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2基の供養塔を発見・再建立(サンデー山口2007-04-29)

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19日から2日間、大内御堀の問田川河畔にある小早川隆景夫人の館跡と云われのある場所で、隆景公夫人のものと思われる供養塔が掘り起こされ、再建立と周辺整備が行われた。作業の指揮を執った柴田病院の柴田眼治理事長は「今後もこの地の整備と調査をしていきたい」と話している。

小早川隆景毛利元就の第3子で、厳島の戦いでは水軍を率いて毛利軍の大勝に貢献するなど、毛利家の隆盛に寄与した知勇兼備の武将で、豊臣政権下では五大老の1人として全国に名をはせた。

慶長2年(1597)に隆景公の没後、隆景夫人は問田に移り住んだと言われ、「問田のお方」とも呼ばれている。元和5年(1619)に夫人も没した後は、お付きの人たちがその館を隆景公夫人2人の菩提寺とし祀っていたというが、無住寺となった末に廃寺となり、位牌などは別の寺に移されたとされている。

その後も敷地は地域住民によって祀られてはいたが、年月が経つにつれて木々が繁り、荒れ地になってしまった。

この地を訪れた柴田病院の柴田眼治理事長が、古代からまじないの1つとして古墳の蓋などにも使われていた「杯状穴」という穴が掘られた石があることを確認。ここには墓か何かがあったのではと推測し、周囲を探ると、供養塔の一部分らしき石などが見つかった。

そこで本格的に再生しようと、柴田理事長と同病院職員らにより、19日から2日間かけて復興作業が行われた。生い茂る草木を除去し、敷地中に散らばっているそれらしき石を集め、また、土に埋まっていたものも掘り起こすなどして収集。それらを組み立てて2基の供養塔と灯籠が復元できたため、再建立した。柴田理事長は「ここにはまだ何かあると思う。整備をし、もう少し調査などをしてみたい」と話している。

隆景公の墓は広島や京都など国内に何か所かあり、市内でも隆景公を「中興開基」とする下小鯖の泰雲寺に夫婦の供養塔が建てられている。

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豊臣秀吉の銅像を復元 豊國神社(産経新聞2007-04-17)

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豊臣秀吉を祀る大阪城公園内の豊國神社(大阪市中央区)で17日、昭和18年(1943)に戦時の金属供出で撤去されたままになっていた秀吉の銅像が復元され、除幕式が行われた=写真。

“平成の秀吉像”は台座を含めて高さ5・2mで、兵庫県内の男性が寄付。彫刻家の中村晋也さんが失われた秀吉像の写真を参考に、昔の姿形を踏襲して仕上げたという。

鉄砲隊や甲冑隊に扮した出席者が脇を固める中、白い幕が下ろされると、陣羽織姿の秀吉像が姿をみせた。同神社の角正宣宮司は「やっと太閤さんの銅像が大阪城に戻った。」

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真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)

狩野了承筆「山本勘助像」

NHKの大河ドラマ「風林火山」で大活躍の軍師山本勘助。実は、歴史学者の間で長く架空の人物とされてきた。勘助の活躍を記録した唯一の同時代史料とされる『甲陽軍鑑』が、江戸時代に編集された偽書・虚構とみられてきたからだ。だが10年程前から、原本は戦国時代に書かれた可能性が強まり、評価は揺れ動いている。

◇際物扱いのベストセラー

執筆は、思い留まった方がいいのでは―

『甲陽軍鑑』勘助像を検証した『山本勘助』を昨年出版した山梨大学講師の平山優さんは、研究者仲間たちから、そう言われた。「『甲陽軍鑑』戦国史研究では、際物きわもの扱いされてきた。だから、その中で記述された信玄勘助の体系的な研究すらありません」

『甲陽軍鑑』は、信玄と息子の勝頼を中心に、合戦の様子や武将の心構えなどを詳細に記録した、江戸時代の「ベストセラー」だ。『甲陽軍鑑入門』を昨年著した静岡大学教授の小和田哲男さんは「『甲陽軍鑑』なしで、信玄の魅力的な活躍を語るのは難しい」と話す。

同書は、信玄の家臣、高坂弾正が残した記録を、江戸初期甲州流軍学の祖、小幡景憲がまとめたとされる。だが明治時代に、歴史学の権威、田中義成・東京帝国大學教授が、出来事やその年月日に誤りが多く、小幡が様々な遺稿などを繋ぎ合わせて創り上げた可能性が強いとして、史書の価値はないと主張した。

それが定説となり、以後、「偽書」「虚構」として扱われるように。「『甲陽軍鑑』を使って、学術論文を書くのは難しくなった」と小和田教授はいう。

その結果、主に『甲陽軍鑑』に基づく出来事や人物の存在も疑われた。川中島合戦での信玄上杉謙信の一騎打ちや、信玄が自らの死を隠し、諏訪湖に沈めるよう指示した遺言などもだ。

人物でいえば、山本勘助がその代表だ。一眼で手足が不自由ながら優れた戦術家という特異なキャラクターだが、他に確かな同時代文書がなく、架空の人物とみる研究者が多かった。

昭和44年(1969)に、勘助の名が書かれた2つ目の同時代史料『市河(市川)文書』が発見され、実在の可能性は高まったが、怪しげな軍学の書という『甲陽軍鑑』への評価は変わらなかった(『市河文書』は6日から山梨県立博物館で初公開される)。

そんな中、国語学者の酒井憲二さんが平成6年(1994)、『甲陽軍鑑大成』を刊行。現存する最古の写本を特定し、戦国時代特有の表現が使われている事を突き止めた。「戦国時代の日本語を、云わば言文一致で書き残した貴重な史料」と酒井さん。小幡景憲は原本を「正確に写し留めるのに心を砕いた」とも指摘。偽書説を否定した。

但し、元々が史書ではない『甲陽軍鑑』には、年代などに誤りがある。戦国史研究者の柴辻俊六さんは「確実性の高い別の史料の裏付けがなければ、参考資料に留めるべきだろう」とみる。山梨大学の平山さんは「先ずは、内容の真偽をより分ける作業が必要だ」と話す。

◇「最も良質な資料」の声も

他方、明治以来の、権威や研究手法に縛られてきた歴史研究者の姿勢を問題視する声も現れ始めた。

急先鋒は、立正大学教授の黒田日出男さん。黒田さんも『甲陽軍鑑』に手を出すと研究者生命を失うと警告されてきた。だが最近、戦国の合戦を描いた屏風絵を研究する中で、当時の様子を知る最も良質な史料として『甲陽軍鑑』に辿り付いた。

昨年、研究論文「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史」「桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』」を発表。その中で、戦国史研究者が『甲陽軍鑑』を「生殺し状態」にしてきたと指摘。同書への批判を再検証し、史料としての可能性を探っている。

例えば、虚構とされてきた長篠合戦での武田方の軍議を検討。研究者が虚構説の根拠としてきた古文書の方が、寧ろ偽物である可能性を指摘した。

また、近年疑問視される事の多い、桶狭間の戦いにおける織田軍の奇襲についても、敗れた今川義元に近い武田氏側の史料として『甲陽軍鑑』に注目。今川勢が乱取り(略奪)のために散らばったのに紛れて、織田勢が近づいたという、「乱取状態急襲説」を示した。

黒田さんは、「史実との食い違いがあるからと批判せず、なぜ誤った記述がされたのかなど、史料としての性格を検証すれば、新鮮な視点での研究が生まれるだろう」と話している。



※(参照)→「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

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福島正則の検地帳を初公開(中国新聞2007-03-16)

公開される福島時代の検地帳。旧湯来町から広島市が継承した

関ヶ原の合戦(慶長5年=1600)の功績で安芸・備後の領主となった福島正則が翌年、今の広島市佐伯区湯来町で実施した検地記録が、広島城で17日始まる企画展「歴史資料の魅力」で、初公開される。「慶長六年安芸国佐西郡伏谷上村検地帳」と題する和綴じ本で、42ページ分が現存。旧湯来町役場が保存していた。伏谷上村の田んぼや、屋敷を調べ上げ、村の石高を403石余と集計している。企画展は5月30日まで。
※(参照)→福島正則の若き日の姿見つかる 清洲城主務めた戦国武将(中日新聞2009-04-26)
※(参照)→吉田城石垣の刻印末裔が確認(東海日日新聞2007-06-03)


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『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)

釧路市教育委員会は、同市の指定有形文化財となっている市河文書を一般に公開するため、展示会の開催を準備している。

同文書鎌倉から戦国時代に至る信濃国(長野県)の土豪・市河家に伝わる文書で、この中には鎌倉幕府室町幕府が出した命令書をはじめ、戦国武将として名高い武田信玄上杉謙信方からの書状もあり、歴史的にも価値の高い史料として知られている。

書状などは明らかになっているだけでも約250点あり、このうちの100点以上を釧路市内の個人が所蔵、特に武田方軍師と云われる山本勘助の名が出てくる書状は、釧路に唯一存在するもので、その実在説の根拠にもなっているなど、歴史研究家らの間でも評判になっている。



※(参照)→「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

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乱世に生きた忠臣に肉迫 宇治の松村さん 本紙連載小説『槇島昭光』を刊行(洛南タイムス2006-1-19)

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室町幕府最後の15代将軍・足利義昭に仕え、信長秀吉家康天下人と渡りあって天命を全うした忠臣で地元所縁の槇島城主・槇島昭光の生き様に迫った松村信二さん=宇治市宇治若森=の本紙連載小説『槇島昭光』が単行本として「すばる出版」(京都市上京区)から刊行された。四六判252ページ。税込価格は1365円。宇治橋通商店街の「宇治書店」で取り扱っている。

洛南三勝として古くから観月の名所で知られた槇島まきのしま(真木島)は畿内・瀬戸内の水運に通じる巨椋池を望み、中世には西園寺家の別荘が開設。後に足利家の家臣の1人の真木島(槇嶋)氏を城主とする城館となった。

その城館が歴史の表舞台に登場するのが元亀4年(1573)7月の織田信長による「槇島城攻め」

時の15代将軍足利義昭二条御所を退去し、南山城の土豪の援助で城に立て籠もるが、羽柴秀吉明智光秀柴田勝家らが率いる信長勢の大軍に包囲され、呆気なく降伏。

城は戦略上の要として残るが、後に豊臣秀吉による伏見城築城や宇治川の流れを変える太閤堤の築堤で軍事上の役割を終えた。

文献に度々登場するものの、その所在を裏付ける遺物や遺構は検証されず、「古城」「城址」の文字が読み取れる近世絵図や地割から、城は現在の大幡・薗場地区にあったものと推定。

宇治ライオンズクラブの記念事業で昭和49年(1974)には「此の附近槇島城跡」とする文化財愛護標識の石碑が薗場地内に設置されたが、都市化で石碑周辺も様変わり。

お城の消息が途絶えようとするなか、槇島城顕彰会が宇治市の夢創造21と銘打った特別枠の予算(300万円)を活用し「わがまち真木島夢追い事業」として平成16年(2004)、槇島公園の一角に記念碑を建立。ライオンズクラブが寄贈した石碑も薗場児童公園に移設している。

作者の松村さんは城南高校時代から歴史物の書物に親しみ、硬式野球で京都の大学に乞われて入学したが、歴史小説を書きたいとの思いが捨て難く、入学式の当日に大学を辞めたというエピソードの持ち主。

以来、独学で古書や歴史書を紐解き、建設会社で重機オペレーターの仕事を続ける傍ら、創作活動に情熱を燃やし、平成13年(2001)には紀元前の中国・の時代に咸陽(宇治市の国際友好都市)を舞台にした歴史小説『流離の蘭』を文芸社から出版している。

新聞連載時から槇島城顕彰会の辻昌美会長らから「是非、本にして」とのラブコールも受けていただけに、念願かなった出版に松村さんの感慨もひとしお。

主人公の槇島昭光『宇治市史』でその存在を知り、事績どころか、生没年すら史料になく、主君である将軍義昭の葬儀一切については秀吉から「昭光に任せ」と命じた文書が残る程度という。

「無名ながらも歴史に実在した、史料に載っていない人を書くのが好き」という松村さんは、信長秀吉家康という天下人が一目を置いた槇島昭光について、10代の終わりから「何時かは書いてみたい」との思いに駆られていた。

20歳を前に作家を志し、苦悶の末に司馬遼太郎さんに電話をかけ、「書きたいテーマを見つけたら、丹念に古本屋を廻んなさい」と未知の青年のぶしつけな質問に丹念に答えてもらったという松村さん。

初心貫徹で30年来の思いを果たし、本のあとがきでは「夢を諦めないで良かった、と思っている」としみじみとした感慨を控えめに記し、「本を通して少しでも多くの人に槇島昭光の事を知ってもらえれば嬉しい」と目を輝かす。

扉の挿絵は新聞連載時にコンビを組んだ中瀬真由さん=大久保町山ノ内=が担当。刊行にあたり、本能寺の変に関わった光秀の家臣・溝尾勝兵衛信長の骨を拾い菩提を弔った阿弥陀池清玉にスポットを当てた『ふたりの本能寺』幕末の思想家・吉田松陰の遺書『留魂禄』を預かり、15年の島流しの刑を終えて遺書を伝えた沼崎吉五郎の生き様を描いた『葉末の露』の2編の書き下ろし短編も合わせて収録した。

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金山一揆、御本判政策引き金に「葛西氏歴史シンポジウム」 埋もれた史実にスポット 金掘りの実態、遺臣の命運探る(東海新報2007-01-13)

葛西氏没落後の動きと金掘りの実態をテーマに開かれた歴史シンポ

鎌倉時代から戦国時代にかけて、約400年にわたって宮城県北と岩手県南を支配した葛西氏。その歴史を探究しようと11日、気仙沼地域交流センターで「葛西氏歴史シンポジウム」が開かれた。気仙を含む葛西領に点在していた金山と金掘りの実態、豊臣秀吉・伊達政宗によって没落を余儀なくされた葛西遺臣たちが新体制に移行していく中で、どのような命運をたどったか、金山一揆の引き金となった御本判(金採掘の鑑札)政策をめぐる歴史的背景を探った。

◇「産金史」解明も提言

シンポジウムは、戦国時代まで気仙・大崎地方を支配していた葛西氏の足跡を探究している葛西氏顕彰会が主催し、宮城史学協議会、産金遺跡研究会などが後援。旧葛西領内の郷土史研究家や歴史愛好家など約90人が出席した。

はじめに、顕彰会事務局長の佐藤正助氏が「葛西遺臣たちのその後」を演題に基調講演。戦国末期の近辺武士の環境や戦国期の産金、奥州仕置の状況と仕官運動について触れながら、「葛西領は金の産地として大きな経済力を持っていた。仕置き後の金山一揆は、単なる坑夫たちの一揆ではなく葛西家臣団の一揆だった」と力説した。

引き続き、歴史トーク・セッションが行われ、西田耕三氏(ノンフィクションライター)をコーディネーターに、平山憲治氏、関村雄司氏、鈴木卓也氏がパネラーとして登壇。平泉藤原時代から中世末までの金掘りの実態、産金地と採掘方法、葛西氏没落後の豊臣、伊達による御本判政策についてそれぞれ持論を展開した。

この中で、豊臣秀吉の家臣、浅野長政が文禄3年(1594)、旧葛西領の金掘りたちに採掘免許札「金掘り御本判」(板、または和紙)を発行し、運上金(金掘り税)制度を導入したことが、金山一揆の引き金になったことを指摘。

西田氏は「年1度だった課税が、年3度となり、納められない場合は『村まるき』という連帯納入制度まで決められた。黄金は光り輝くと同時に、為政者の思惑による暗黒の部分があることを忘れてはならない」と強調。伊達藩の非道な金判政策と金堀り人弾圧が、葛西諸浪人と多数の金掘りたちによる「釜石一揆」に繋がったとの見解を示した。

御本判は、気仙、本吉、登米、東山などで3200枚程交付されたとされ、一番多かったのが東山で1853枚、次が気仙で532枚。

関村氏は「当初、御本判1枚につき8gと決められていた。やがて採れた量に対する定率課税が、その後に定額課税となった。納められないところは現金で納めたが、気仙だけは最後まで金で納税していた」と興味深い事実も紹介。

「納めたという記録はあるが、実際どれくらい採れたかについての古文書は見当たらない」とし、伊達藩の産金の実態を知る新たな資料の発掘に期待した。

鈴木氏は、パワーポイントを使って金の産出形態や産金遺構について紹介。「遺跡登録されていない地元の遺構が数多く残っている。黄金が埋もれている地域に暮らしていることを認識し、自覚と関心を持たないと解明は進まない」と訴えた。

平山氏は、金の採金方法を中心に『みちのく黄金文化の源流を行く』をテーマに独自の調査と視点で発表。「古代から近世にかけての主要な採金方法は、土金つちがねという野山の土に混入した砂金を猫流しする方法」と力説した。

その上で「よく『黄金の国ジパング』とか『平泉黄金文化を支えた』と観光目的で使われるが、その年代、使用場所、方法など説明不十分な場合が多く、本格的にその歴史的産業技術までを含めた研究が十分なされていない」とし、「産金史」探究の必要性を提言。

会場には、気仙から参加した人たちも多く、当時の金山政策にみる金堀りたちと葛西旧臣の動向についての論議を熱心に聴講。陸前高田市米崎町の大和田喜作さんは「興味深く聴きました。地元にも重倉金山があります。これを機にもっと郷土の歴史に関心を持ちたい」と話していた。

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松江藩の初代藩主は「忠氏」に統一山陰中央新報(2007-01-01)

平成19年度(2007・4〜08・3)から始まる「松江開府400年祭」を前に、松江市は専門家の間でも見解が分かれる松江藩の「初代藩主」を、堀尾吉晴、忠氏親子のうち息子の忠氏とし、同21年(2009)開館の歴史資料館(仮称)の展示や観光パンフレットなどの表記を統一する方針を決めた。史料が少なく判断が難しいテーマだが、市教委は「400年祭を通じて議論を呼び起こし、歴史に関心を持ってもらうきっかけになれば」と期待している。

堀尾家は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの功績が認められ、徳川家康から出雲・隠岐を拝領。同9年(1604)、忠氏が28歳で急死したため、隠居の身だった吉晴が当時6歳の孫、忠晴の補佐役として、同12年(1607)から5年間にわたる松江城の築城、城下町建設を指揮した。

これらの経緯から初代藩主は、築城を含め実質的に堀尾家3代にわたり統治に関わった吉晴と、既に浜松城主として吉晴の跡を継ぎ、出雲・隠岐を拝領したとされる忠氏の間で見解が分かれている。

関ヶ原の戦いの後も、豊臣家の家臣の立場だった家康が「辞令書」を発給できず、拝領を口頭で伝えていたことも要因。その後の幕府編纂の書物は忠氏を、地元の文献は吉晴を、初代藩主とするものが多い。

このため、観光案内板やパンフレットの表記もまちまちで、市は歴史資料館整備を含む開府400年祭を前に、観光客へきちんと説明ができるよう基本方針について検討。10月と12月の2度にわたり文化財保護委員ら専門家9人から意見を聞き、家督を譲り受けていた忠氏を初代として表記統一する方針を決めた。城を築いた吉晴は「松江開府の祖」で統一する。

ただ、学術的にはなお見解が分かれるテーマ。松平時代と比べ史料が少ないこともあり判断は難しいが、市は来年度から5年間展開する「松江開府400年祭」の中で、市民参加の議論の場をつくり、松江の歴史への興味、関心を高めてもらうきっかけにしたい考えだ。


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大聖寺城 総構堀に石垣 古地図と場所一致 文化財調査で発見(中日新聞2006-12-02)

江戸時代の屋敷跡から発見された大聖寺城の総構堀の石垣

加賀市が同市大聖寺本町の市民病院付近で実施した八間道遺跡の文化財調査で、戦国時代末期に築城された大聖寺城の総構堀の石垣が発見された。慶長20年(1615)年に幕府が発令した一国一城令で廃城となり、記録や資料が殆んど残されていない大聖寺城の姿を物語る遺跡として注目される。

石垣は高さ80p〜約1m、長さ約11m。市民病院の増設工事により8月から11月末まで実施された調査で、江戸時代前期の地層にあたる地下約3mで見つかった。現場から数百m離れた錦城山の石が使われたとみられている。

現場の隣接地で平成5年(1993)年に行われた遺跡調査で、既に大聖寺城の堀の跡は確認されていた。今回、初めて石垣が見つかり、天保14年(1843)に加賀藩士が作った古地図「戦国之時御城山手入要害修理之図」と照らし合わせた結果、図に描かれた総構えと石垣、堀の跡の位置がほぼ一致した。

一国一城令による廃城で総構堀は埋め立てられ、この場所には家老の屋敷と藩の施設ができたという。調査では市指定文化財「大聖寺町絵図」を裏付ける建物の境界が確認されたほか、漆器などの木製品や陶磁器片が多数出土した。大聖寺城は関ヶ原合戦などの混乱期において重要な軍事拠点だったとみられている。

市教育総務課の西英晃主査は「大聖寺城築城の歴史自体がよく分かっておらず、当時の姿を知る貴重な遺跡」と話している。今回調査した区域約300uは遺跡の位置などを記録した後、病院施設建設のために埋め立てられる。

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甲斐姫や武者、勇ましく 歴史絵巻で見物客魅了 行田で時代まつり(埼玉新聞2006-11-14)

忍城主・成田氏長の長女「甲斐姫」に扮する行田市出身の女優、高松あいさん 豊臣武者を弓で射抜く甲斐姫

行田市本丸の行田市役所周辺で12日、恒例の「行田商工祭・忍城時代まつり」が開かれた。

天正18年(1590)、成田軍豊臣軍「忍城攻防戦」が今回の舞台。出陣式には忍城主・成田氏長豊臣秀吉石田三成など戦乱の世を彩った人物たちが次々に登場。水攻めの際に“難攻不落の城”を最後まで守り抜いたとされる甲斐姫役を演じた女優、高松あいさんが、勇ましい殺陣を披露した。

鎧兜に身を包んだ両軍の武者行列が忍城東門前に集結。鉄砲隊による火縄銃の銃声も轟き、大勢の見物客が、地元所縁の城に纏わる歴史絵巻に魅入っていた。

手作りの鎧を身につけて武者行列に参加した時田真志くんは「お父さんと一緒に歩けて楽しかった」と笑顔で話した。

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山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)

◇来春開催の県立博物館特別展で

武田信玄軍師山本勘助実在を証明する唯一の史料『市河家文書』が、来春の県立博物館特別展「風林火山 信玄・謙信、そして伝説の軍師」(来年4月6日〜5月20日)で、全国に先駆けて初公開される事が決まった。

同文書信玄(晴信)が北信濃を支配していた豪族「市河藤若」に宛てた書状。信玄上杉謙信川中島合戦を繰り広げていた弘治3年(1557)に書かれたものとみられる。戦況を述べた後に、「山本菅助」を使者として送り、詳細を伝えさせるという内容が明記されている。信玄花押もある。

同文書は昭和44年(1969)、北海道釧路市の市河家の子孫の家で発見された。当時、勘助についての戦国時代の資料はなく「架空の人物」説もあったため、実在を示す第一級史料として話題になった。現在は同市の会社社長が所有しているが、これまで一般公開した事はない。

同館の西川広平学芸員は「勘助は謎が多いが、少なくとも武田家臣団『山本菅助』という人物がいた事を証明する貴重な史料」と話している。

同展は、来年のNHK大河ドラマ「風林火山」の関連企画。同文書のほか『山本勘助画像』『上杉家文書』(国宝)などを展示し、勘助の実像と伝説や、川中島合戦について紹介する。山梨を皮切りに新潟、大阪でも開催する。



※(参照)→「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

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テーマ展:秀次・家臣団と一豊の姿追う―長浜・長浜城歴史博物館(毎日新聞 2006-11-08)

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◇書状や絵図など16点展示

長浜市の市立長浜城歴史博物館は23日まで「特別企画 一豊と秀吉が駆けた時代」の第12回テーマ展「豊臣秀次・家臣団と山内一豊」を同館3階展示室で開いている。

天正13年(1585)、秀吉は、近江の支配を甥の秀次に託し、近江八幡城を与える。その際、田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴、一柳直末、山内一豊ら宿老を付け補佐させた。一豊は、秀吉直属でなく秀次家臣団の一員として長浜城主になった。今回のテーマ展は、八幡城主としての秀次秀次家臣としての一豊の姿、家臣団の動きを展示史料で追っている。

展示されているのは、豊臣秀次及び五士像秀次一族像羽柴信吉(秀次)書状江州八幡町絵図など16点。秀次及び五士像は、京都三条小橋にある浄土宗西山派の寺院、瑞泉寺に伝来したもの。同寺は、秀次や妻らが埋葬された場所で、画像中央部に秀次が描かれ、上部に、文禄4年(1595)7月、伏見から高野山に行く道すがら詠んだ歌3首が記されている。

羽柴信吉書状は、天正12年(1584)6月、秀次小牧・長久手合戦の状況を坂田郡西上坂村の地侍、上坂意信に伝えた文書。秀次が差し出した文書としては最も若い時に書かれたとされる。

大人400円、小、中学生100円。問い合わせは同博物館。

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真田の抜け穴と幸村 大阪今昔―歴史のささやき(産経新聞2006-10-26)


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◇大坂城を背に活躍した真田幸村の足跡がいまも…

大坂冬の陣夏の陣。2度の激戦で大坂城は燃え上がり、豊臣家は滅亡した。その経緯を物語る遺跡が大坂城の南、上町台地に残っている。

徳川方の「豊臣潰し」策が次々と打たれ、風雲急を告げた慶長19年(1614)秋。豊臣秀頼の要請で紀州・九度山から駆けつけた真田幸村は、決戦を前にして大坂城の南側を固める態勢をひいた。大坂城は東を猫間川(昭和32年に埋め立てられた)、西は東横堀川、北は天満川に囲まれていたが、南は開いている。「敵はこの手薄な南側を突いてくる」と読んだらしい。

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そこで、空堀を背にして半月状に南側へ前にせり出した砦を大急ぎで築いた。それが三光神社の辺り、「偃月城」(別名、真田丸)という。また大坂城内とこの砦を地下道で繋いだともいわれているが、現在、神社に残っている「真田の抜け穴」はその跡だという。入り口には真田家の家紋「六文銭」の付いた柵があり中へは入れない。でも、覗いて見ると穴は数mで行き止まりになっていた。実際にお城まで続いていたか真偽のほどは定かではないが、その横で采配を振るう幸村の像を見ていると、今でもときの声が聞こえてきそうだ。

三光神社の小田禮五郎宮司は「テレビの大河ドラマの影響もあって、訪れる人は結構多いですよ」という。

そして同年11月の冬の陣幸村六文銭の旗印のもと、偃月城に鉄砲隊を配して徳川方を大いに打ち負かし、真田丸の名を轟かせた。この活躍などで徳川方との和議が成立し、危機を脱したかにも思われた。のちに講談本や小説で人気者になった猿飛佐助霧隠才蔵真田十勇士の活躍はこのような背景をもとに作られたフィクションである。

しかし、厭戦気分もあってか相手の要求を入れ、外堀を埋められてしまったため、翌20年(1615)5月の夏の陣で滅亡する羽目になる。偃月城もこの時完全に取り壊されてしまった。

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善戦が報われなかった幸村の最後の地は偃月城から南へ、四天王寺前を少し西へ行った安居神社にあった。「真田幸村戦死跡之碑」が境内に建てられている。ここは徳川家康が陣を張った茶臼山とは目と鼻の先。伊達政宗、松平忠直らの軍勢と戦って5月7日、ついに 力尽きたという。この碑の後ろには「さなだ松」の石碑があり、瀕死の幸村はこの松の根方で敵の槍を受けて死んだという。

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「あげいん熊野詣」 観光客らを魅了(紀伊民報2006-10-24)

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「蟻の熊野詣」を再現する「あげいん熊野詣」が22日、世界遺産の那智勝浦町、熊野那智大社を中心とした那智山で行われた。時代衣装の女性ら150人の行列が、熊野古道「大門坂」から那智大社を経由して那智の滝まで約2・5qを歩き、観光客らを魅了した。同町観光協会主催、21回目。

午前9時半、法螺ほら貝を吹き鳴らす山伏に先導された行列が、那智山麓の大門坂駐車場を出発。杉木立に囲まれ、苔生した石段の大門坂をゆっくりと上がった。

那智大社と那智山青岸渡寺に参拝した一行は午後、同寺三重の塔前の大護摩祈祷に参列した後、那智の滝に参拝し、時代行列を締めくくった。

大社境内では同町の特産・色川茶や善哉、抹茶などが振る舞われ、見物客や観光客を楽しませた。

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「豊臣時代の大坂」描いた屏風絵 オーストリアで発見(朝日新聞2006-10-19)

オーストリアで確認された豊臣時代の大坂を描いた屏風絵。南を上にして、左方に大坂城がある。上部中央は四天王寺、その右は住吉大社、右下部は船場の町並みを描いたとみられる

豊臣時代の大坂城や大坂の町並みを描いた屏風絵がオーストリアの古城で発見された。作者不詳だが、慶長年間(1596〜1615)の大坂の風景を描いたものと推定され、江戸時代前期頃の作とみられる。研究者らは「非常に貴重な発見。日本に運んで詳細に調べたい」と話している。

ドイツ・ケルン大学のフランチィスカ・エームケ教授が18日、関西大学での講演で明らかにした。

同教授は今年5月、オーストリア南部にあるグラーツ市の依頼で、同市にある市管理の古城(16世紀頃建築)を調査。「東洋の間」と呼ばれる一室の壁に張り付けられているのを確認したという。

屏風絵は高さ約1・8m、幅約4・8m。大坂城や船場の町並み、住吉大社、四天王寺などが描かれている。 貴族の日記などによると、屏風絵は寛文10年(1670)頃、オランダ東インド会社を通じて購入したものという。

大阪城天守閣の北川央・研究副主幹によると、秀吉の命令で慶長3年(1598)に開発された船場の町や、同5年(1600)に別の場所に移築された大坂城内堀の「極楽橋」が描かれており、この間の大坂の風景を描いたとみられる。人物の描き方などから、町絵師の作と推測されるという。

関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターの藪田貫研究員(文学部教授)は「豊臣時代の風景がリアルに伝わってくる貴重な作品。北を下に描くなど、当時の屏風の描写手法としても珍しく、大変興味を惹かれる」と話している。

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静岡の子と朝長の墓参(岐阜新聞2006-10-18)

源朝長の墓の前で手を合わせる青墓小と三川小の児童ら

大垣市青墓町の青墓小学校児童ら76人が17日、同市青墓町の円興寺などで、静岡県袋井市の三川小学校児童34人を招いて交流会を開いた。両校は源頼朝の兄・源朝長の縁で交流を続けており、朝長の前で、児童らは一緒に手を合わせた。

源朝長は、平治元年(1159)、青墓で亡くなったとされている。朝長の家来が朝長の首を持ち帰り、袋井市に葬ったと伝えられており、これが縁で両校は平成5(1993)から相互に訪問するなどして交流を続けている。今年は、6月に青墓小児童が袋井市を訪ねている。

同寺前で行われた対面式では、青墓小の高橋杏奈さんが「伝説と民話の里青墓にようこそ」と挨拶。続いて、17グループに分かれて、朝長まで山道を登った。同小の岩田真衣さんは「三川小のみんなと再会し、袋井と青墓の2か所でお墓参りできて良かった」と話していた。

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豊川市が山本勘助所縁の地をPR(東愛知新聞2006-10-03)

山本勘助の遺髪塚に立てられた幟旗

戦国大名・武田信玄の軍師として仕えた山本勘助所縁の地をアピールしようと、豊川市がPRに乗り出した。来年、勘助を主人公とするNHK大河ドラマ「風林火山」が放映されるため、地域をPRする絶好の機会として、所縁の長谷寺(牛久保町)に地元の奉賛会と協力し、のぼり旗を立てたほか、今後、観光案内板の設置やウオーキング大会の開催に取り組む。

山本勘助は、豊橋市賀茂町が生誕地とされ、15歳の時に牛久保の牧野家家臣の養子となり、青年時代を過ごした。親交のあった長谷寺には、遺髪塚と、勘助が守り本尊として大切にしていたといわれる「摩利支天像」が残る。

PRの第1弾として、境内に幟旗約150本を設置。旗(1・5m×0・5m)は、緑色を基調に橙色で「山本勘助ゆかりの地」「豊川市牛久保町」なとど書かれている。

協力した山本勘助奉賛会長の若林恒雄さんは「青年期を過ごした牛久保が、勘助の出発の地であることを多くの人に知ってほしい」と話している。

幟旗は約30万円で計400本作り、長谷寺のほか、牛久保地区を中心に立てる。観光案内看板は、同地区の見処を紹介する大型看板をJR飯田線・牛久保駅前に設置し、長谷寺など4か所に小型看板を設ける。

11月23日には、牛久保と秋季大祭の行われる豊川稲荷を往復するウオーキング大会を「山本勘助ゆかりの地を歩く」と題して開催。これに合わせ、ウオーキングマップも作る。

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【旧二条城の石垣】つわものどもが夢の跡 …僅かに残る旧二条城の石垣―京都 千年の誘い(産経新聞2006-09-18)

現在の二条城

京都へやってくる修学旅行生が必ずといってよい程訪れる二条城。平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」の1つとして世界遺産にも登録された。

旧二条城石垣

しかし、ここで紹介する石垣はこの二条城のものではない。現在の二条城徳川家康によって慶長8年(1603年)に造られたが、これはそれ以前、織田信長が建てた旧二条城のもの。

斜陽の室町幕府15代将軍の足利義昭のために、織田信長は永禄12年(1569)2月から常時1万5000人〜2万5000人を動員し、僅か70日程で旧二条城を完成させた。その背景には自らの力を戦国の世に誇示する狙いもあったのだろう。ただ、短期間の築城にはかなりの無理もあり、石垣などには近くにあった石仏や墓石なども利用したといわれる。その後、天正元年(1573年)、義昭が「反信長」の挙兵をして敗れ室町幕府が滅亡、同時にこの二条城も崩壊した。

崩壊後も跡地には信長が宿所を建てた後、皇室に献上(=二条御所)したりしたが、天正10年(1582年)の本能寺の変の際、明智光秀に攻められて完全に焼け落ちてしまった。旧二条城のあった場所は現在の二条城より東の上京区下立売通室町、京都御苑の南西に隣接した辺りで約400m四方だったと云われている。昭和50年(1975)からの地下鉄工事に先立つ発掘調査で旧二条城石垣や堀の跡が見つかった。

旧二条城の石垣に使われた石 京都御苑に移された旧二条城の石垣

現在、この石垣二条城と京都御苑に移されて残っている。二条城では北西隅に僅かに石が積まれている所があった。観光客はここまで殆んど来ないのであまり知られていないが、石をよく見ると突起があったり、掘り込みがあったりして、石仏など何か他のものからの転用と推測できるものもある。京都御苑も南西の隅にあるが、よく見ないと何かわかりにくい。植え込みを隔てた直ぐ西は交通の激しい烏丸通り。そしてその向こうは、旧二条城が建っていた所で、往時を偲ぶ縁(よすが)が、この石垣である。

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外岡敦賀短大教授が新説 大谷吉継(敦賀城主)出自は山城!?青蓮院坊官の家系図に名前(日刊県民福井新聞2006-09-15)

敦賀市立博物館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた大谷吉継(中央の青い頭巾の武将)

慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦い西軍方について敗死した敦賀城主大谷吉継出自を巡って、敦賀短大の外岡慎一郎教授が山城(京都)説を唱えている。豊後(大分)説近江(滋賀)説など諸説紛々で謎の多い吉継の素顔に迫るアプローチになりそうだ。

吉継石田三成とともに豊臣秀吉政権を支え、関ヶ原の戦い三成の盟友として参戦。小早川秀秋の寝返りで東軍の攻勢を受け、有力大名としては唯一、自刃して果てた。

関連史料が乏しく、出身地を巡っては、豊後の大友宗麟の家臣の子などとする説、近江大谷村(滋賀県・呉町小谷)で生まれたとする説などがある。

外岡教授は、京都の門跡寺院、青蓮院しょうれんいんの坊官である大谷氏の系図に吉継の名があることに着目した。坊官とは門主に奉公給仕する妻帯の僧侶で、官僚組織の職員という位置付け。

外岡教授は、系図自体に疑念はあるとしながらも、大谷氏鎌倉時代から敦賀莇野あぞの保代官だったことも根拠にしている。

吉継は天正17年(1589)に敦賀城主に任じられた。この人事についても、外岡教授は、鎌倉時代の初めから戦国期までの200・年、青蓮院は事実上、敦賀の領主であり、その支配を坊官の大谷氏が担ったという縁故に注目。「敦賀は、秀吉朝鮮出兵の兵站基地として重要であり、伏見城築城などで使われた東北地方の木材の輸送拠点でもあった。吉継の配置に際して大谷氏の敦賀との縁故が決め手になったとしたら、秀吉の領国支配の観点から面白い」と話している。

外岡教授は、大谷氏江戸時代越前松平家(福井藩)の家臣となる一族を輩出した事にも論考を加えている。

◇石田三成との縁紹介 敦賀気比LCが24日に歴史シンポ

敦賀気比ライオンズクラブは24日午後1時30分から4時30分まで、敦賀市のプラザ萬象で、歴史シンポジウム「敦賀―長浜 魂の回廊―大谷吉継と石田三成」を開く。入場無料。

10月21日のJR直流化でこれまでより電車での行き来がしやすくなる滋賀県長浜地域との関係を重視。敦賀城主吉継と長浜出身の三成が盟友関係にあった事を縁に、両戦国武将が結んだ「魂の絆を回顧しながら、敦賀―長浜が互いに心通い合う街となり、県境を越えた絆で結ばれる機縁を構築したい」としている。

NHKテレビ「その時歴史が動いた」などに出演して有名な歴史学者、小和田哲男静岡大学教授が基調講演。この後、小和田教授、太田浩司長浜城歴史博物館館長補佐、多仁照広敦賀短大教授、糀谷好晃気比史学会会長によるパネルディスカッションがある。司会は外岡慎一郎敦賀短大教授。

問い合わせは、同ライオンズクラブへ。

―◇ ◇ ◇―

→(参照)外岡慎一郎「大谷吉継と敦賀」(『敦賀論叢』第15号)
→(参照)外岡慎一郎「(研究ノート)青蓮院坊官大谷家と大谷吉継―その系譜をめぐって―」(『敦賀論叢』第17号)

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【二十六聖人所縁の地】殉教の旅がここから始まった―京都 千年の誘い (産経新聞2006-08-24)

二十六聖人の石碑

「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」―四条通堀川の一筋西、岩上通を少し入った所にこの石碑が建っている。豊臣秀吉の頃、この辺りは「だいうす町」と呼ばれ、200人余りのキリシタンが住んでいたという。

天正15年(1587)に豊臣秀吉キリスト教禁止令を出していたが、入洛したフランシスコ会の神父に妙満寺跡の土地を与えて聖堂や西洋式の病院などを建てさせた。この施設を中心にキリシタンが集まり「ロス・エンジェルス」(諸天使の元后の町)と自ら呼んでいた町ができあがった。

ところが、慶長元年(1596)、秀吉は突然キリシタンの捕縛を命令した。年末から翌年にかけてフランシスコ会のバプチスタ神父はじめ12人が捕まったという。大坂で捕まったものを含めて長崎への殉教の旅がここから始まった。途中の岡山や広島でも加わって総勢26人。慶長2年(1597)12月、長崎・西坂の丘でこの26人が処刑された。

キリシタン灯籠 踏み絵
魔鏡 隠れキリシタン捜索の高札

厳しいキリシタン弾圧の歴史の始まりだが、この石碑の近くにある資料館のフランシスコの家にはキリシタン灯籠が残っている。これはマリア灯籠とも云われ、下の方にはマリア像が彫られており、日常は土の中に埋められているのを、礼拝するときだけ掘り出したという。他にも踏み絵や光をあてるとキリスト像が浮かぶ「魔鏡」(復元)、隠れキリシタン捜索の高札など、色々な資料が揃っている。

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