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『東郷荘絵図』“丸ごとガイド”(朝日新聞2009-05-20)

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◇鎌倉時代にタイムスリップ

いざ鎌倉時代!郷土の中世へタイムスリップ―湯梨浜町は、鎌倉時代中期に東郷池周辺を描いた『伯耆国河村ごおり東郷荘下地中分したじちゅうぶん絵図』解説ガイドを作成した=写真。高校の日本史の教科書に何度も掲載された貴重な歴史資料を使う事で、地域の歴史に誇りを持ってもらうのが目的。現在の航空写真や町内の遺跡の解説も掲載しており、町企画課は「ガイドを片手に町内の歴史散歩を楽しんで」と呼びかけている。

◇湯梨浜町が作成 郷土の歴史、歩いて楽しんで

絵図は正嘉2年(1258)、「東郷荘」の領有権を巡って対立していた領家地頭の支配地を明確にするため描かれたもので、絵図には朱色の線が引かれ、鎌倉幕府執権北条長時と、執権の補佐役だった連署北条政村花押が印されている。

領家は京都の松尾神社(現・松尾大社)で、地頭東郷氏と考えられている。幕府御家人として勢力を伸ばした東郷氏荘園を侵していると松尾神社幕府に訴え、支配地を折半する事で和解した事を示しているらしい。

絵図荘園の衰退を示す貴重な歴史資料といい、ガイドは、東京大学史料編纂所が所蔵している模写本(縦127cm、横98cm)を原本にして作成した。ガイドは45cm四方の正方形だが、持ち運びに便利なように1/9の大きさに折りたためるデザインにし、現在の東郷池周辺の航空写真も掲載して、地形の変化が分かり易く学べるよう工夫したという。

裏面では絵図に記された地形や建築物を説明した。絵図に一宮と記されたのは現在の倭文しとり神社で、境内に隣接する伯耆一宮経塚からは銅経筒や金銅仏などが出土して国宝に指定されているなどと書かれており、理解を助けてくれる。

町は6000部を印刷。歴史講習会の資料などに活用するほか、希望者には役場や町図書館などで無料配布している。町企画課は「ガイドを片手に、鎌倉時代に思いをはせながら歴史を読み解く町歩きなどに利用してもらえれば、有り難い」と話している。問い合わせは同課企画係へ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』

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※(関連)→『東郷荘絵図』を「徹底ガイド」 湯梨浜町作成(日本海新聞2009-05-13)

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学習教材用DVD:秀吉の太田城の水攻め、CG映像で再現 作製し配布/和歌山(毎日新聞2009-05-14)

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◇観光振興など活用期待―和歌山大紀州経済史文化史研究所

和歌山大学紀州経済史文化史研究所(和歌山市)は、天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉雑賀衆を攻め滅ぼした「太田城の水攻め」を、コンピューターグラフィックス映像にして再現した学習教材用DVDを製作し、和歌山市立の小中学校や県立高校、各図書館などに約1000枚配った。

DVD「秀吉の太田城水攻め―中世の自治から近世の平和へ」(30分)。日本史の授業や歴史ドラマの発掘を通した観光振興などに、活用が期待されている。

同研究所によると、秀吉は天正13年(1585)、現在のJR和歌山駅東側にあった太田城の周囲を堤で囲い、水を入れて攻めた。堤は全長約7km、土量は約23万㎥に上った。鉄砲の使い手として知られ信長戦国大名に抵抗してきた雑賀衆を滅ぼした戦いは、中世の自治支配が終焉する節目となった。

映像は、現存する堤防遺跡の調査を基に、ウェブデザイン会社「BEE」(和歌山市)が再現。当時の状況▽現在の市街地に置き換えた状況▽地籍図に描かれた水攻めの遺跡―などを、分かり易く解説している。

上村雅洋・同所長からDVDを贈られた山口裕市・県教育長は「郷土の歴史を知る事は大事な事。高校生がもっとフィールドに出て学習する事ができ、有り難い」と話していた。監修した海津一朗・同副所長は「学校を軸にして地域文化を広めていきたい」と話した。

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※(参照)→「秀吉の太田城水攻め 中世の自治から近世の平和へ」(和歌山大学紀州経済史文化史研究所/DVD)



※(関連)→和歌山大が郷土学習用DVDを作成 豊臣秀吉の太田城水攻めが題材(産経新聞2009-05-12)


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『東郷荘絵図』を「徹底ガイド」 湯梨浜町作成(日本海新聞2009-05-13)

『東郷荘絵図』を分かり易く解説した『徹底ガイド』

鳥取県湯梨浜町は、約750年前の鎌倉時代中期に描かれた『伯耆国河村ごおり東郷荘下地中分したじちゅうぶん絵図(東郷荘絵図)』『徹底解説ガイド』を作った。当時の東郷池周辺の地形や地名、人々の暮らしを読み解く事ができ、現在の地形などとも比較。中世の湯梨浜に“タイムスリップ”する事ができる。

『東郷荘絵図』は、東郷池を中心に成立していた荘園「東郷荘」の支配地域を明確にするために描かれた。日本史の教科書にも度々取り上げられている。

現存する松尾神社や倭文しとり神社のほか、東郷池で小舟に乗って漁をする人の姿も描かれ、当時の人々の暮らしが現代とも繋がっている事が見て取れる。

絵図の地形は現在とほぼ同じだが、寛文元年(1661)に現在の河口に流れるように改修された天神川は、改修前の元の姿が描かれており、景観の改変も知る事ができる。

絵図と現在の航空写真を対比し、鎌倉時代と現代の地形の共通点を明確にしたほか、絵図に描かれた寺社や地名、領地争いの様子などを説明。寺社などは、現存或いはその跡と見られるものの写真を掲載して“繋がり”を分かり易く解説している。

6000部作製し、役場や町図書館、旅館組合の観光案内所などで無料配布している。町は「ガイドをヒントに、歴史を読み解く町歩きなどに活用して欲しい」と話している。

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※(参照)『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』

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※(関連)→『東郷荘絵図』“丸ごとガイド”(朝日新聞2009-05-20)

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和歌山大が郷土学習用DVDを作成 豊臣秀吉の太田城水攻めが題材(産経新聞2009-05-12)

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和歌山大学(和歌山市栄谷)の紀州経済史文化史研究所が学習教材用DVD『秀吉の太田城水攻め 中世の自治から近世の平和へ』を作成した。今春から県内の高校や同市内の小中学校に計約1000部を配布している。

DVDは、天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉太田城(現在の同市太田)を水攻めした際、構築した堤防(出水堤防)の遺跡調査結果に基づきコンピューターグラフィックスで当時の様子を再現。武装集団が自治していた中世の和歌山が秀吉天下統一による支配へ移行する流れが約30分間で解説され、同研究所の海津一朗副所長は「郷土の歴史や文化を学ぶ教材としてだけでなく、和歌山の観光プロモーションにも役立てたい」と話している。

鑑賞した同大学の女子学生は「DVDなどの視聴覚教材はイメージが沸き、分かり易いと思う」と話していた。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→「秀吉の太田城水攻め 中世の自治から近世の平和へ」(和歌山大学紀州経済史文化史研究所/DVD)



※(関連)→学習教材用DVD:秀吉の太田城の水攻め、CG映像で再現 作製し配布/和歌山(毎日新聞2009-05-14)


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新田義貞に因み鏑矢祭 太田・生品神社(朝日新聞2009-05-10)

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太田市新田市野井町の生品いくしな神社で8日、鎌倉幕府を攻め滅ぼした武将・新田義貞に因んだ鏑矢かぶらやがあり、地元小学生が空に向かって一斉に矢を放った。

生品小学校の6年生男子64人が、約300人の観客を前に、先月から練習してきた成果を披露。「鶴翼」「魚鱗」の掛け声に合わせ、移動し陣形を構えた。

佐伯朋哉くんは「早く6年生になって参加したかったので嬉しかった」と話した。茂木晃さんは指導に携わって26年目。参加する子どもの数は、団地造成で当時から倍増したという。「地域にとっては嬉しいが、動きが揃う様指導するのは大変」と笑った。

祭り役員の松井静衛さんによると、祭りは元弘3年・正慶2年(1333)のこの日、義貞が同神社で倒幕の旗揚げをしたという伝承に因むという。



※(関連)→新田氏所縁の太田・生品神社で鏑矢祭(上毛新聞2009-05-09)
※(関連)→太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ(東京新聞2009-05-09)


 

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「慶長出羽合戦」知って マップと小冊子作製/上山市(河北新報2009-05-09)

上山が「天地人」所縁の地である事を紹介したマップ(右)と小冊子

NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続山形城主最上義光が戦った慶長出羽合戦(長谷堂合戦)について知ってもらおうと、上山市は所縁の地の散策マップと、合戦で重要な役割を果たした高楯城(同市鶴脛町)を紹介した小冊子を作製した。

マップ『慶長出羽合戦 兼続と義光とかみのやま』はA3判で八つ折り。上山城を中心に、長谷堂城跡、激しい攻防が繰り広げられた事を示す首塚など8か所を紹介している。湯沢市指定有形文化財『長谷堂合戦図屏風』に描かれた兼続義光が表紙になっている。

小冊子『高楯城を尋ねて虚空蔵山を歩む』と言う題名で、同市在住の郷土史研究家蔦谷栄三氏が文章と絵を担当。上山城の前身で、慶長出羽合戦の時に最上軍の砦だった高楯城の歴史などを15ページにわたって綴っている。

マップは無料、小冊子は300円。何れもJRかみのやま温泉駅観光案内所などで取り扱っている。市観光課は「上山が歴史的に重要な場所だった事を、観光客は勿論、地元の人にも知って欲しい」と話す。



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新田氏所縁の太田・生品神社で鏑矢祭(上毛新聞2009-05-09)

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新田義貞鎌倉攻めの故事に因んだ鏑矢かぶらや祭」が8日、太田市新田市野井町の生品いくしな神社で行われ、生品小学校6年生の男子児童64人が、雨雲を吹き飛ばす勢いで勇ましく矢を放った=写真。

元弘3年・正慶2年(1333)5月8日、義貞が同神社で倒幕の旗揚げをした際、鎌倉方向へ向け矢を放ち、戦の吉凶を占ったと云う。

児童は、新田氏大中黒おおなかぐろの紋入り鉢巻きに黒袴の凛々しい姿で登場。祭式師の茂木晃さんの号令に合わせ、「魚鱗」「鶴翼」のそれぞれの構えで南西へ向け一斉に弓を引いた。



※(関連)→新田義貞に因み鏑矢祭 太田・生品神社(朝日新聞2009-05-10)
※(関連)→太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ(東京新聞2009-05-09)


 

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太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ(東京新聞2009-05-09)

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新田義貞鎌倉攻め旗揚げをした地とされる太田市新田市野井町の生品いくしな神社で8日、鏑矢かぶらやが開かれた。黒袴に鉢巻き、たすき掛けの男子小学生64人が、竹製の弓で矢を2度、空に向けて放った。

義貞が元弘3年・正慶2年(1333)に挙兵した際、鎌倉の方角に向けて矢を放ち、吉凶を占ったという故事に因んだ行事。儀式を掌る茂木晃さんの指導で、地元の生品小学校6年生が4月から放課後に練習して臨んだ。同小の柳悠真くんは「伝統的な行事に参加で着て良かった。本番はちゃんと矢を放つ事ができ、練習して良かった」と話していた。



※(関連)→新田義貞に因み鏑矢祭 太田・生品神社(朝日新聞2009-05-10)
※(関連)→新田氏所縁の太田・生品神社で鏑矢祭(上毛新聞2009-05-09)


 

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悲劇の『照姫伝説』映す池 石神井公園(東京都練馬区)(憩いの名園)(東京新聞2009-05-02)

心地よい初夏の風に乗って、法螺貝と和太鼓の音が園内に響き渡る。石神井しゃくじい池に反射する目映い日の光を受け、煌びやかな姫らの行列が登場した。見守る来園者の数は十数万人。4月26日に開かれた「照姫まつり」は、石神井公園で最大のイベントだ。

しかし、その華やかな祭りの装いとは裏腹に、「照姫の伝説は悲劇に彩られているんですよ」と、公園を管理する東京都公園協会の三澤栄一さんは話す。

照姫は、現在の豊島、練馬周辺を支配していた石神井城主・豊島としま泰経やすつねの娘とされている。豊島家平安時代から続く南関東の名族だったが、室町中期に江戸城主・太田道灌と対立し、文明9年(1477)の江古田・沼袋原の戦いで敗れた。同年4月18日に石神井城は落城、照姫は池に身を投げた。

「毎年4月の終わりか、5月初めに、照姫が身を投げたとされる日を偲んで祭りが開かれるようになりました」(三澤さん)

祭りの主役である照姫と父、泰経夫妻役は住民の中からオーディションで選ばれた3人。公園周辺での行列を終え、園中央のステージで挨拶に立った照姫役の阿部友紀さんは「500余年の時を経て蘇った(照姫らの)姿を通して命の美しさを感じ取って頂けたら幸いです」と祭りの意味を伝えた。

行列では、照姫親子のほか、豊島氏の重臣とされる「石神井法貫」「板橋惣之介」「大泉忠憲」「滝野川種次」らの武将も登場。戦国の世に散っていったその名は、何れも周辺の地名に刻まれている。

公園が今に伝えるのは、そんな無常の歴史だけではない。照姫が眠っているとされる三宝寺池は武蔵野三大湧水池としても知られ、ヨシ、マコモといった水生植物が自然のままに繁っている。氷河時代の生き残りともいわれるミツガシワやカキツバタなどの植物も群生しており、戦前の昭和10年(1935)には「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定された。

ただ、自然遺産を保全するのは容易でない。「水の質や量を調整したり、外来魚を駆除したり、手入れは欠かせません」と公園サービスセンター長の樋口直行さんは強調する。

照姫まつりを見物していた杉並区の石井雅美さんは「子どもの頃、石神井公園の池は歴史と自然を包み込んでいるから輝いているんだと教えられました。今も大切な場所です」。そんな公園への感謝を口にする人は多い。



※(関連)→「照姫行列」で戦国絵巻再現 石神井公園で26日「まつり」(東京新聞2009-04-23)
※(関連)→艶やか照姫行列 練馬(東京新聞2007-05-14)

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「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)

信玄(晴信)が菅助に宛てた書状の一部。左端に「山本菅助との」とあり、その右隣に信玄の花押がある

戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助に宛てた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は昭和44年(1969)に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏に宛てた書状『市河文書』だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物が居た事は間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。

名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書『甲陽軍鑑』などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣としての菅助の存在を示す唯一の史料が『市河文書』だった。今回見つかった文書には『市河文書』と同じ「菅助」の名が記され、紙の材質や文書の書式などからも信玄が活躍した16世紀後半のものでほぼ間違いないという。

新たに見つかった文書を所蔵していたのは、安中市原市在住の真下正貴さん。昨年5月、蔵の整理中に『信玄公御證(証)文』と書かれた漆塗りの木箱を発見。中には5通の文書が年代順に張られた巻物1本が入っていた。

このうち信玄菅助に宛てた書状は2通。業績を褒め恩賞を与える内容と、重篤な状態にある家臣「小山田(出羽守信有)」の見舞いを命じる内容で、1通は「菅介」の字が使われていた。

武田家菅助宛てに出した朱印状1通では、菅助に足りない武具の支度を指示するなど、信玄が家臣として信頼していた様子が窺える。

残る2通は、武田家菅助の後継者といわれる「山本十左衛門尉」軍役を命じた朱印状と、徳川家康の次男「結城秀康」菅助の子孫と思われる「山本平一」に宛てた見舞いの礼状だった。この2通からは菅助の子孫の存在も明確になった。

調査を担当した県立博物館学芸員の海老沼真治さんは「菅助は上野国(現群馬県)から東信濃の動静に精通しており、高崎藩士の中に山本菅助の子孫を名乗る人物が居た事などから、菅助と群馬は深く関係していたと考えられる。多くの研究者の意見を聞きながら、1通毎に史実と照らし合わせてより詳しく研究したい」と話している。

見つかった文書は今後、群馬県の安中市学習の森ふるさと学習館で保存される。



※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

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福島正則の若き日の姿見つかる 清洲城主務めた戦国武将(中日新聞2009-04-26)

新たに見つかった福島正則の肖像画

戦国武将福島正則肖像画が、古里の美和町内の旧家から見つかった。福島家江戸初期に御家断絶となった影響から、現存する肖像画は少なく、これまで全国で3点しか見つかっていない。5月1日から町歴史民俗資料館で始まる「郷土の戦国武将展」で初公開される。

正則は、幼少から豊臣秀吉に仕え、清洲城主広島城主を務めたが、元和5年(1619)に城の石垣を幕府の許可なく直した罪で信州川中島に減封。その後、御家断絶となった。

見つかった肖像画は甲冑姿。胴には、福島家の家紋である桐が描かれ、鹿の角を付けた兜を被っており、関ヶ原の合戦で東軍先鋒を務めた荒々しさが表現されている。

調査した鎌倉崇志学芸員によると、画材などから幕末から明治期に描かれたとみられ、若々しい表情が特徴。床几しょうぎに腰掛けた姿などから、菩提寺である同町二ッ寺の菊泉院に残る肖像画を模写した可能性があるという。

鎌倉学芸員は「戦国武将肖像画が今になって見つかるのは珍しい」と話す。郷土の戦国武将展は6月末まで。5月3日〜7日は休館。入場無料。
※(参照)→吉田城石垣の刻印末裔が確認(東海日日新聞2007-06-03)
※(参照)→福島正則の検地帳を初公開(中国新聞2007-03-16)


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「照姫行列」で戦国絵巻再現 石神井公園で26日「まつり」(東京新聞2009-04-23)

照姫に選ばれた阿部友紀さん

室町時代の武将・豊島としま泰経やすつねの愛娘・照姫を偲んで行われる「照姫まつり」が26日、都立石神井しゃくじい公園(練馬区石神井台)などで行われる。最大の見処の「照姫行列」では、煌びやかな衣装の照姫や勇ましい武者に扮した約100人が練り歩き、戦国絵巻が繰り広げられる。

公開オーディションで選ばれたのは、照姫役に私立高2年生の阿部友紀さん、泰経役に会社員の田中穣さん、奥方役に幼児教室講師の伊藤澄子さん。

石神井城の城主だった泰経は、太田道灌に攻め込まれ、現在の石神井公園にある三宝寺池に飛び込み命を絶ち、照姫も後を追ったとされる。

照姫行列は同日正午に同公園内で出陣式を行い、西武池袋線・石神井公園駅などを回る。詳しくは、同まつり実行委へ。



※(参照)→悲劇の『照姫伝説』映す池 石神井公園(東京都練馬区)(憩いの名園)(東京新聞2009-05-02)
※(関連)→艶やか照姫行列 練馬(東京新聞2007-05-14)

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非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養(読売新聞2009-04-23)

供養塔の前で手を合わせる宇都宮富男さん(手前左)ら

◇「鶴姫」供養塔劣化進み移設

16世紀、豊前国の一部を治めた豪族・宇都宮鎮房の娘、鶴姫供養祭が命日の22日、吉富町小犬丸の宇賀貴船神社で営まれた。町指定文化財の供養塔(高さ約2・5m)の移設記念で、末孫や町民ら約50人が、非業の死を遂げた姫に思いを馳せた。

鶴姫は、豊臣秀吉の命で同国6郡の領主となった黒田孝高と、宇都宮氏の和議の証しとして、人質となった。しかし、天正17年(1589)4月22日、侍女ら13人と共に、廣津村(現在の吉富町広津)の千本松原ではりつけにされたという。江戸時代の19世紀になり、中津藩主奥平昌高が、姫の崇りを恐れて現地に供養塔を建立。その後、移設を繰り返す中で、野晒しのまま亀裂が入るなどし劣化が進んでいた。

このため、郷土史愛好家らで創る「吉富歴史文化の会」が、姫を祭神として祀る神社の傍らに移設して、保護しようと約10年前から計画。地元住民から土地の提供を受けるなどして実現し、風雨除けの上屋を設置した。

420回忌にあたる供養祭では、宇都宮氏の菩提寺の天徳寺(築上町本庄)の住職による読経が流れる中、参列者一人ひとりが、手を合わせ焼香した。

姫の末孫にあたる宇都宮富男さん=小倉南区平尾台ニ=は、妻の和子さんと参列し、「供養してもらって有り難い。先祖が浮かばれます」と感慨深げ。同会の太田栄会長は「地元住民でも(姫の)悲運を知らない人が多いので、石碑を大事に後世に残していきたい」と話していた。

※(参考)→豊前の名将 城井鎮房」(西南にっぽん歴史考)『読売新聞・九州発』
※(関連)→悲劇の姫君 鶴姫の供養祭 福岡・吉富町(西日本新聞2009-04-23)
※(関連)→「町民に知って欲しい」悲劇の鶴姫、22日420回忌/吉富町(西日本新聞2009-04-22)

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悲劇の姫君 鶴姫の供養祭 福岡・吉富町(西日本新聞2009-04-23)

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戦国時代の豊前(福岡県)で勢力があった豪族宇都宮氏の息女で、謀殺され、悲劇の姫君と伝えられる鶴姫供養祭が22日、所縁の福岡県吉富町の宇賀貴船神社であった。地元の文化団体が没後420年を記念し初開催した。

団体によると、天正15年(1587)に豊前の領主となった黒田孝高が同17年(1589)、中津城(大分県)で鶴姫の父鎮房を暗殺。人質だった14歳の鶴姫はりつけにした。その後、藩で領内で(注1)騒動が起こる度「鶴姫の祟り」と恐れられた。

注1 藩で
→○○藩という呼び方はあくまで江戸幕府が成立して以降の名称なので、この時期(=豊臣政権期)には存在しない。


戦後忘れ去られた地域の歴史に光を当てた供養祭。招かれた宇都宮氏の末裔の宇都宮富男さん=北九州市=は「鶴姫急度きっと、地元の祟り神から守り神になってくれるはず」と話した。

※(参考)→豊前の名将 城井鎮房」(西南にっぽん歴史考)『読売新聞・九州発』
※(関連)→非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養(読売新聞2009-04-23)
※(関連)→「町民に知って欲しい」悲劇の鶴姫、22日420回忌/吉富町(西日本新聞2009-04-22)

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「町民に知って欲しい」悲劇の鶴姫、22日420回忌/吉富町(西日本新聞2009-04-22)

鶴姫の遺体が眠るとされる石祠を指す太田栄会長。左後方は鶴姫の追善供養塔

中津藩主城主(注1)黒田孝高の謀略により、父親で豊前の豪族宇都宮鎮房と共に殺害された鶴姫420回忌にあたる22日、吉富町小犬丸にある宇賀貴船神社供養祭が営まれる。吉富歴史文化の会の呼び掛けで実現した。宇都宮氏の菩提寺である築上町本庄、天徳寺の溝口浩久住職が読経する。

注1 藩主
→○○藩という呼び方はあくまで江戸幕府が成立して以降の名称なので、この時期(=豊臣政権期)に「藩主」は存在しない。


天正15年(1587)、豊臣秀吉の命により豊前6郡の領主となった黒田孝高は、頑強に抵抗する宇都宮勢にてこずり、鶴姫らを人質に和議を結んだ。同17年(1589)4月20日、中津城に、鶴姫の父鎮房を招き謀殺。22日には、14歳の鶴姫はりつけにしたと伝えられている。

その後中津藩では、領主が変わっても、騒動が起こる度に「鶴姫の祟り」と云われるようになった。追善供養塔や宇賀神社(現・宇賀貴船神社)を建立し、地元の人は神社に鶴姫の石祠を造ったという。

吉富歴史文化の会は、町内で別々の場所にあった供養塔と石祠を一緒に祀る事を計画。昨年9月、神社の横に供養塔を移設・安置した。同会の太田栄会長は「供養祭を契機に、町民に広く鶴姫の悲劇を知ってもらいたい」と話している。

※(参考)→豊前の名将 城井鎮房」(西南にっぽん歴史考)『読売新聞・九州発』
※(関連)→非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養(読売新聞2009-04-23)
※(関連)→悲劇の姫君 鶴姫の供養祭 福岡・吉富町(西日本新聞2009-04-23)

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上泉伊勢守500年祭 柳生新陰流 剣聖「無形の位」(読売新聞2008-05-11)

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日本の代表的な剣術流派「柳生新陰流」の原型を編み出し、「剣聖」と称される上泉かみいずみ伊勢守生誕500年祭が10日、前橋市上泉町で開かれた。

生誕地の上泉城跡にある上泉自治会館前では、小雨にも拘わらず、伊勢守の子孫で、16代目の上泉一治さん(山形県米沢市)ら大勢の関係者が詰めかけ、銅像の除幕式が行われた=写真=。

高さ約2mの銅像は、伊勢守が自ら考案した割れ竹を革袋に入れた「袋竹刀」を手に、どんな状況にも応じられる「無形の位」の立ち姿。高さ約1・5mの黒御影石台に置かれ、隣に記念碑も建立された。

銅像を制作した前橋市の彫刻家・桑原秀栄さんは、「想定したのは50歳位の伊勢守。子孫の顔立ちや伊勢守の数少ない資料『影目録』などを参考に、約半年かけた。強さの裏に優しさを備えた『剣聖』を意識した」と話した。上泉さんも「出来栄えが素晴らしい。地域の皆さんの熱の入れようも凄い」と感動していた。

除幕式では、伊勢守が奉納したと伝わる獅子舞も披露されたほか、同日は桂萱中学校体育館で、式典や柳生新陰流22世宗家の柳生耕一さんらの兵法演武なども披露された。

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狛氏関連など中世文書並ぶ 府立山城郷土資料館で企画展(京都新聞2008-04-26)

山城の国人・狛秀綱の肖像画と、秀綱に上狛地域の土地を治める事を認めた織田信長の朱印状

京都府木津川市の府立山城郷土資料館企画展「中世文書の世界」が26日から始まる。山城国一揆の主導で知られる国人(在地領主)のこまの関連をはじめ、中世の山城地域を知る興味深い館蔵の文書62点が並ぶ。

狛氏関係では、応仁の乱で東軍主将を務めた管領細川勝元が文明2年(1470)、後に山城国一揆を率いる狛秀に対して応仁の乱戦功を褒めた文書や、細川家狛氏領地を認めたり、盗人成敗を讃えた文書も。の子孫の秀綱織田信長311石の領有を認めた書類は、信長本人の「天下布武」の朱印入り。数珠を片手に帯刀する秀綱肖像画もあり、国人クラスの武将の肖像としては全国的に貴重という。

他に正法寺(八幡市)の寺領を認める豊臣秀吉朱印状後奈良天皇が同寺に仏画を譲る際の文書と仏画の実物、戦国大名朝倉義景が寺に送った仏画観賞の礼状が並ぶ。南山城村田山集落に残る文書も展示される。

狛氏の文書に関して同館の伊藤太主任は「平等や自治で知られる国一揆だが、一方で代々、細川氏に仕えた国人の現実も分かる資料」と話す。同展は6月15日まで(月曜休館、5月5日は開館、7日に休館)。要入館料。

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忠広公座像「里帰り」 鶴岡の有志、熊本訪問(河北新報2008-04-24)

里帰りする加藤忠広公座像を前に説明する松田副会長

虎退治で有名な熊本54万石の名将、加藤清正の墓碑が残されている山形県鶴岡市から、清正親子を慕う住民が25日、熊本城築城400年祭が行われている熊本市を訪れる。清正の嫡男忠広座像を持参し、庄内で無念の最期を遂げた主君を「里帰り」させる。

一行は、「荘内加藤清正公忠広公遺跡顕彰会」の41人。顕彰会は、山形県指定史跡・清正公墓碑「五輪塔」がある天沢てんたく寺周辺の丸岡地区の住民で組織している。

熊本に向けて一行は、寺に伝わる忠広座像を携え、熊本城本丸御殿に一時的に鎮座させる。城内の加藤神社では、丸岡地区に伝わる「桐箱踊り」を奉納。熊本に伝わる「銭太鼓ぜんじゃこ踊り」がルーツという説もあるため、双方が踊りを披露し合うという。

顕彰会は明治45年(1912)に発足し、毎年7月に清正公大祭を行ってきた。墓の存在を巡る論争もあり、長く熊本とは疎遠だったが、寅年の昭和61年(1986)と平成10年(1998)に2度、熊本を訪問し、交流の機運が高まった。

結び付きを深めた逸話もある。平成4年(1992)、鶴岡市が国体サッカー成年男子の会場になり、丸岡地区の11世帯で熊本選手団約25人の民泊を受け入れた。チームは予想を覆す4強入りの大活躍。「2人の殿様が力を貸してくれた」と互いに喜び、草の根レベルで友情の輪が広がったという。

一昨年、顕彰会の松田安男副会長が熊本市内で行った加藤家に関する講演も、地元で改めて「清正以後」に目が向けられるきっかけとなり、「肥後加藤清正公忠広公顕彰会」が誕生。荒木章博代表は「大事に祭ってきてくれた山形の皆さんにお礼が言いたい」と感無量の様子だ。

松田副会長は「昨年に築城400年となった城に戻れて、忠広公も喜んでくれるはずだ」と話している。

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石垣造り伝統の技(朝日新聞2008-04-03)

高さ約2mの石垣の下には大人の手の平大の玉石を敷き詰め、軟弱な砂の地盤を強化していた

土佐藩幕末に築いた砲台跡が残る国指定史跡「西浜公園」(須崎市中町)で見つかった築造当時の石垣は、軟弱な砂地に土を入れて固め、大人の手の平大の玉石を敷き詰めた上に築かれている事が分かった。石垣の基礎構造の調査事例は少なく、貴重な資料として注目されている。4日から現地説明会が開かれる。

試掘調査で出土した高さ約2mの石垣を、市民に公開するため更に掘り下げて見つかった。県内では江戸時代初めに土佐藩の執政野中兼山が築いたとされる柏島かしわじま石堤(大月町)でも同様の工法で砂の地盤が強化されている。

調査にあたった県文化財課の松田直則チーフは、「石垣の角を合わせる算木さんぎ積みなどと共に土佐藩では石垣造りの伝統技術が江戸時代初期から継承されていた」と見ている。

見学会は4〜6日の3日間。各日とも午前10時〜10時20分と午後1時半〜1時50分の2回。

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石田三成の重臣・島左近、領国経営に深く関与(読売新聞2008-04-09)

石田三成が嶋左近らに領地経営に当たらせるなどとした古文書

◇三成の文書発見 重臣・嶋左近に年貢任せる

関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田三成が、重臣・嶋左近らに年貢収納を任せるとの内容の文書が見つかり、滋賀県長浜市の長浜城歴史博物館が9日、発表した。

左近「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と評された参謀で、三成と重臣の関係を示す貴重な資料になりそう。

文書は縦14cm、横44cm。三成佐和山城(同県彦根市)の城主だった16世紀末に書かれたらしく、県内に住む代官の子孫が所有していた。代官に対し、城を空ける事の多い三成に代わって左近ら3人の指示に従うよう記し、花押「八月二十三日」の日付があった。

数々の武将に仕官し、勇猛で知略に長けた左近は、三成に高禄で迎えられた。

三成の文書で左近の名が出てきたのは初めてで、静岡大学の小和田哲男教授は「左近の生涯は謎が多いが、領国経営に携わる姿が浮かび上がる。三成らの研究にとって画期的な発見」としている。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)「(8月23日付)今井清右衛門尉宛石田三成判物」

ishida-mitsunari_hanmotsu.JPG


  免相之弁ハ、嶋左近・
  山田上野・四岡帯刀
  両三人二申付候、右之三
  人之儀勿論誓詞之
  上可為順路候間、任
  其旨可相納候、三人
  方へも右之趣申付候也、  

   八月廿三日 三成(花押)

      今井清右衛門尉殿

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