NHK大河ドラマの「風林火山」は16日が最終回。この最終回に遭わせたかのように、豊橋市内で「山本勘助は、やっぱり賀茂(現在の豊橋市賀茂町)の生まれだった」と確証させてくれるかのような古文書が発見された。分析にあたった郷土史家の大須賀哲夫さんは「これは凄い。今後の補強を待てば賀茂出身説を支える有力な文書になり得る」と興奮気味だ。
古文書は勘助の子孫とされる、豊橋市下地町橋口の山本光男さん方で見つかった。何れも勘助に関する18世紀半ばの文書で、そのうち大須賀さんが最も重要視するのは現在も長野市にある大林寺僧侶がよる『山本氏碑文』と記された文書。
元文4年(1739)の日付を持つこの文書は長野市松代町に現存する勘助墓石の台座に刻まれている碑文と同一の内容を持つ。
勘助の出自から武田家に仕官した経緯ほか、勘助の墓が旧墓のあった場所から現在地に移された経緯が記されている。
大須賀さんは、「本来、長野市周辺の関係者宅で保存されて然るべき文書が何故、豊橋の山本家に伝わっているのか」の疑問から、「豊橋の山本家は当時から、勘助直系の家系だった可能性が高い」と推察する。
大須賀さんは、偶然にも山本さんからこの文書をみせてもらう直前、長野市のこの墓石を訪ねて、台座の碑文を確認していた。「恐らく山本家に伝わる文書は碑文の原文だろう。その大切な原文を所持している事は、直系の家系である事の証明に限りなく近い」と語る。
関係文書は他2つあり、1つは同じ元文4年(1739)に前出の墓移設に関わった当時松代藩士・原半兵衛が記したもので、半兵衛が私財を
もう1つは現在長野市にある典厩寺が安永元年(1772)に山本家に差し出した勘助200忌追善法要の執行に関する文書で、旧墓所に卒塔婆を立てる事を記した文書。
3つの文書が何れも勘助の墓に関するもので、当時墓の存在は現在とは比較にならない程に大切にされていた。大須賀さんは「当時、山本光男さんの直系祖先は賀茂村に住んでいた。3つの文書の存在は間接的ながら、勘助が賀茂村の山本家出身である事をかなりの程度まで証明する」とみる。
大須賀さんは今回の発見を多くの人に知ってもらおうと、3つの文書を書き下し文にして、勘助の両親の墓があるとされる賀茂の本願寺に展示する事にしている。
※(参照)→○「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→○山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→○真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→○『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→○山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→○来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)