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敦賀市立博物館で「石田三成と大谷吉継」展(朝日新聞2006-08-19)

「石田三成と大谷吉継」展

敦賀市立博物館(同市相生町)で、「盟友〜石田三成と大谷吉継〜」小企画展が、9月18日まで開かれている。ともに豊臣秀吉に仕えて関ヶ原の合戦では西軍で戦った戦国武将石田三成大谷吉継に所縁の文書や絵巻、像など38点を展示している。

2人に関する史料は多くは残っていないが、三成の出身地、長浜市の長浜城歴史博物館敦賀城主だった吉継に関わる文書などを残す敦賀市内の寺などから史料を集めた。三成が定めたを記した大沢神社(滋賀県木之本町)文書など初公開の史料もある。他に、関ヶ原御陣絵図石田三成像(複製)などが並ぶ。

9月17日午後2時からは、長浜城歴史博物館学芸員による講演会もある。入館料は大人200円、小中高校生50円。

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スコットランド女王メアリの肖像画が本物と判明=英の美術館(時事通信 2006-08-18)

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ロンドンの美術館、ナショナル・ポートレート・ギャラリーの倉庫で偽物として長い間眠っていた16世紀のスコットランド女王メアリ・ステュアート肖像画(写真)がこの程、生存中に描かれたと思われる貴重な本物と判明し、同ギャラリーで展示されている。

同ギャラリーは1916年に、この肖像画を50£(ポンド)(現在の価格で2950ユーロ=約44万円)で購入したが、偽物だったとしてほこりをかぶったまま放置されていた。

ところが最近、ギャラリーの専門家がX線技術などを使って再検査したところ、18世紀になって原画に上塗りされたものであることが判明した。さらに詳しい検査の結果、木部に「スコットランドのメアリ」を意味する文字が発見され、この木の分析から1560〜92年に切り倒されたものであることが分かった。

同専門家は、原画はメアリが生存中かもしくは死後ほどなく描かれたものだろうと推定している。現存しているメアリの肖像画で生前に描かれたものは珍しいという。

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五山送り火の秘密 鎮魂の万灯籠、由来か(朝日新聞2006-07-18)

山肌を焦がす大の字。昨年は約12万人の見物客で賑わった(昨年の様子)20060718a6.jpg


8月16日に京都で開かれる五山送り火は、祗園祭とともに夏の風物詩となっている。毎年、10万人以上が訪れ、鴨川沿いなど、よく見える場所は見物客でごった返す。起源はよくわからないが、元々地元の人々が静かに営む盆行事だった。今も山の傍では、静かに手を合わせるお年寄りの姿が見られる。

8月16日午後8時。初めに東山如意ヶ嶽の大文字が点火され、続いて妙法船形左大文字鳥居形が次々と山肌に浮かび上がる。昨年は約12万人、一昨年は約14万人が見物に訪れた。

それぞれの山に保存会があり、そのメンバーが送り火を点ける作業を担当している。大文字保存会の場合、会員は地元の49軒。サラリーマンや自営業者だ。年齢は50代半ばが中心。8月16日は午後4時頃、自宅を出発して山に登り、午後6時頃から点火の準備を整える。雨が降ったら、護摩木が濡れないよう、ビニールで覆わねばならない。

炎は高い所で数メートルにもなる。

「夏に火の傍にいるわけだから、暑くてたまらない。風向きによって、逃げないといけない程」と同会の藤田征平理事長。火が消えるのを待って、午後10時頃、山を下りる。

大文字の場合、8月15、16日に銀閣寺の門前で名前や願い事を書いて燃やす護摩木と松割木の志納を受け付ける。護摩木と松割木は合わせて約1万2000本。地元の松10数本を使う。半年かけて住民総出で集める。だが松食い虫の被害で、良い松が少なくなってきた。「地元の松だけでは足りなくなるかもしれない」と藤田理事長。

心強い味方も現れた。大学生のボランティアだ。多い時は約20人が集まり、山に登り、木を運ぶなど、力仕事を引き受ける。

五山送り火の由来には諸説ある。京都市文化財保護課によると、如意ヶ嶽の大文字については、(1)平安初期、空海が始めた(2)室町中期、足利義政が始めた(3)江戸初期、公家の近衛信尹が始めたという説がある。但し、何れも決め手に欠け、本当のことはわからない。以前は「い」「一」「竹の先に鈴」なども、送り火として点火された。だが、過疎化などで、行われなくなったという。

植木行宣・元京都学園大学教授は著書『山・鉾・屋台の祭り』(白水社)で、送り火の由来について触れている。「妙」の点火される山が万灯籠山、船形の火が船形万灯籠と呼ばれるように、五山送り火は万灯籠が大規模化したものと考えられるという。

慶長8年(1603)に記された公家の船橋秀賢の日記『慶長日件録』には、「晩に及び冷泉亭へ行く、山々火を焼く」という一文がある。送り火を指すようだが、山で火を点す万灯は15世紀からあった。文安6年・宝徳元年(1449)に書かれた東寺の議事録『東寺廿一口供僧方評定引付』には「万灯見物」という言葉がある。また、神道家吉田兼見は天正8年(15809、「今夜、四方山々の万灯籠を見物す」と記している。

「万灯籠について書いた文は、応仁・文明の乱の後から多く見られる。当時の京都は荒廃し、恨みを残す死に満ちていた。恐るべき霊魂を鎮めるため、個人ではなく、地域の力が必要だった」と植木さんは話す。

歴史のある五山送り火だが、戦時中、灯火管制や薪不足で点火できなかったことがある。昭和18年(1943)と翌19年(1944)、代わりに白いシャツを着た児童らが山に登り、人文字で「大」を書いた。この「白い大文字」が平成6年(1994)、映画制作のため再現され、話題になった。公募で集まった約1200人が山に登り、人文字を作った。

京都市左京区の土井幾子さんもその1人だ。小学生の頃に白い大文字を体験。平成6年(19949にも参加した。「子どもの頃、五山送り火の日は外に出て、明々と燃える大文字を見ました。みんな手を合わせていたのが、記憶に残っています」

送り火の消し炭は家庭の厄除けに使われる。これを求めて山に登る人も後を絶たない。土井さんも毎年、炭になった大文字の護摩木を貰い、「家内安全」と書いて友人に贈る。夏の送り火を見るたびに、平和の有り難さを思う。

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初代は大坂城生まれ有力 尾張徳川家、家康の書状(京都新聞2006-07-14)

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徳川美術館(名古屋市東区)は14日、徳川家康が大坂から江戸城の侍女に宛てたとみられる仮名書きの自筆書状を報道陣に公開した。

関ヶ原の合戦(慶長5年=1600=9月15日)の後、阿茶局於亀の方ら側室6人を江戸から大坂城に呼び寄せたとみられる内容。

於亀御三家の1つ、尾張徳川家の初代義直の母に当たり、同美術館は「義直の出生地には諸説あったが、大坂城西の丸とする強力な決め手となる」としている。

書状は同美術館の学芸員が発見し、京都市の古書店から購入。「於亀は出産間近です。6人の側室はまず(江戸から当地・上方大坂か伏見に)上って来ます」と書かれていた。月日は記されていないが、関ヶ原の合戦以降で、義直が生まれた11月28日より前と推定できるという。家康は当時、大坂城の西の丸に滞在していた。

書状は江戸時代には掛け軸の表具に使われていた。家康の書状は3000〜3500通が現存し、うち自筆の仮名書きの書状は20数通と少なく、極めて貴重という。

山本泰一副館長は「当時、政治の中心だった大坂に主な側室を呼び寄せることで、『天下人』になったとアピールする狙いがあったようだ」と話した。文末には「かめ心ちあしく候ハ丶、むやうにて候(=もし、於亀が体調不良の場合は、無理をせず取りやめるように)」とあり、家康の人柄が偲ばれるという。

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蒲郡で池田輝政の刻印入りの石発見(東海日日新聞2006-07-09)

池田家の刻印が入った庭石(2つの穴は切り出しのための矢穴)

戦国武将で後に播磨国(兵庫県)の姫路52万石の大名になった池田輝政のものとみられる刻印が入った石が、蒲郡市西浦町の八王子神社で地元の郷土史を調べている市職員によって発見された。豊臣秀吉の家臣だった頃の池田輝政吉田城主にもなっている。

壁谷善吉さん=西浦町稲生=は5月初め、近くの同神社を散歩していて社務所前の庭石の中に刻印のあるものを発見。これまでに西浦温泉下の海岸で同じ戦国武将の福島正則の刻印を発見していた壁谷さんは、事情に詳しい元石職人の吉見数雄さん=同町南知柄=に相談。数q先の同海岸から運ばれた石との確認を得た。

一抱え程の石は庭から家に入るときに履物を脱ぐために置かれたもので、戦後に社務所を新築した際に設置されたという。吉見さんによると、良質な石に恵まれていた西浦半島一帯は最近まで、建設資材としての石の一大供給地だったという。

今回発見した、部首の「口(くにがまえ)」に斜線が入った刻印は升を表し、完全には特定できないが池田家のものにほぼ間違いないという。

同市の西浦半島や中心地の竹島海岸、隣接する幡豆町、吉良町の海岸一帯は石材の産地として知られ、名古屋城築城の際に徳川家の歓心を買うため、池田輝政福島正則のほか加藤清正毛利輝元ら外様大名も競って石を求めたという。

これらの大名の所有を示す刻印が入った石は、切り出す予定のものが何かの理由で残されたと考えられ、8年程前に竹島海岸で見つかって以来、相次いでいる。

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逆修の碑(精華町) 自治への熱い思いこもる(新山城百景23)(京都新聞2006-06-28)

逆修の碑(精華町)

精華町北稲八間(いなやづま)の共同墓地に佇む石を重ねた計14基の五輪の塔=写真。地元では「逆修(げきしゅう)の碑」と呼ばれる。

逆修は『広辞苑』によると「ぎゃくしゅ」と読み、「生前に自身の死後の冥福を祈ること」などとある。碑は同町内にあったとされる「山城国一揆」最後の城、稲屋妻(いなやづま)城に立て籠もった国人(こくじん)(土着の武士)たちが自らの死を覚悟し、建てた碑だという。

文明17年(1485)、現在の山城大橋北側で、畠山政長軍と畠山義就軍が対峙した際、国人が協力し、無血で両軍を撤退させた。以後9年間、国人らは山城国に進攻した室町幕府方の軍勢に敗れるまで、幕府の支配を排除した自治を貫いた。

墓地にひっそり並び立つ逆修の碑。当時の人々の自治への熱い思いがこもる碑だ。

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来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

山本勘助の存在を証明する『市河文書』を手にする板井さん

武田信玄軍師とされ、来年のNHK大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の存在を証明する『市河文書』が来年4月以降、大阪など全国3か所で公開される。この文書は釧路市内の会社社長が30年近く保管していた。

『市河文書』は信濃国(長野県)の豪族だった市河家に伝わったもので山形県の本間美術館のほか、釧路市の板井進さんが19点を所有する。

この中で注目されるのが、武田氏上杉謙信と5回にわたる川中島の戦いを繰り広げていた最中の
弘治3年(1557)のものとみられる書状だ。「市河藤若殿」宛てのその書状には「山本菅助口上候」という件りがある。一部の学者からは「勘助は実在しないのでは」と言われていたが、筆跡などから、この書状が存在を証明する資料となったという。

書状はNHKの関連会社が大河ドラマに関係する資料を展示するため貸し出しを要請した。展示のため、文書の確認に訪れた徳島市立徳島城博物館の須藤茂樹学芸員は「武家文書としては白眉」と話す。

今回の書状は昭和44年(1969)に釧路で市河家の子孫の家で発見。その後、板井さんが譲り受けた。武田信玄(当時は晴信)の花押がある書状を手に板井さんは「手に入れた後は外に出していないので、一般公開は初めてでは」と話している。

※(参考)→『市河文書』(北海道釧路市の公式サイト「文化財マップ」より)




※(参照)→「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)

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幻の馬堀城よみがえる 亀岡高生が模型づくり 街道や集落も再現(京都新聞2006-02-15)

室町時代後期に亀岡市篠町にあったと伝わる「馬堀城」の復元模型作りに、亀岡高(横町)日本文化コースの生徒たちが取り組んでいる。生徒たちは「現存資料が少なく『幻の城』とされる馬堀城の実態を明らかに出来れば」と張り切っている。

模型作りをしているのは同校3年の藤田由依さん、山田梨紗子さん、須山裕希さん。3人は昨年11月から、地元の古老からの聞き取りや明治初期の地籍図の調査を重ね、山城の存在を窺わせる地名を探していった。その結果、城の入り口と思われる「木戸口」や城下町によく見られる「風呂谷」という地名を確認し、家屋や堀の水路の配置を推測したほか、実際に現地を歩きながら、当時の等高線を推定した。

近く完成予定の模型は縦170p、横130p。現在のJR馬堀駅南側にある小高い丘を堀で囲み、村民が協働して集落を守る「環濠集落」の形態の馬堀城を作った。また、集落内に、当時の山陰街道を取り込み、交通の要衝であったかつての馬堀の集落を再現させた。

3月の卒業式で卒業生たちに披露され、その後は市文化資料館(古世町)に展示・保管される予定。3人は「多くの人に見てもらって、地域の歴史を見直すきっかけになれば」と話している。

亀岡高校 日本文化講座(コース)レポート集「久遠の知」

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天正遣欧使節 伊東マンショ 和装の肖像画 ローマ、教皇子孫宅で発見 安土町の訪問団 本人前に描写か(京都新聞2005-11-29)

天正遣欧使節の1人として天正13年(1585)、当時のローマ教皇グレゴリオ13世に謁見を果たした伊東マンショの、和服姿の肖像画がローマ市内で見つかった。リアルな表情から本人を目の前にして描かれた可能性が極めて高い。専門家は「美術史の上からも非常に興味深い」と注目している。

肖像画は色鉛筆で描かれ、縦25p、横15p程の大きさ。グレゴリオ13世の直系子孫、プリンス・パオロ・F・ボンコンパーニ氏が自宅に所蔵していた。

遣欧使節が教皇に献上した織田信長所縁の屏風絵「安土城之図」探索に、イタリアを訪れた滋賀県安土町の津村孝司町長らが今月24日、同氏を訪ね「こんな絵があった」と示された。

絵の下部に「1585年、豊後から教皇に遣わされたドン・マンショ」とイタリア語で記入がある。使節の通訳を務めたイエズス会、ディオゴ・メスキータ神父の肖像画も同時に見つかった。

ボンコンパーニ氏によると、2枚とも数年前に同家図書館所蔵の本(1574年刊行)のページに挟んであるのに気付いたと言う。

肖像画のマンショは西洋風の襟飾りを付け、少年らしい澄んだ目で作者の方を向いている。遣欧使節4人の肖像画はミラノの図書館所蔵のものなどが知られているが、複製が多く表情が乏しいうえに、殆んど洋服姿。和服姿はこれが初めてとみられる。

津村町長は「歴史的価値の高い絵で、これだけでも今回訪問したかいがある」と話している。

◇画家が描いたのか―『クアトロ・ラガッツィ−天正少年使節と世界帝国』(集英社)などの著書があるイタリア美術史家、若桑みどりさん

現物を見ないと制作年代は判断できないが、16世紀末のリアリズムで表現されている。プロの画家がモデルを見て描いたのだろう。和服姿は珍しく驚いた。

※ローマで見つかった伊東マンショの和服姿の肖像画
※メスキータ神父の肖像画

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蒲生氏郷の生涯 安土城考古博物館秋季特別展(滋賀報知新聞2005-10-24)

氏郷の実像に迫る特別展

◇生誕450年を記念して実像探る=会期中に博物館講座や記念講演会=

県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)では秋季特別展「蒲生氏郷―戦国を駆け抜けた武将―」が開かれている。11月6日まで。

湖国から出た戦国武将の中でも、出世株の筆頭として挙げられる蒲生氏郷。その氏郷の生誕450年を記念して、その生涯と、近江の蒲生一族の活躍を紹介する。

信長、秀吉の下で天下統一に夢をかけ、近江日野6万石を皮切りに、伊勢松坂12万石、最後には会津若松92万石の大名にまで上り詰めた氏郷は、その先見的な軍事・政治能力もさることながら、茶道や連歌などの文芸的才能、キリスト教信者としての生き方など、注目すべき点が多い。

特別展は、プロローグ「戦国を駆け抜けた武将」、第1章「蒲生郡の蒲生一族」、第2章「信長の元で 近江日野六万石」、第3章「伊勢松坂十二万石」、第4章「会津若松九十二万石」、第5章「氏郷のひととなり」の6つのテーマを設定し、文書や記録、遺品、遺物や絵図などを通して、また、“蒲生氏郷だったのは2年足らず”や“氏郷の先祖は百足退治の達人”など、子どもたちにも興味を持ってもらえるようなエピソードを紹介した解説メモ「ちょっと変わった見方」も活用してもらい、氏郷の実像を探る。

展示品全83件の中には、「蒲生氏郷画像」(西光寺蔵)や蒲生一族の御家騒動の際の出兵記録「日野御陣用米下行帳」(国立公文書館蔵)など国指定重要文化財4点をはじめ、「伝氏郷所用燕尾形兜」(岩手県立博物館蔵)など府県指定文化財3点、「蒲生氏郷茶日記」(個人蔵)など市町村指定文化財2点、貴重な資料が公開されている。

同館は月曜日と休日の翌日休館。入館は午前9時から午後4時半まで。入館料大人860円、高校・大学生610円、小・中学生400円。問い合わせは同館へ。

期間中、博物館講座と記念講演会が次の日程で開催される。いずれも会場は2階セミナールーム、時間は午後1時半から、定員は当日先着140人、受講無料。

◇博物館講座

10月23日「蒲生氏郷文書を読む―古文書購読―」(高木叙子学芸課主任)

 蒲生氏郷伊達政宗の起請文から、東北での氏郷の活動や政宗との確執をみる。

10月30日「文書に見る蒲生氏郷―日野・松坂・会津―」(高橋充福島県立博物館主任学芸員)

 古文書を手掛かりに氏郷の生涯を探る。

◇記念講演会

11月3日「豊臣政権と蒲生氏郷」(藤田達生三重大学教授)

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府内病院の復元模型完成 県立歴史博物館(大分合同新聞2005-10-14)

完成した模型。写真中央の2棟が府内病院の病棟

宇佐市の県立歴史博物館は、日本で初めて西洋式医療が行われたとされる「府内病院」(現大分市顕徳町)の復元模型(1/100)を完成させた。14日に始まる同館の特別展「おおいた蘭学事始」で展示する。

同館によると、府内病院は弘治3年(1557)、大友氏「大友館」の西側、イエズス会「府内教会」敷地内に日本建築物を転用して完成。医師で貿易商として府内に来ていた、ポルトガル人のルイス・ド・アルメイダを中心に外科や内科、皮膚科などの治療が行われ、日本人医師も育った。

模型は奥行き1m、横90pの大きさで、府内教会の敷地内を再現した。病棟2棟のほか、アルメイダが幼児養育のために設けた「育児院」などが置かれている。

同館が「大分の誇るべき医学の歴史を広く知ってほしい」と企画し、府内病院の変遷について論文を発表した五野井隆史東京大学名誉教授の監修を受けて作った。

担当した同館の平井義人主幹学芸員は「府内病院大友氏の衰退とともに、事業をやめざるを得なくなった。しかし、江戸時代三浦梅園帆足万里に続くように、西洋文化を先取りする郷土気質の下地になった―という歴史価値もある」と話した。

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“花火大会”臼杵が発祥? 天正10年 宗麟ら教会で見物(大分合同新聞2005-08-02)

臼杵は花火見物発祥の地?―16世紀の書物に、大友宗麟らが臼杵で花火を見る場面が記されている。

書物はイエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが著述した『日本史』。国王フランシスコ(宗麟)が臼杵の教会で天正10年(1582)に祭儀を催した際の様子を記した部分に花火が登場する。

「数々の手のこんだ仕掛け花火が展開されたが、それらは空中でじつにさまざまな形となったので、皆の目を奪い、それを見ようとして立ち止まらないものはなかった」と書かれている。

これまで国内最初の花火として定説となっている伊達政宗説(天正17年=1589)、あるいは徳川家康説(慶長18年=1613)よりも年代的に古い。また、両方とも藩主ら限られた人間しか見ることができなかったと考えられるが、臼杵での花火は、一般も見物した国内最初の“花火大会”だった可能性もある。

臼杵市教委の菊田徹教育次長は「国内の史料で(臼杵の教会での花火が)裏付けできれば、フロイスの記述が価値を増してくるだろう」と話している。

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大聖寺の南朝武将 時能眠る地 住民ら整備 手入れ3年 標柱を設置 “歴史の記憶、心に”(中日新聞2005-04-20)

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加賀市大聖寺畑町で、南北朝時代に南朝側の武将として活躍した畑時能はたときよし所縁の史跡を守る活動が、地元住民によって進められている。17日には新たに設置した標柱の除幕式もあり、住民らは「少しずつ手入れし、貴重な歴史の記憶を心に留めておきたい」と意気込んでいる。

時能分倍河原ぶばいがわらの合戦で知られる武将新田義貞に従った人物。北陸地方で南朝勢力が時能だけとなってからも、越前で戦死するまで北朝足利勢力を相手に最後まで奮闘したと伝えられている。同町には墓跡とされる五輪塔が残され、時能を祀る畑八幡神社が建つ。

大聖寺畑町は20戸余りの小さな集落。住民による史跡の整備が始まったのは3年前からで、神社の裏山中腹にある墓跡までの参道を約3か月かけて造った。それ以後も、史跡を案内する立て看板の設置や周辺の清掃活動などに取り組んできた。

新たに建てた標柱は高さ約2・5mで、史跡を訪れる人の目印として作られた。神社の拝殿を保護するために伐採した欅の大木の枝を使い、住民の手で標柱に仕上げたという。

同町の本家英吉区長は「地域に眠っている歴史を見直しながら、まちづくりのために活動をいつまでも続けていきたい」と話している。

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一豊は「かずとよ」?「かつとよ」? NHKと民放“空中戦”(高知新聞2005-04-16)

一豊の読み方は「かずとよ」? それとも「かつとよ」? 県が購入した国宝「高野切こうやぎれ本」やNHKが放映予定の大河ドラマ「功名が辻」などに関連して最近、頻繁に耳にする土佐藩初代藩主、山内一豊の名前。ところがその読み方が2つに分かれている。口承や資料、文学作品のルビなどがまちまちなことが原因で、テレビ界ではNHKと高知の地元3局が読み方を巡って電波の中で“空中戦”。県民、視聴者は、さて、どっち?

一豊については古くから専門家の間でも定まった読み方がなく、「かずとよ」「かつとよ」が混在してきた。ただ、全国的には「かず」が一般的らしく、県立図書館によると、同館所蔵の事典類13冊のうち「かず」が9冊、「かつ」1冊、ルビなしが3冊。

土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長の話では、「かずとよ」説の根拠の1つは江戸中期の『寛政重修諸家譜』。徳川幕府が各藩に提出させた資料を基に編纂したもので、これに「かずとよ」のルビが付いている。

一方、「かつとよ」の主な根拠は山内家の口承で、「『一』は音が『勝』に通じ、戦国武将の間では『かつ』と読むケースが見られたという理由から『かつとよ』と言い習わしている」と同館長。

そこで気になるのが県民に大きな影響を与えるテレビ各局の対応―。

渡部館長によると、ドラマ化決定後、NHK側から呼称についての相談があり、「山内家『かつとよ』と呼んでいることなどもお伝えした。NHK内部でもどうするか悩んでいたようです」と言う。結局、NHKは「かずとよ」で通すことに。NHKの番組広報部は「司馬遼太郎氏の『功名が辻』原作には『かずとよ』のルビが振られている。原作を忠実に再現したい」と話す。

NHKでは地元の高知放送局でもこれまで両方の読み方が混在していたようだが、ドラマ化を機に全国の地方局が「かず」で統一したという。

一方、地元組のうちRKC高知放送は、今年に入って同資料館ともやりとりした上で呼称を再検討。「山内家での呼び方が『かつとよ』となっていることなどを参考に」(小笠原一清専務)し、アナウンサーによってまちまちだった読み方を「かつ」に統一した。

またテレビ高知は山内家18代当主、故・豊秋氏が同社役員を務めていた縁もあり、「うちは(昭和45年=1970=の)開局当初から『かつとよ』『かつとよ』の方が歴史的根拠に基づいているでしょう」(池知学・報道技術センター付局長)。

高知さんさんテレビは「以前は『かつ』『かず』が混在していたが、高知城築城400年(平成13年)の前年に局内で検討し、『かつとよ』に決めた」(鍋島康夫報道制作局長)という。

もっとも民放各局の場合、実際の放送原稿では今後も「つ」「ず」が混在しそう。というのも例えば4月末から開かれる「土佐時代絵巻―一豊公千代様まつり」について、主催する高知市などの見解は「一豊『かずとよ』と読みます」。

このため、民放各局は「一本のニュース原稿の中でもイベントの固有名詞は『かずとよ』と読み、イベント名以外の部分は『かつとよ』と読む」と口を揃える。

この問題、県立図書館によると「最近の書籍類は『かず』が少なく『かつ』が多い」とか。渡部館長は、「山内家の現当主(19代・豊功氏)は(本来は『かつ』だが、テレビドラマが『かず』と呼ぶことに)『目くじら立てなくても…』という考え」とも明かす。

とにもかくにも、大河ドラマが火付け役となって噴き出した“読み方論争”。歴史上の偉人だけに、これを機会に統一してみるのも一計かも。

因みに高知新聞社刊の『高知県人名事典』は「かつ」にしています。

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銀箔の痕跡科学的に分析へ 左京 国宝・銀閣の修復時に(京都新聞2005-03-17)

銀箔の使用の有無について初の調査が検討されている銀閣

京都市左京区の慈照寺の国宝・観音殿(銀閣)の外壁に実際に銀箔が張られていたかを科学的に調査する計画があることが17日、分かった。同寺は平成18年度(2006・4〜)にも観音堂(銀閣)の修理と調査をしたい意向で、実現に向けて今後、文化庁などと協議を行うという。

銀閣、正式には「観音殿」は、室町幕府8代将軍足利義政により長享3年(1489)に完成した。こけら葺き二層の建物で、造営当時のまま現存する。

外壁などに銀箔が張られた痕跡はこれまで確認されておらず、銀閣という名称が使われ始めたのも江戸時代以降という。しかし、3代将軍義満が建てた金閣にならって、「壁面の漆塗りの上から銀箔を張ったとの説もある」(同寺)という。

同寺では、今年中にも本堂の修復を行った後、老朽化が激しくなった銀閣についても、平成18年度(2006・4〜)以降に、大正3年(1914)以来となる大規模な修復を計画。屋根の葺き替えのほか、外壁などを科学的に調査して銀箔の痕跡がないか分析する。

中世の日本建築に詳しい川上貢・京都大学名誉教授は「金閣の派手さに対して、地味な印象から銀閣と呼ばれるようになったというのが通説だが、科学的調査ではっきりさせるのは興味深い」と話している。

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南朝最後の兄弟宮偲び―福源寺で「朝拝式」(奈良新聞2005-02-06)

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約550年前の長禄元年(1457)、現在の川上村の三之公御所で、北朝方に襲われて殺害された南朝最後の直系自天王(尊秀王たかひでおうとその後病没した弟宮・忠義王ただよしおうの兄弟を、忠誠を尽くした郷士の子孫が偲ぶ「朝拝式」が5日、同村高原の福源寺であった。長禄2年(1458)から続くという。

兄弟宮が亡くなり、後醍醐天皇以来の南朝の歴史は潰えた。三之公御所襲撃を知り、自天王おん首と神器を奪い返して祀った郷士の家系が今も「筋目」と呼ばれ伝わる。

福源寺朝拝式には東川や高原、白屋など9つの大字から筋目が参集。菊の紋を染め抜いた裃を付けた「出仕人」が口に榊の葉を含み、厳粛な儀式に臨んだ。

高原区内にある忠義王の墓・南帝王陵に向かって境内から遥拝した後、自天王遺品の兜(重文)に拝礼する朝見の儀に臨んだ。宝蔵殿の扉が開かれると鈍い金色に輝く兜が現れ、七保筋目総代長の梶川熊太郎さんが由来書を読み上げて、約550年前に起きた出来事を語り継いだ。

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出石の宝後世に/有子山城跡(朝日新聞2004-08-30)

有子山城の石垣を造るため、岩に楔を入れた「矢穴」が残る岩

山名氏から羽柴秀長へと城主が変わり、但馬支配の拠点でもあった国の史跡・有子山ありこやま城跡(出石町内町)を見直す見学会を山名氏城跡保存会が29日、開いた。出石城築城400年記念協賛事業で約25人が参加、未整備の山中を歩きながら岩盤まで砕いた巨大な竪堀跡や曲輪、石垣などを見て回り、改めて保存、整備の必要性を確認した。

案内役は八鹿高校社会科教諭の西尾孝昌さん。史跡になる前から同山城を調査してきており「調査に入るたびに新たな発見がある。とてつもない竪堀が次々に見つかり、総数は40本近いのではないか」と話す。

2時間近くかけて標高321mの山頂にある千畳敷や主郭(本丸)を案内しながら、「一帯の木が伐採されすぎていて、草が生い茂ってきている。遺跡を痛めかねない」などと指摘。高さ約10数mに及ぶ竪堀や西尾さんが発見した石垣用の石取り場に至ると、「こうした労働は農民が担ったのでしょうね」と思いをはせる参加者も。「実際に現場で見て、肌で感じると大事なもの、後世に残したいものが見えてきます」と西尾さんは話した。

地元、出石町宮内から参加した女性は出石の生まれ育ちながら有子山城跡登山は初めて。「昔から一度、千畳敷を見たかった。見晴らしの良さに感動した」。同町本町の女性は「この山城は私たちの誇り。もっと整備してほしい。保存すれば、語り継いでいくものがあります」と話していた。

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珍しい洛中洛外図を寄贈 尼崎市民から(京都新聞2004-07-13)


寄贈された洛中洛外図の珍しい屏風。上は京都を西から見た景観を描いたもの。下は東から

兵庫県尼崎市教育委員会は13日、江戸時代前期の制作と推定される洛中洛外図の珍しい屏風を市民から寄贈されたと発表した。京都の景観を西からと、東から見た一双で、それぞれ縦約172p、横約375p。作者は不詳で、町絵師が描いたと推測される。

豊臣秀吉後陽成天皇聚楽第じゅらくていに迎える様子が描かれているとみられ、この様子を描いた一双の洛中洛外図はほかに確認されていないという。

京都工芸繊維大学の並木誠士教授は「洛中洛外図の多くが定型化されて描かれている中で、敢えて豊臣氏所縁のものを中心に描いている点がユニークだ」と話している。

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歴史と文化の礎、現代へ 宇治市・槇島城顕彰会 地元住民らで立ち上げ(洛南タイムス2004-03-13)

◇今月27日発足総会 槇島公園内に新設、広報紙も発行

室町幕府終焉の地でもあった槇島まきしま。今では宇治市槇島町として地名にも残っているが、豊臣秀吉による伏見城築城の際に宇治川が付け替え工事のために石垣も「槇島堤」に利用され、城跡も残っていない。旧JA槇島支店近くに記念碑があるだけとなっていたが、地元住民たちが中心となって槇島城顕彰会準備委員会を立ち上げ、今月27日午後3時から槇島小学校南隣りの槇島地域福祉センター地域交流ホールで顕彰会発足総会を開くことになった。

歴史の中でも重要な位置にある槇島城(城主・真木島昭光)だが、残念なことに正確な城があった場所は確定していないという。室町幕府最後の将軍、足利義昭織田信長と対立して幕府を移し、3700の兵と立て籠もったが落城し、敗れて京田辺市の普賢寺に逃れたとされている。周囲を池に囲まれた戦略的拠点・水城だったが、その後、秀吉に接収され、宇治川流域改修によって廃城とされ、地上から姿を消した経過があるようだ。

槇島に生まれ育った人々にとって幻となったとはいえ槇島城は地域の文化、歴史を語る上でも誇り。一昨年秋に槇島句会が主催した洛南探勝会吟行の際に折角の槇島城を偲ばせる記念碑も時代の移り変わりもあってあまり目立たない場所に建立していることが話題になった。改善要望が槇島東地区連合町内会に寄せられたことがきっかけになり、連合町内会も早速宇治市へ改善を要望。宇治市歴史資料館と1年にわたって検討・協議を重ねてきた。

地元住民たちの憩いと交流の場になっている槇島公園内に新しく「槇島城記念碑ゾーン」を設置することが決まった他、槇島城と地域の歴史や文化、自然を考える機会に「槇島城顕彰会」も起ち上げ、記念事業もスタート。広報『槇島城通信』も発行したい意向。

待望の顕彰会発足総会では宇治市歴史資料館担当者の報告、槇島城、宇治上神社創建年代についての記念講演も予定している。


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毛利輝元銅像を建立へ 萩開府400年記念 萩城跡に11月10日除幕(西日本新聞2004-01-04)

毛利輝元公銅像建立実行委員会は、萩市堀内の国指定史跡・萩城跡に輝元の銅像を建立し、11月10日に除幕式を行うことを決めた。関ヶ原の戦い(慶長5年=1600)に敗れた輝元が、防長2か国に減封され、萩に開府して今年11月で400年になるのを記念した事業の1つ。除幕日は城跡近くにオープンする「萩博物館」の開館前日となる。

設置場所は、指月駐車場から城内に向かう萩藩時代に二の丸南門があった石垣付近。制作は、「親鸞聖人童形像」(京都市西本願寺)や「桂小五郎像」(同市長州藩邸跡)などの作品で知られる、日展評議員の彫刻家江里敏明氏(京都市在住)が当たる。

江里氏は、防府毛利報公会(防府市)所蔵の「毛利輝元肖像」をモデルに、このほど1/4の雛型を作り、今は実際に建立する像を制作中。銅像は縦横各130cmで、台座と合わせると高さ3mになるという。

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