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秀吉の長男「秀勝」実在? 菩提寺の長浜・妙法寺に石囲み埋葬施設 初実子、供養塔と一体(京都新聞2003-12-04)

秀勝が埋葬されたと見られる石囲いの埋葬施設 羽柴秀勝と伝えられる肖像画の写真

豊臣秀吉長浜城主だった時に生まれた初の実子との伝承がある羽柴秀勝の菩提寺・妙法寺(滋賀県長浜市)から、石囲いの埋葬施設が見つかったと、3日、長浜市教委が発表した。実子の秀勝は文献にも殆んど登場せず、実在が疑問視されてきた。遺骨などは検出されなかったが、市教委は墓の年代、規模などから幻とされてきた秀勝が存在した可能性が強まった、としている。

妙法寺には、秀勝のものとされる天正4年(1576)年10月の銘入り供養塔があり、当時描かれたとされる肖像画(昭和27年=1952に焼失)の写真も残っている。

埋葬施設は供養塔傍の地中から見つかった。江戸中期に境内の整備をしたとの記録が同寺に残っており、その際に、墓と一体だった供養塔を現在地に移動させたと市教委は見ている。

埋葬施設は四方を計4枚の石(縦横約1m、幅約20p)で囲った空間で、広さは縦横0・5m、高さ0・8m。内部から鉄釘20数本が見つかったことから、木棺に遺体を座らせた状態で埋葬したとみられる。付近に小皿の破片もあった。

中世・近世遺跡に詳しい佐久間貴士・大阪樟蔭女子大学教授は「小皿や供養塔は安土桃山時代のものだ。(墓を)石囲いするのは身分の高い者にしか見られない。当時の長浜近辺で考えると、大名クラスの埋葬者の可能性があるのは秀勝しかない」としている。

秀吉は、北政所(おね)との間に子供はなく、伝承では、南殿と言われる女性との間に秀勝を含む2人が生まれた、という。秀勝は、天正4年(1576)10月、5歳で亡くなり、秀吉は妙法寺に菩提を弔うよう米30石を寄進したとの内容の朱印状が同寺に残されている。

現地説明会は6日午後1時半から。

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広島入城後も郡山城存続 広島女子大学・秋山教授調査 吉田で展示 毛利一族暫く往来か(中国新聞2003-11-25)

中国地方を治めた毛利輝元が天正19年(1591)に広島城へ移転後、廃城になったとされていた旧本拠地の郡山城(吉田町)が、その後、少なくとも3年間存続していたことが、中世史を研究する広島女子大学国際文化学部の秋山伸隆教授の調査で明らかになった。

秋山教授は、広島城で9月下旬〜10月下旬にあった「毛利輝元と二つの城」展の展示資料の中に、大阪城天守閣に保存されている毛利元就輝元の祖父)の四男穂田元清の書状を見つけた。縦約30p、横約50pの書状には「朝鮮(豊臣秀吉朝鮮出兵)から帰国した元清が、小早川隆景元就の三男)と一緒に吉田に出頭した」と記されていた。

宮島町の厳島神社の毛利氏関連の文献などから、元清が帰国した年は文禄3年(1594)と特定。輝元広島城に入城した3年後であることが分かった。

秋山教授は「広島城に移転後も、元清、隆景毛利氏一族や重臣が吉田に参会し、郡山城が維持されていたことが裏付けられた。広島城は暫くは未完成だったため、2城を行き来していたのではないか」とみる。

「二つの城」展は、吉田町歴史民俗資料館で30日まで開催中。元清の書状も展示されている。25日休館。

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天下統一のドラマ辿る 大阪城天守閣で特別展開催中、五大老にスポット(読売新聞2003-10-24)

毛利輝元が秀吉から拝領した「黄天鵞絨(ビロード)赤地緞子(どんす)切付桐紋陣羽織」 

豊臣秀吉の天下統一を軸に、徳川家康ら有力大名が繰り広げた歴史ドラマを辿る特別展「五大老―豊臣政権の運命を託された男たち」が、大阪城天守閣(大阪市中央区)の展示室で開かれている。

「五大老」秀吉が死の直前に始めた制度で、家康前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の各大名が、その役に就いた。特別展は、秀吉が権力を握っていた頃の五大老の役割などを振り返ろうと企画した。

古文書陣羽織など計139点を、時代ごとに展示。その中には、秀吉景勝宛てに送った国宝の「羽柴秀吉書状」もあり、秀吉への臣従を拒んでいた家康豊臣政権に組み込まれた経緯が示されている。

家康の臣従を報告する「羽柴秀吉書状」 前田利家が所有した「蒔絵朱鞘(ざや)大小拵(こしらえ)」

また、各大名の活躍を辿るコーナーでは、輝元秀吉から譲り受けたビロードの陣羽織や、利家が持っていた朱塗りに金蒔絵を施した刀の鞘など、贅沢なつくりの品々が並ぶ。

この他、利家の死によって五大老制度が崩壊し、関ヶ原の合戦へ雪崩れ込んだ歴史がわかる書状などもある。

11月16日まで。午前9時〜午後5時。費用は天守閣への入場料(高校生以上600円、中学生以下無料)のみ。問い合わせは大阪城天守閣へ。

― ◇ ◇ ◇ ―

→(参照)「五大老」展

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本願寺分立の経緯を示す、教如直筆の書状見つかる(読売新聞2003-10-09)

見つかった教如の書状。「猶々一昨日 内府様…」という追伸が、右上に書かれている

◇寺地寄進求め? 家康との仲介依頼

仏教史の“謎”とされる浄土真宗「東西本願寺分立」は、徳川家康の政権基盤を維持する目的という通説とは異なり、本願寺12世宗主で東本願寺を創建した教如が積極的に進めたことを示す約400年前の教如直筆の書状が見つかった。家康の家臣に宛てて家康との仲介を依頼しており、専門家は「独立を望んだ教如が、家康東本願寺の寺地の寄進を求めたとみられる。分立の経緯を明らかにする第一級史料」としている。書状は八尾市立歴史民俗資料館(大阪府八尾市)で11日から公開される。

関ヶ原の合戦から1週間後の慶長5年(1600)9月22日付で、戦功を挙げた徳川方の武将、金森長近に宛てた「なお、一昨日、内府様(=家康)にはご懇意にして頂いた。ついでの折には、宜しく取り次いでください」という内容で、金森家康との仲介を頼んでいる。

東本願寺などに伝わる文書では、その後も数度、教如家康が会ったとされるが、この書状の2年後の慶長7年(1602)2月、家康教如に京都・烏丸七条の寺地を寄進。東本願寺ができ、以後、東西ニ寺が並立することになった。

教如は11世宗主・顕如の長男。織田信長石山本願寺攻撃で、徹底抗戦を主張し、穏健路線の顕如と対立。顕如の死後の文禄元年(1592)に宗主を継いだが、豊臣秀吉によって1年で弟の准如に譲らされた。

東西分立については、家康が、強大な勢力をもっていた本願寺を二分する政略的意図だったというのが通説になっている。

同資料館は今春、大阪市内で軸装された書状を発見。真宗大谷派教学研究所などが教如の書と確認した。

草野顕之大谷大学教授は「東西分立について教如の意思を記した文書は現存しなかった。石山合戦以降、本願寺教団は事実上、2グループに分裂し、教如に独立を後押しする大きな勢力が門徒内にあったのではないか」と話している。

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秀吉の朝鮮出兵の激戦の様子が克明に!(中日新聞2003-09-06)

蔚山城の戦いを克明に記録している「軍陣配置図」

加賀藩前田家所縁の古文書などを収蔵する前田育徳会の尊経閣文庫所蔵の「軍陣配置図」豊臣秀吉第二次朝鮮出兵(=慶長の役)で最も熾烈な戦いとして知られる蔚山城攻防戦における明・李氏朝鮮日本の各軍の軍勢配置をスケッチで描くとともに、戦況状況を文章で記録していることが判明した。絵図に戦闘の経過が書かれた例は他になく、極めて貴重な史料と注目されている。配置図は縦横とも約70p。蔚山城(韓国・慶尚南道)で、秀吉の家臣・加藤清正浅野幸長らとともに、慶長2年(1597)12月22日から翌慶長3年(1598)1月4日まで、城を取り囲む明・朝鮮の攻撃を凌いだ様子が記されている。通常の絵図が合戦の一場面を描写しているのと異なり、戦局の流れを文章で図上に記しているのが特徴。「慶長三年正月三日の深夜二時頃、敵は突如として四方八方から城を包囲し、攻撃は四日の午前十時頃まで続いた」「高麗の軍勢は六万、明の援軍は四万、合わせて十万騎が海側に陣した」など軍陣配置と合わせて説明がなされている。明軍は撤退時に1万余の死体を残したとの記録が知られており、配置図の城の周囲に広がる無数の朱色の点は散乱する明軍の遺骸、朱色の大きな丸印は有力武将を討ち取った場所と考えられ、寒さと飢えの厳しい条件が重なった悲惨な戦いを裏付けている。配置図を読み解いた三鬼清一郎氏(名古屋大学名誉教授)は「明・朝鮮軍の進入路、退却路など細かな点が分かる」と評価。作成者は「清正の家臣がその後、前田家に召し抱えられ、江戸時代初期に描いた可能性が高い」とみている。朝鮮出兵に関する研究の第一人者である北島万次氏(共立女子大学教授)も「蔚山の攻防を最も詳しく記した『浅野家文書』で描かれた日々の経緯を、尊経閣文庫配置図に置くと、殆んど一致する」としている。

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一休さんの銅像完成 JR京田辺駅前で除幕式(京都新聞2003-05-23)

京田辺市内で5体目の建立となった一休像

京都府の京田辺で晩年を過ごした僧一休銅像の除幕式が23日、京田辺市田辺のJR京田辺駅前であり、関係者約50人が完成を祝った。

銅像は御影石製の台座を含め、高さ1・7m。掃除をする少年時代の姿で、アニメ「一休さん」をモチーフにしている。「一休の生き様を指針に、今の青少年に夢を持ってほしい」との願いを込め、一休酬恩会(田宮宏悦会長)が建立した。

市内での一休像の建立は、昭和59年(1984)に酬恩庵一休寺(京田辺市薪)に最初の像が設置されて以来、今回が5体目。

除幕式では、田辺宗一一休寺住職が読経を務め、田宮会長や久村哲京田辺市長らが像の前で次々と焼香した。

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天下統一で濁点“全国基準”に 伊達政宗、3つから2つに(京都新聞2003-01-20)

「独眼竜」で知られる戦国武将伊達政宗が、豊臣秀吉が文禄元年(1592)に天下を統一した翌年から、濁音を示す「濁点」の表記を3つから2つに変えていたことが、政宗の文書を研究している仙台市博物館の佐藤憲一館長らの調査で20日までの明らかになった。

佐藤館長が同時代の秀吉や徳川家康の手紙、朱印状を調べると、濁点がないか、2つ打たれた例しか見られなかった。佐藤館長は「秀吉の配下となった政宗が、濁点の打ち方を“全国基準”に合わせたのではないか」と推測、国語学者も「面白い発見」と関心を寄せている。

佐藤館長らは、3700点ほど現存する政宗の手紙などを研究し「伊達政宗文書」を編集している。調査の結果、政宗は文禄元年以前は3つの濁点を使っていたが、文禄2年(1593)に側近に宛てた手紙の中で「じぶんの」と書かれた部分には「じ」に3つの濁点が、「ぶ」に2つの濁点が打たれ、2種類の濁点が混在。“過渡期”を経て、文禄3年(1594)以降は2つに統一された。

小松秀雄筑波大名誉教授は「戦国時代、濁点を打つ場合は2つが多い。江戸時代でも3つの濁点を使い続けた人物はいるがごくまれで、1人の人物が濁点を3つから2つにしたという話は聞いたことがない。日本語の進化の大きな一歩がよく分かる」と指摘している。

※参考 → 市史編さんこぼれ話「伊達政宗の手紙にみる『三濁点』と『二濁点』」(『仙台市政だより』2003年1月号)

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物集女城と乙訓の国人一揆 物集女城跡(向日市物集女町)(京都新聞2002-03-31)

◇在地武士に独立の気風

京都市西京区からお得に地域に連なる向日丘陵の麓、竹薮の陰にひっそりと堀と土塁が残っている。中世の土豪・物集女(もずめ)氏の城館「物集女城跡」である。

周辺は今ものどかな田園風景が広がる。「西岡衆」と呼ばれた物集女氏も在地武士として普段は農耕生活を送っていた。

一帯の集落は桂川の水利用をめぐり団結が進んだ。室町時代、政界の覇権争いから戦禍と重税が降りかかると、西岡衆はたびたび結集して上京、債務破棄のための徳政令を幕府に要求した。決起の際は地元・向日神社に集まり、鐘を打ち鳴らして士気を高めたという。

文明17年(1485)、南山城で在地武士らが蜂起、他国の軍勢を排し、自治を確立した。有名な「山城国一揆」である。それに呼応するように西岡衆も文明19年(1487)、自分たちの土地から有力大名勢力を締め出す。南山城のような「自治」までは行かなかったが、独立の気運は強かったようだ。

だが天正3年(1575)に上洛した織田信長の軍隊にはさすがの西岡衆も歯が立たなかった。信長は一帯を家臣の細川藤孝の支配地とした。これを不服として挨拶に行かなかった物集女城城主・物集女忠重は、藤孝勝竜寺城(長岡京市)に呼び出され殺された。

以後、物集女城は廃され、他の西岡衆も歴史の舞台から消える。物集女氏らの末路は、混沌の中世に活躍した在地武士や地域に点在した共同体が、近世社会の新たな枠組みに呑み込まれていく姿を象徴していた。

天守閣もなく地味な中世の城館跡は、近年の開発でほとんど取り壊された。広がる田畑や丘陵を背景に、堀と土塁に囲まれて建つ中世武士の館。日本史の教科書に必ず登場するその姿が見られるのは、いまや近畿一円でも恐らくこの物集女城跡だけとなっている。


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元の「てつはう」出土 元寇史研究に 大きな扉開く―長崎(毎日新聞2001-10-25)

今年の鷹島沖海底発掘調査で出土した「てつはう」。元軍の最新兵器に鎌倉武士たちは肝をつぶしたという 四耳壺(しじこ)、短剣、船材などが散乱する海底。壺の手前にあるのが短剣、ほかは船材の一部 蒙古軍が使った炸裂弾式の「てつはう」(中央上部)が描かれている「蒙古襲来絵詞」

元寇(13世紀後半)の際の合戦模様を描いた絵として有名な「蒙古襲来絵詞」に登場し、当時の武士たちを驚かせたと言われる炸裂弾「てつはう」の実物が、長崎県鷹島町神崎港の海底から初めて出土した。見つかったのは、水深6〜9mの場所。直径14p、厚さ1・5pほどの陶器製の球が出土した。

博多湾岸を守る中世の武士たちを恐怖のどん底に突き落とした元軍の最先端兵器「てつはう」が、長崎県鷹島町沖で見つかった。当時の文献は「目がくらみ、耳もふさがり、東西の別も分からなくなった」と、心身を打ちのめされた衝撃と怯えを語り伝える。海底にはなお多くの遺物が眠るとみられ、元寇史研究に大きな扉を開こうとしている。

竹崎季長の奮戦ぶりを描いた「蒙古襲来絵詞」「てつはう」と表記されている武器は陶製の球に火薬や鉄片を詰めたもの。火をつけて投石機のようなもので投げ、空中で炸裂させる。武器としての威力はさほどないが、初めて接するその凄まじい音量に当時の日本の武士団はひるんだといわれる。

「てつはう」以外にも船材なども見つかり、暴風雨で大船団が壊滅したという史実を裏付ける証拠にもなりそうだ。

鷹島は文永の役(文永11年=1274)の際にこの島にいた松浦まつら党の人々が元軍に全滅させられ、続く弘安の役(弘安4年=1281)には高麗(朝鮮)から南下した東路軍と中国を出発した江南軍が合流。態勢を立て直して再度攻勢をかけようとした矢先に暴風雨で4400隻もの大船団が壊滅したとされる場所。

今回の発掘調査では、海底の砂泥の下に船の外板や、マストを入れるホゾ穴のあいた支え板などが大量に散乱しているのが見つかった。引き揚げた板材を放射性炭素法で年代測定したところ、ほぼ元寇の年代と一致。陶磁器類の製作年代も同じ結果を示し、弓の束などの武器類も大量に出土したことから、元の軍船という見方で一致した。

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「哀歌」を奏で、没後400年偲ぶ、加賀市大聖寺で山口玄蕃記念供養(北國新聞2000-08-07)

関ヶ原の戦いで自決した大聖寺城主山口玄蕃没後400年記念供養祭は6日、加賀市大聖寺新町で厳かに営まれた。節目の年に新しい首塚碑「玄蕃哀歌」が披露され、住民ら約150人が義を貫いた戦国武将を偲んだ。

首塚碑は大正13年(1924)以来、76年ぶりの更新となり、大幸甚市長や奉賛会の山本外美三会長らが除幕した。献花や献茶に続き、玄蕃の功績を後世に伝えるために今年作られた「玄蕃哀歌」が奏でられた。

記念事業として、400年記念誌などを納めたタイムカプセルの設置、野点のだて、玄蕃頭土像みこし引き回しが行われたほか、歩行者天国となった新町商店街には「げんば通り」と名付けた看板も設置された。

山口玄蕃豊臣秀吉に才を認められ、小早川秀秋筆頭家老として仕えた。関ヶ原の戦いの際、秀秋が西軍から東軍に寝返ったのに対し、玄蕃豊臣家の恩に応えて1200の兵を率いて大聖寺城に引き籠もり、徳川方に立った前田利長の2万5000人の大軍に応戦した。

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あれっ『大垣市史』では関ヶ原で戦死したはず… 当時の大垣城主・伊藤盛正 実は生存400年目の真実 加賀藩に仕官、厚遇される 地元月刊誌調査で判明(中日新聞2000-03-19)

大垣市が編纂した市史で、関ヶ原合戦に西軍として参戦し戦死したとされている当時の大垣城主伊藤彦兵衛盛正盛宗ともいう)が合戦後も生存し、旧加賀藩(現在の石川県)に仕官していた可能性が高いことが地元の月刊誌編集部の調べで分かった。合戦400周年で盛り上がる地元の郷土史家たちは、思わぬ歴史の再発掘に注目している。

現在の『大垣市史』の源流となっている昭和5年(1930)編纂の『大垣市史』によると、盛正は合戦前年の慶長4年(1599)年、父・長門守祐盛の後を継いで大垣城主となり3万4000石を治めた。翌5年(1600)8月、西軍総大将・石田三成の求めに応じ、城主の座を降り西軍の一武将に。東軍に寝返った武将小早川秀秋と小競り合いをした、と伝えている。

同市史は盛正の最期について「三成の軍に属し、笹尾山の陣に在り。戦敗れて死す」と記述。そして、流刑の身になったか、切腹を命じられた可能性があると補足している(同書200ページ目)。この記述は、盛正の親類筋とされる南濃町の伊藤家に伝えられてきた系譜によった。

金沢市に「盛正生存」の可能性を示す系譜があることを掴んだのは、大垣市の地域総合月刊誌『西美濃わが街』編集部。関ヶ原合戦400年ということから合戦資料を調べる中で掴んだ。今年1月、金沢市玉川図書館に問い合わせたところ、3日後に返ってきた答えは、生存を裏付ける内容だった。

玉川図書館や同編集部の調べによると、盛正伊藤図書頭利吉と改名し、合戦から20年後、加賀藩に仕官した。後に禄高2000石。利吉の「利」の文字を同藩前田家から授かり同家に厚遇された。加賀藩を頼ったのは、盛正の父祐盛前田利家織田信長の家臣時代、同じ馬迴衆だったことの縁による。盛正の正室も利家の養女を迎え入れている。

調べの中で、武家の人名辞典には盛正が合戦後も生き延びていたと記されており、一部の専門家の間では“定説”であることも分かった。ただ、盛正が合戦後、どうして加賀藩に仕官したかの経緯ははっきりしていなかった。

同編集部は「大垣市は、合戦後に大垣城主になった戸田家を顕彰する風土が強い土地柄。盛正についての検討は意外な程、されてこなかった。盛正が生存していた可能性は相当高い」としている。

市史に全幅の信頼を置いてきた郷土史家の戸惑いは大きいが、県史専門調査員の清水進さんは「初めて知った。市史の記述の真偽が問われることは歴史研究の世界ではままある。ただ、合戦から400年の節目にこうした可能性が指摘されたことは意義深い」と感慨深げだ。

― ◇ ◇ ◇ ―


→(参照)「大垣城主伊藤盛正はいきていた!?」(『西美濃わが街』第274号)
→(参照)古山まこと「大垣城主伊藤盛正、波瀾万丈の生涯 なぜ金沢へ逃げたのか?大垣城主・伊藤盛正の一生を探る」(『西美濃わが街』第279号)

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甲府城に天守閣あったの?…初めての発掘調査で存在明らかに(山梨日日新聞1998-04-26)

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「お城」というと、誰も思い浮かべるのが天守閣です。戦国武将織田信長安土城に初めて天守閣を造り、その後継者である豊臣秀吉が天下統一を進めながら全国各地に築きました。2人の天守閣には金箔瓦が使われました。煌びやかに輝く天守閣は見る人を驚かせ、権力の強さを演出するのにうってつけでした。

◇存在否定する史書

甲府城は、昭和60年代まで「天守閣はなかった」と云われてきました。江戸時代半ばの儒学者・荻生徂徠の紀行文に「昔からなかった」と記した文章があったからです。それに江戸時代前半の絵図にも天守閣はなく、天守台だけがぽつんと描かれていました。

平成2年(1990)から、傷みが激しくなり災害が起きた時の危険を避けるため、石垣の修復工事が始まり、初の発掘調査が県埋蔵文化財センターによって行われました。この調査で次々と新しい事実が明らかになりました。

甲府城武田家滅亡後、徳川家康によって築かれたと云われてきました。ところが調査が進むにつれ、金箔瓦が次々と見つかりました。家康が造った城には金箔瓦はあまり使われません。家康の次に甲斐の国を支配したのは豊臣家です。「甲府城豊臣の城だった」。「徳川の城」という通説が一気に崩れ去りました。

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◇巨大な鯱瓦を発見

平成8年(1996)には甲府城の最も高い場所にある本丸跡から巨大なしゃちが見つかりました。

それまでの調査でも鯱瓦はたくさん見つかっていたのですが、同年に発見された鯱瓦はこれまでの瓦の2倍もの大きさでした。天守閣をはじめ城の建造物は、一定の比率で造られるため、調査担当者が、他の豊臣の城や、これまで出土した鯱と比べたところ、巨大鯱瓦の高さは約1・5mにもなる事を突き止めました。

◇高さは37m

更に鯱瓦の大きさから、建物の高さは約37mにもなる事が考えられています。城内にあった建物を絵図などで調べてみると、最も高い施設で約15m。この高さを遥かに凌ぐ建物といえば天守閣しかありません。荻生徂徠が「天守閣はなかった」と否定説を唱えて以来、約290年ぶりに通説が覆りました。

天守閣を復元しようという運動が今持ち上がっています。しかし現段階ではどんな天守閣だったのか、どうして壊されてしまったのか、謎だらけです。国の文化財に指定されている城の場合、史実に基づいた復元でなければ絶対にダメ―というのが国の方針です。

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