふれあいタウン大畠で開かれている。

それは周防大島町椋野出身の世良修蔵の生涯を辿る展示だ。庄屋の三男に生まれ勤皇僧月性清狂草堂で学んだ世良第二奇兵隊軍監として四境戦争大島口の戦いで幕府軍をけ散らし、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍陣地を突破して官軍勝利を決定付けた。

世良品川弥二郎に代わって奥羽鎮撫総督府参謀となったが、世良を待ち受けていたのは仙台藩士らによる暗殺だった。仙台藩の会津救済嘆願を無視し「奥羽を皆敵」とした世良の強硬姿勢のためとされるが、強硬姿勢は官軍側の大方針だった。

同郷の志士から「世良は火中の栗を拾わされた」という話も残っている。月性門下では世良のほか赤根武人大楽源太郎らも非業の死を遂げている。それは彼らが毛利直臣でなく陪臣だったためとされる。

奥羽では悪人扱いされた世良は儒学者安井息軒三計塾長を務め、和歌や横笛をたしなむ実直で学究肌の人だった。展示は15日まで開かれる。



※(関連)→大島出身の志士・世良修蔵 生涯辿る展示―柳井(山口新聞2008-08-31)
※(関連)→列藩同盟密談の史料も 七ヶ宿で戊辰戦争展(河北新報2008-05-21)

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