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「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)

文書(複写)を前に「何れ、勘助は賀茂出身であるとされる日も近い」と語る大須賀さん

NHK大河ドラマ「風林火山」は16日が最終回。この最終回に遭わせたかのように、豊橋市内で山本勘助は、やっぱり賀茂(現在の豊橋市賀茂町)の生まれだった」と確証させてくれるかのような古文書が発見された。分析にあたった郷土史家の大須賀哲夫さんは「これは凄い。今後の補強を待てば賀茂出身説を支える有力な文書になり得る」と興奮気味だ。

古文書勘助の子孫とされる、豊橋市下地町橋口の山本光男さん方で見つかった。何れも勘助に関する18世紀半ばの文書で、そのうち大須賀さんが最も重要視するのは現在も長野市にある大林寺僧侶がよる『山本氏碑文』と記された文書

元文4年(1739)の日付を持つこの文書は長野市松代町に現存する勘助墓石の台座に刻まれている碑文と同一の内容を持つ。

勘助の出自から武田家に仕官した経緯ほか、勘助の墓が旧墓のあった場所から現在地に移された経緯が記されている。

大須賀さんは、「本来、長野市周辺の関係者宅で保存されて然るべき文書が何故、豊橋の山本家に伝わっているのか」の疑問から、「豊橋の山本家は当時から、勘助直系の家系だった可能性が高い」と推察する。

大須賀さんは、偶然にも山本さんからこの文書をみせてもらう直前、長野市のこの墓石を訪ねて、台座の碑文を確認していた。「恐らく山本家に伝わる文書は碑文の原文だろう。その大切な原文を所持している事は、直系の家系である事の証明に限りなく近い」と語る。

関係文書は他2つあり、1つは同じ元文4年(1739)に前出の墓移設に関わった当時松代藩士・原半兵衛が記したもので、半兵衛が私財をなげうって移した事などが書かれている。

もう1つは現在長野市にある典厩寺が安永元年(1772)に山本家に差し出した勘助200忌追善法要の執行に関する文書で、旧墓所に卒塔婆を立てる事を記した文書

3つの文書が何れも勘助の墓に関するもので、当時墓の存在は現在とは比較にならない程に大切にされていた。大須賀さんは「当時、山本光男さんの直系祖先は賀茂村に住んでいた。3つの文書の存在は間接的ながら、勘助が賀茂村の山本家出身である事をかなりの程度まで証明する」とみる。

大須賀さんは今回の発見を多くの人に知ってもらおうと、3つの文書を書き下し文にして、勘助の両親の墓があるとされる賀茂の本願寺に展示する事にしている。



※(参照)→「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

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自治の思い伝える 山城国一揆逆修の碑(京都府精華町)―ふるさと昔語り(京都新聞2007-11-29)

城山の南側、地元の共同墓地の入口近くに並ぶ五輪塔と地蔵。国一揆の逆修の碑とされ、手向けられる花が絶えない

15世紀末の京都南部。国人(在地領主)や農民が、応仁・文明の乱に伴う混乱や守護の介入を排し、8年間の自治と平和を成し遂げた「山城国一揆」。木津川左岸、京都府精華町北部の北稲八間いなやづま集落にある小高い城山(95m)は、国一揆が終焉を迎える最後の攻防が明応2年(1493)にあった稲屋妻城の跡とされる。

今では町の配水タンクがある城山に立つと、如何にも戦略上の要地。眼下には木津川の流れ、遠くは奈良盆地や生駒山まで望む事ができる。

南側の麓、竹林に囲まれた北稲八間の共同墓地に、1m程の五輪塔が10基余り並び、中央には石のお地蔵さんが立つ。手向けられる花が絶えない。地蔵と五輪塔を総称して地元で逆修げきしゅうの碑」と呼ばれている。地蔵には「天文六年(=1537)逆修人数十四人」と刻まれる。生前に死を覚悟した人や、若くして亡くなった子への弔いを意味する「逆修」の文字から、郷土史家らによって、同時代の国一揆との関連が指摘されてきた。

同町教委の調査では、城山には曲輪や空堀、土塁の跡がある。終戦後の開墾では、一帯で刀や石仏も出土したと言われる。郷土史家の調査や伝承を基に作家の東義久さん=宇治市=が著した『絵がたり山城国一揆』(文理閣)によると、最期の様子はこうだ―

明応二年(一四九三)、あくまでも山城守護の入部に反対する国人は、稲屋妻城にこもり徹底抗戦する事になる。国一揆側にとってみれば、最初から負け戦とわかっていたであろう。それでも稲屋妻城にこもらなければならない思いがあったのだろう。それは、自分たちが創造した南山城の自治というものに対する熱い思いだったのだろうか。…(中略)…抗戦むなしく、稲屋妻城は落城。山城国一揆は、ここで終わりを迎える
実際は数百人の国人衆が立て籠もり、入部した古市澄胤の代官・井上九郎の軍勢との戦いで、200人が討ち死にしたという。その稲屋妻城が今の城山か、逆修の碑国人衆のものかは定かでないが、同町文化財愛護会会員で、北稲八間に住む岩里周英さんは「戦乱が続く中で、来世を願って碑が立てられ、地元の人々が世話をしてきたのは間違いない。古くからの地域のまとまりを示す史跡として、大事にされているのです」と話す。

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鎌倉時代は2歳から離乳食 授乳期間短縮で人口増加?(産経新聞2007-11-26)

遺跡から出土した鎌倉時代の人骨を調べたところ、当時は2歳前後で離乳食を始めていた可能性が高い事が、東京大学の米田穣・准教授と大学院生の下見光奈さんらの26日までの研究で分かった。

現在の日本では生後5か月前後から離乳食を始め、同1年から1年半で完了する例が多いが、米田准教授によると人間の授乳期間は元々、2歳より相当長いとみられる。

研究結果は、離乳食に穀物などを与えるようになって進んだ授乳期間の短縮が、中世にはかなり進行していた事を示しており、米田准教授は「授乳期間が短くなれば次の出産が早く可能になる。離乳の早期化は人口増とも関連している」と指摘している。

米田准教授らは、母乳を飲んでいる間は体内に窒素15という特殊な窒素が蓄積し続け、離乳食を食べ始めると減る事に着目。鎌倉時代の人骨が大量に出土した由比ヶ浜南遺跡(神奈川県鎌倉市)の0〜16歳の人骨48体で、骨の蛋白質に含まれる窒素15の量を計測した。

0〜3歳で特に値が高く、年齢別の平均値で比較すると、2・5歳と3・5歳の間で大きな差がみられた。食物中の窒素15が骨に取り込まれるまでの時間差がある事などを考慮し、離乳食の開始時期は2歳前後だと推定した。

食べ物の変化による離乳の早期化は、狩猟採集が中心だった縄文時代から農耕が普及した弥生時代にかけての人口増に影響したのではないかという。

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「加藤清正 妻5人に3男2女」 熊本市の歴史研究家(熊本日日新聞2007-11-07)

水野勝之・福田正秀共著『加藤清正「妻子」の研究』

加藤清正の正室清浄院の実家、水野家の第20代当主・水野勝之氏(東京都)と熊本市の歴史研究家・福田正秀氏が、共著『加藤清正「妻子」の研究』を刊行した。これまで諸説があった清正の妻の人数やそれぞれの母子関係について、様々な史料を参照しながら正確な系図の復元を試みている。

研究では、定説の「妻三人に二男二女」は根拠がはっきりしないと指摘。最新の研究として『新熊本市史』(熊本市刊)の「妻五人、三男二女」という説を紹介している。

両氏は、諸説を踏まえて豊臣秀吉朱印状清正の書状、関係する系図や墓碑などを分析。「結果的に母子関係は『新熊本市史』の推定が正しい」として、史料を基に論証を加えている。

具体的には(1)清正には肥後入国前に正室と息子が居た(2)両者が死去した後、一時養子が居た(3)その後、水野家から清浄院を正室に迎え、子の「あま姫」紀州徳川家に嫁いだ(4)側室竹之丸殿の子・古屋姫徳川家譜代阿部家に嫁ぎ、子の正能まさよし幕府老中になったなど、妻子の数と母子関係を確定させた上で、それぞれの子孫の系譜を追跡している。

水野氏は「大名家の系図は女性の名前を記さないなど歴史的な取り扱いがお粗末だが、女性という観点から歴史を掘り下げる必要を感じた」としている。

『加藤清正「妻子」の研究』はブイツーソリューション発行、星雲社発売。菊判258ページ。3150円。

水野氏は10日午前10時から熊本市花畑町の市産業文化会館で開かれるシンポジウム「加藤家の謎に迫る。」にパネリストとして参加する。入場料2000円。問い合わせは肥後加藤清正公・忠広公顕彰会事務局へ。

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豊臣期大坂図屏風:オーストリアの博物館で発見(毎日新聞2007-11-09)

オーストリアで見つかった豊臣期大坂図屏風

16世紀末の大坂を描いた「豊臣期大坂図屏風」が、オーストリアの博物館で見つかり、詳細がこの程関西大学で開かれたシンポジウムで報告された。豊臣期の大坂を描いた屏風で現存するのは数点しかなく、美術史のみならず建築史や風俗史にとっても貴重な史料だ。

オーストリア南東部のグラーツ市にあるエッゲンベルク城博物館が所蔵している。目録などから17世紀後半、日本との貿易があったオランダを通じて購入されたとみられている。

元は8曲1隻(高さ約1・8m、幅4・8m)だったが、18世紀半ばに解体され、現在は博物館の「インドの間」の壁にはめ込まれている。

ドイツ・ケルン大学のフランチィスカ・エームケ教授が昨年9月、関西大学の招きで来日した際に持参した写真を北川央・大阪城天守閣研究副主幹が鑑定し、豊臣期の大坂を描いたものと確認した。

描かれた景観の年代は、天守閣が望楼式になっている事や、秀吉没後に他の場所へ移築された「極楽橋」が描かれている事などから、秀吉の晩年から豊臣家滅亡までの慶長年間(1596〜1615)とみる説が有力だ。

大坂城を中心に、四天王寺住吉大社などの寺社、人々が行き交う船場の街並みが鮮やかな彩色で描かれている。

制作年代は、構図や技法などから、豊臣家滅亡後の17世紀半ばとする見方がある。しかし、エームケ教授は「徳川幕府の目が厳しかった当時、豊臣の時代を礼賛するような絵を描けたとは思えない」として、画中に見える紋などから、秀吉に重用された加藤清正が没年の慶長16年(1611)までに描かせたものと推測する。

落款はなく、作者は不明。京都を描いた狩野永徳狩野派による屏風に比べると人物描写が類型的で、建物の描き方も洗練されていない。

しかし、「豊臣大坂城を描いたものとしては最古。歴史的価値は高い」(北川さん)という認識は一致しており、博物館、関西大学、大阪城天守閣は今後も共同研究を続ける。

― ◇ ◇ ◇ ―

→※(参照)「豊臣期大坂図屏風」(関西大学のサイトから)

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秀吉、安堵状に「関白」の署名 山形大教授、京で発見(京都新聞2007-11-08)

豊臣秀吉の花押が入った安堵状

豊臣秀吉室町幕府将軍が寺社の領地を保証した「安堵状」を巻物にまとめた古文書を、山形大学の松尾剛次教授が京都市西京区の浄往寺で発見した。発見例が少なく「重要文化財級」の史料という鎌倉時代の寺社の境内図が添えられている。秀吉安堵状には花押(署名)と共に「関白」とあり、通常は「秀吉」が多い事から珍しいとされる。

松尾教授は、寺社の領地内にある建物を記した境内図は、寺が領地保全を願い出る際に“証拠”としたと考えられると指摘。「境内図安堵状が併せて見つかった事は、中世の領地保証の仕組みを解明する手掛かりになる」としている。

松尾教授によると、古文書は、秀吉室町幕府の9代足利義尚ら三将軍が同寺の領地を保証したそれぞれの安堵状を切り張りして1巻の巻物としている。包紙には秀吉を表す「関白」墨書き朱印が押されていた。

浄往寺は奈良・西大寺の末寺で、丹後国と山城国の境という当時の交通の要所に位置し、律宗の寺院では京で最も栄えた。松尾教授は学生時代から同寺に注目、交渉を重ねた末に漸く許可を貰い、昨年から所蔵物を研究していた。

山形大学では資料のレプリカを作成し、実物と共に一般公開する予定。

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伏見城石垣 参道にごろり 桃山御陵 工事で出土、宮内庁が「展示」(京都新聞2007-10-29)

下水道工事で見つかった伏見城の石垣

京都市伏見区桃山町の桃山御陵の参道で、下水道敷設工事中に、伏見城の石垣とみられる石が29日までに多数見つかった。宮内庁桃山陵墓管区事務所は、市民に見てもらうため、石を参道脇に並べ展示している。

石は花崗岩の切石で、40個程が崩れ落ちた状態で見つかった。大きさも様々で、一辺40p〜1・8m。石を切り出す時のくさびの跡が残っていた。

京都市文化財保護課によると、一帯は伏見城の大きな堀には当たらず、本丸の西南にある三の丸付近とみられる事から、三の丸の斜面に積まれた石垣ではないかとみている。

同事務所は「地域の歴史を伝える貴重なものなので、説明板を設置し、恒久的な展示にしたい」と話している。

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史料69点語る 成田氏栄枯盛衰 行田市郷土博物館開館20周年記念展(東京新聞2007-10-22)

行田市本丸の市郷土博物館で、開館20周年を記念して企画展「忍城主成田氏」が開かれている。同博物館の企画展で成田氏を取り上げるのは初めて。11月25日まで。

成田氏平安中期頃、現在の熊谷市上之に館を構えた武蔵武士の一族で、源平合戦などで武功を立てて鎌倉幕府御家人の地位を築く。15世紀後半頃に現在地に忍城を築いたとされる。

南北朝から室町時代戦国時代にかけては、有力戦国武将の間を変転し生き残るが、天正18年(1590)の豊臣秀吉小田原北条攻めの際、石田三成による「忍城水攻め」を受け開城。最後の城主・成田氏長は下野国(現在の栃木県)の烏山城主に移封され、成田氏は絶える。

同企画展では、成田氏の記載がある鎌倉幕府編纂の歴史書『吾妻鏡』をはじめ、成田氏系図成田氏に羽生への出兵を命じた上杉輝虎(謙信)書状忍城水攻めの際の豊臣秀吉の禁制を写した立て札、忍城出土品など69点が展示されている。

同博物館学芸担当の鈴木紀三雄さんは「成田氏忍城築城から一貫して城主だった戦国武将。これは異例で、戦国史研究が進み、様々な史料から成田氏の栄枯盛衰を探ってみた」と企画展の狙いを語る。

11月4日には同展をテーマにした講演会がある。月曜休館。また、行田、川越両市と寄居、嵐山両町、東京都葛飾区の博物館、歴史館の5か所で「関東の戦国を知る」展示会が開かれており、5館のスタンプラリーも実施している。

→※(参照)「甲斐姫や武者、勇ましく 歴史絵巻で見物客魅了 行田で時代まつり」(埼玉新聞2006-11-14)

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権力を誇示、「太閤堤」堂々 宇治川で大規模な護岸発見(京都新聞2007-09-05)

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京都府宇治市菟道の宇治橋下流で、豊臣秀吉が築いた太閤堤とみられる大規模な護岸=写真=が見つかったと5日、同市教委が発表した。対岸の太閤堤と同じ宇治川上流の石を用いており、秀吉が宇治川を付け替える際に造らせたと推定される。急流が直接に当たらないよう石出いしだしを設けたり、石積みが崩れないよう杭を使っており、当時の治水技術が窺える。水に没しない部分にも装飾用の板石を並べており、市教委は「権力を示したいという秀吉の思いの表れでは」とみている。

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最古の『洛中洛外図屏風』 大永5年制作の可能性 歴史民俗博物館(NHKニュース2007-08-31)

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京都の景観を色鮮やかに描いた『洛中洛外図屏風』のうち、最も古い作品が何時描かれたのか、絵の内容から特定する研究が行われ、室町時代大永5年(1525)に描かれた可能性が高い事がわかりました。

『洛中洛外図屏風』は、室町時代から江戸時代にかけて描かれた凡そ100点の作品が残され、都での暮らし振りや街の移り変わりを知る貴重な資料となっています。

千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館は、このうち享禄3年(1530)前後に描かれ、最も古いとされる重要文化財の作品について、絵の内容から制作過程を探る研究を進め、今日東京で発表しました。

先ず注目したのは、室町時代管領という権力者の地位に就いていた細川家の屋敷の中央に座っている若い男性です。

この時期、若くして細川家の当主になったのは大永5年(1525)4月に18歳で当主となり、半年後に亡くなった細川稙国という人物だけで、この絵は同年に描かれた可能性が高い事がわかりました。

また、絵の片隅には絵師の姿が描かれ、当時、狩野派の中心だった狩野元信が住んでいた場所と一致する事から、この作品は元信が描いたと推定しています。

博物館の小島道裕准教授は、「今後は時期のわかる歴史資料としてこの作品を扱う事ができるようになった。他の洛中洛外図についても登場人物に着目した研究を更に進めたい」と話しています。


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京とキリシタンの歴史知って 中京の牧師ら本出版(京都新聞2007-07-26)

完成した本を手にする杉野さん(左)と嶋崎さん

京都のキリシタン史跡を紹介する本が初めて出版された。京都といえばお寺や神社が有名だが、長崎で殉教した「日本二十六聖人」には京都で捕らえられた信者も多く、キリシタンの墓石も残る。キリスト教関係者は「京都のキリシタンの歴史を知るきっかけにして欲しい」と期待している。

京都洛西バプテスト教会牧師の杉野榮さん=京都市中京区=が取材し、まとめた。3年前に大病を患った際、苦悩の中でも弾圧に屈しなかった信者を思い、京都のキリシタンの存在や史跡を紹介する事にした。

写真はカメラマンの嶋崎賢児さん=山科区=が担当した。長崎市出津の隠れキリシタンの子孫で、キリシタンの足跡を伝える活動に取り組んでいる。

『京のキリシタン史跡を巡る―風は都から』は洛中、北大路、東山・鴨川、洛西、京都周辺に分けて約40か所の史跡を辿った。中京区蛸薬師通室町西入ルの南蛮寺跡には石碑がある。南蛮寺安土桃山時代に建設された和風3階建て。その美しい姿は狩野元秀扇面図に描かれている。下京区岩上通綾小路の石標「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」はこの地域で医療を担った神父が長崎で殉教した史実を刻んでいる。

東山区川端通正面の鴨川沿いには「元和の大殉教」を偲ぶ碑が建っている。大殉教は元和5年(1619)10月に異教徒として捕らえられた52人が、六条河原で十字架に括り付けられ、火で処刑された事件だ。北区一条通西大路東入ルの地蔵院には蒲鉾型の珍しい形をしたキリシタンの墓碑も残っている。

本にはキリシタンの遺品も載っており、キリシタンの隠れた歴史に触れられる。杉野さんは「キリスト教信者に向けた本ではない。市民に京都のキリシタンの存在や真相を知って欲しい」と話している。

三学出版刊。四六判、127ページ。1260円。問い合わせはキリスト教文化資料館へ。

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吉川経家銅像の原型 小学校に寄贈 彫刻家奥谷さん(日本海新聞2007-07-25)

吉川経家像の石膏原型を設置する奥谷さん

鳥取城を守って羽柴秀吉と戦い、自刃した吉川経家の銅像を造った際、原型として造られた石膏像が21日、鳥取市円護寺の中ノ郷小学校に寄贈された。

経家は、石見福光城主吉川経安の嫡男で、天正9年(1581)3月に鳥取城に入城。同年10月、城を包囲した秀吉軍の兵糧攻めに遭って切腹した。銅像は、自らの命と引き換えに、飢えに苦しむ城兵や領民を救った経家の功績を顕彰するため、有志らが平成4年(1992)年に吉川経家公銅像建立委員会を設立して運動を展開し、翌年10月に鳥取市東町の鳥取武道館敷地内に建立された。

石膏の原型は、日展会友の彫刻家、奥谷俊治さん=北栄恵町松神=が約1年間かけて製作し、高さ2・6m。鎧姿で城下を見守るように仁王立ちしている。

銅像製作後は奥谷さんがアトリエに保管していたが、奥谷さんの「地元で役立ててもらえれば」との気持ちから同委員会が仲介し、経家の墓に近い同小への寄贈が決まった。

石膏原型は、アトリエから軽トラックで同校に運ばれ、PTAの会員や同委員会の会員ら17人が奥谷さんの指示を受けながら、校舎2階のメモリアルホールに設置された。

「子どもたちに、地元の歴史を学ぶ教材として親しんで欲しい」と衣笠校長。奥谷さんも「学校のシンボルとして保存され、子どもたちに地元の歴史を身近に感じてもらえたら嬉しい」と話していた。

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「女房に不満 言語道断」 秀吉の妻を励まし “人情家”信長の書状(中日新聞2007-07-13)

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織田信長豊臣秀吉の妻おねに差し出した書状が、名古屋市東区の徳川美術館で21日から公開される。「こんな器量の良い女房に不満を言う秀吉はけしからん」という趣旨で、秀吉「はげねずみ」と呼ぶなど極めて私的な内容ながら、信長の「公印」が押された珍しい史料。戦後は所有者が転々とし、一般公開は今回が初めてとなる。

書状は、安土城に住んだ天正7年(1579)〜10年(1582)に書かれたとみられる。土産物を持参したおねに礼を述べ、おねの美貌が前回対面時より「十の物廿(二十)ほと」、つまり2倍良くなったと褒めている。一方で、秀吉が度々おねへの不満を漏らす事を「こん五たうたん」(言語道断)と批判、何処を訪ねてもこれ程の妻を迎えるのは、「はけねすみ」には難しかろう、と記す。

秀吉のあだ名は「サル」が有名で「はげねずみ」はこの書状だけ。また、朱印「天下布武」信長が部下への命令書などに押した公印で、女性宛ての私的な手紙に押された例は他にないという。

書状は戦前から個人が所有し、昭和9年(1934)に国の重要美術品に認定。研究者らには内容も知られていたが、戦後は実物が一般の目に触れる機会はなかった。

同美術館の並木昌史学芸員は「冷酷非情といわれる信長像と違い、人情味溢れる一面が感じられ、面白い」と話す。戦国武将に詳しい静岡大学教育学部の小和田哲男教授は「おね宛の書状自体珍しく、私的な内容への押印も興味深い。私も実物を見た事はなく、貴重な機会だ」と評価する。

書状が公開される同美術館の企画展「天下取りへの道―戦国の武将たち」は21日から9月2日まで。

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文禄堤 秀吉の堤防工事の跡は今、町の中(産経新聞2007-06-11)

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天下をとった豊臣秀吉は京に聚楽第を建て、方広寺の大仏を造り、山城の伏見城を大改修していた。そんな時に起こったのが、いわゆる「慶長の大地震」。文禄5年(1596)閏7月、秀吉が築いてきたものが、文字通り音を立てて崩れた。方広寺の大仏も改修中の伏見城も…。

しかし、秀吉のパワーは凄い。直ぐに再建にかかる。この際、淀川の堤防も改修されたという。その名残が淀川左岸に造られたこの文禄堤だ。毛利輝元小早川隆景吉川広家ら、戦国大名に命じて堤防を改修させた。そして堤防の上には全長約27qの道路を造った。これを利用して大坂から伏見城までの陸路のとして利用する事になる。それまでは淀川の船が主な直通の交通だっただけに、その後の大坂の発展の原動力になった事は言うまでもない。

京阪電車守口駅を北西側へ出ると目の前に高架橋が見える。明治の河川改修で淀川は、遥か彼方へいってしまったが、これが今も残る文禄堤。京阪電車と平行するようにある堤に対して、駅から北西に走る道路が交差する所で、近年、堤を削ってこの道を通している。そのため小さな「本町橋」を架け、堤の上の道路を繋いでいるのだ。

堤の上は幅7m余りの細い道が通っており、両側には民家が建っているが、嘗ては守口宿の旅館が並んでいたという。全長50m余り、嘗ての面影を留めている。

文禄堤ができると、その後は堤に沿って「京街道」も造られ、大坂と京を結ぶ陸路が整備されていった。本来は秀吉大坂城伏見城を結ぶ軍事道路という意味合いもあって築いた文禄堤だったが、豊臣家の滅亡の際もこの道路が使われている。

『徳川実記』「台徳院殿御実記」巻30 慶長19年11月7日条の中に文禄堤が登場。大坂冬の陣文禄堤を巡る徳川方大阪方のせめぎ合いが描かれている。

世に傳ふる所(=『摂戦実録』からの伝聞)は。是より先に京へ往来の街道狭故。田宮に堤を築き其便を得せしめられしを。大坂城兵は防戦の便りよからずとて。密に其堤を切て落せと評議して。根来の正徳寺を部将として二百餘騎出勢せしが。かねてかくあるべしと知しめし。濃州勢を枚瀉(=枚方)に屯させられしかば。城兵を追ちらし首數級を得しとぞ。
大坂方は堤を壊して京からの徳川方の攻撃を寸断しようと試みたが失敗したという事だろう。駅前の喧騒の中に、秀吉の遺産は現在もデンと構えている。

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南朝の伝承・遺跡 検証(朝日新聞2007-06-11)

長慶天皇の墓とされる前で読経する「天川を学ぶ会」のメンバーたち

◇「長慶天皇の墓」視察も/天川村のグループ

天川村のグループが、村内に多く残る南朝にまつわる伝承を現地調査で検証する事に取り組んでいる。南北朝時代に劣勢だった南朝方は吉野の山中に逃げ込む事が多く、断片的な歴史しか伝わっていない。メンバーは「歴史書に残らなかった、日本の陰の歴史を発掘し、後世に伝えたい」と張り切っている。

グループは、2年前に結成された「天川を学ぶ会」。20歳代から80歳代まで約50人が会員で、月1、2回のペースで視察会や勉強会を開いている。広い村内は集落ごとに様々な伝承があり、情報交換を兼ねて会員が交代で講師を務め、自分で文献などを探し出して発表する。

5月末にあった視察会の講師は民宿を営む堀口善昭さん。テーマは「南朝3代目の長慶天皇の伝承」。堀口さんは「昭和20年代まで、長慶天皇の命日に御廟所で地元の旧家が祀っていた記憶がある」と言う。この日は、約15人が山中の廟所を訪ねた後、長慶天皇が自害したとされる「めぐり石」を回った。

長慶天皇(没時は法皇)は南北朝が合一した後の応永元年(1394)に52歳で亡くなったとされるが、堀口さんによると、北朝方との戦いに敗れ、山中に隠れるように御所を構え、北朝方に追われて自害したという。

山中深くの廟所は、墓石らしい丸い石が2つと外構の石数個があるだけ。「昔は4畳半程度の広さがあり、木の柵で囲まれていたんだが」と堀口さん。祀っていた旧家が村外に転出し、廟所は荒れ放題だ。

だが、墓石に刻まれた文字は「後醍醐帝」と読める。「天川では、南朝皇族の足跡は何故か全て後醍醐天皇の伝承という事になっている」と会員の1人が解説した。

こうした伝承に根拠が無いわけではない。村内には、南朝仮御所跡とされる河合寺かごうじからは北朝方の攻撃で焼けたと見られる刀などが発見され、長慶天皇の「寺を再建せよ」という綸旨も村に残る。村内から下流の十津川村にかけて長慶天皇を祀った国王神社が数か所点在している。

「学ぶ会」の事務局のある同村地域政策課は「伝承、遺跡、文献を点と線で結ぶ事で、『正史』には現れない、このままでは消え去ってゆく歴史の語り部になりたい」と話している。


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高山右近像:キリシタン大名の銅像、大阪・玉造教会から小豆島教会に(毎日新聞2007-06-02)

◇十字剣持ち、凛々しい姿 やっとこの地に帰って来てくれた

香川県土庄町渕崎のカトリック小豆島教会に5月28日、戦国武将キリシタン大名としても知られる高山右近銅像が設置された。

信仰心の強い風土を持つ小豆島は隠れキリシタン所縁の地でもあり、江戸中期頃、「小豆島八十八か所霊場」ができる以前はキリシタンの島であり、右近潜伏の地でもあった。

設置された銅像は大阪市中央区にあるカトリック玉造教会から移設された。高さ2m、重さ約250sの立像。教会関係者ら約20人が見守る中、トラックから吊り上げられ、慎重に台座に据え付けられた。

銅像は10年程前に、兵庫県西宮市のカトリック関係施設から玉造教会へ移されたが、同教会には既に右近の像があったため、移設先を検討していた。大阪府高槻市の「高槻高山右近研究会」のメンバーや「小豆島キリシタン」研究家らの働きかけで、今回の移設が実現した。修復を終えた立像は十字剣を押さえる凛々しい姿をしている。

「小豆島キリシタン研究会」会長、藤井豊さんは「この地にやっと帰って来てくれたという思い。毎日見る事ができて嬉しい。地元所縁の右近の事を多くの人に知ってもらいたい」と喜びを語った。

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吉田城石垣の刻印末裔が確認(東海日日新聞2007-06-03)

福島家刻印を確認する末裔・福島正秀さん

豊橋公園内・吉田城石垣戦国武将らの刻印が残っている問題で、豊臣秀吉の家臣として名高い福島正則の末裔が2日現地を訪れ、福島家刻印を確認した。同じ福島家刻印が入った石が名古屋城石垣にあり、同質の花崗岩であることも確かめ、「蒲郡市西浦町の石に間違いない」と太鼓判を押した。

元蒲郡市職員で郷土誌調査員、壁谷善吉さんが、名古屋城が3年後に築城400年を迎えるのを機に、吉田城との関係や西浦石の存在をPRする運動を行っており、歴史ロマンが広がり始めた。

吉田城を訪れたのは福島正則から13代目の直系の子孫で、早稲田大学高等学院教諭で早大講師の福島正秀さん。父親の福島正章氏が昭和30年代、第一銀行(第一勧業銀行の前身)豊橋支店長だったことから、半年程豊橋市に住み、豊城中学校に通った事があるという。

壁谷さんらの運動に応えて訪れた。この日、蒲郡市西浦町の西浦海岸で、埋もれている福島家刻印入り石を確認、その足で吉田城に立ち寄った。

福島氏は「私は半年だったが、弟たちはもう少し長く豊橋で暮らした」と懐かしそうに語り、壁谷さんの案内で北御多門(豊川)近くの石垣福島家刻印と対面した。「西浦海岸で見た石と同じ花崗岩だ。刻印名古屋城と同じもの。素晴らしい」と感想、「2代将軍徳川秀忠を泊めるために堅固な城に改築する必要があったのだろう」。

吉田城にはその他、福島正則と同郷の蜂須賀小六の嫡孫・至鎮刻印毛利家刻印などが確認されている。壁谷氏は「西浦石の使われ方を解明する事で、当時の様子を物証によりはっきりさせたい」と意欲的に語る。
※(参照)→福島正則の若き日の姿見つかる 清洲城主務めた戦国武将(中日新聞2009-04-26)
※(参照)→福島正則の検地帳を初公開(中国新聞2007-03-16)


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新田義貞の鎌倉攻めに因み「鏑矢祭」(上毛新聞2007-05-08)

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武将・新田義貞鎌倉攻めの故事に因んだ鏑矢かぶらや祭」が8日、太田市の生品神社で行われ、地元の生品小学校6年生の男子児童60人が凛々しい姿で青空に矢を放った=写真。

同神社は、義貞が元弘3年・正慶2年(1333)5月8日、鎌倉攻めに際して旗揚げした場所とされている。祭りは鎌倉の方角に矢を放ち吉凶を占った言い伝えに倣い、毎年この日に行われている。

児童は白い鉢巻きと袴姿で整列。義貞役を務めた9代目の祭式師、茂木晃さんの号令に合わせ、弓を引いた。同校の女子児童らが見学に訪れ、男子の勇姿を見守っていた。

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火縄撃つ武士像完成 鉄砲伝来の南種子・門倉岬 南種子中教頭の屋田さん制作(南日本新聞2007-05-06)

設置された鉄砲伝来を偲ばせるブロンズ像

日本への鉄砲伝来の地・南種子町の門倉岬に、火縄銃を構えた武士のブロンズ像を同町が設置、観光客の記念撮影の場となっている。同町は「今後も門倉岬周辺の観光整備を進めていきたい」としている。

ブロンズ像は平成18年(2006)の町政施行50周年記念事業の一環。門倉岬は町内でも宇宙センターと並ぶ観光名所だが、鉄砲を偲ばせるものがなかった。平成17年度(2005・4〜06・3)の南日本美術展彫刻部門最優秀賞や日展特選などの受賞実績を持つ彫刻家の屋田光章さんが昨年、南種子中学校に教頭で赴任したことから、ブロンズ像の制作を依頼した。

屋田教頭は時代考証など研究を重ね、約3か月掛かって制作。4月下旬に同地に設置された。「鉄砲を撃っている像は島内にはなく、火縄銃の強さや怖さを形に表した。鉄砲伝来の場所と戦いの場面が焼き付けられるのでは」と屋田教頭。

ゴールデンウイーク中には門倉岬にも観光客が多く訪れており、ブロンズ像前で写真を撮ったり、見学しながら歴史に思いをはせていた。

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山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)

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武田信玄の家臣・山本勘助が実在した事を証明する下知状が、伊那市の長谷公民館内収蔵庫に保管されている。NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、地域住民らの関心を集めそうだ。

下知状(弘治2年=1556)は、武田が長谷の名家黒河内八郎右衛門に宛てたもの。神野峯城(現飯田市)を攻めるため、山本勘助を大将に、浪人を集めて戦う用意をしろという内容。山本勘助の案内役も務めるように添えられ、文面から山本勘助の名がはっきり読み取る事ができる。赤い判が押されている事から、朱印状とも呼ばれる。

伊那古文書研究会長の久保村覚人さん=伊那市荒井=が解読し、27日夜にあった第1回入野谷講座で複写した下知状を公開した。

久保村さんは「高遠城にも『勘助曲輪』が残っている。山本勘助が実在したという貴重な古文書である」と話した。



※(参照)→「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)
※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

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