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冥土への入り口は珍皇寺【小野篁 冥土通いの井戸】―京都 千年の誘い(産経新聞2006-07-17)

珍皇寺

『今昔物語』などによると、平安時代初めの官僚だった小野篁は、亡くなった母に会うため、冥界への入り口といわれた六道珍皇寺の井戸から毎夜冥土へ通っていたという。そのうち、閻魔(えんま)大王の『補佐官』のような仕事をするようになり、昼は宮廷官吏として働き、夜は冥土へという二重生活を続けていたそうだ。

小野篁が毎夜冥土へ通うのに使ったといわれる井戸

無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったり、閻魔大王の裁きの助言をしたりと、は冥土で力を発揮していたというが、この世でも学者、詩人、歌人としても有名で、現在の閣僚にあたる参議にまでなった。ただ、気性も激しく、遣唐使派遣を巡って嵯峨天皇の逆鱗に触れ、隠岐に流されたこともある。井戸は本堂脇の庭の奥にあり、蓋がされてある。当初から水はなく、から井戸だったようだ。因みに、出口は嵯峨にあった福生寺(廃寺)の井戸だったといわれる。

珍皇寺参詣曼荼羅図の右上には井戸が描かれている

毎年8月7日から4日間の精霊迎えの「六道まいり」では、数万人が連日狭い境内を埋め尽くす。「迎え鐘を撞く人は2時間前の早朝4時くらいから並んでおられます。今は午後11時までしか鐘をつけませんので、1人1回にさせてもらっているんです」と住職の坂井田良宏さん。その後ろには安土桃山時代の寺宝で、京都市の有形文化財に指定されている「珍皇寺参詣曼荼羅図」がかかっており、そこにもこの井戸が描かれてあった。

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山鉾巡行の一覧表も 三条小橋商店街 チラシ発行(京都新聞2006-07-12)

三条小橋商店街が作成配布している情報チラシ

三条小橋商店街(京都市中京区)は、祗園祭に合わせて、同祭の山鉾巡行の順番一覧表や加盟店のおすすめ商品を掲載した情報チラシを発行した。

商店街は三条通沿いに約50店が並び、昨年10月、加盟店が自慢の1品を販売する「一店逸品運動」を始めた。チラシはB4判で約2万枚発行、市内の観光案内所、ホテルなどで配布している。

京人形販売店のミニチュア鉾、衣料店の京友禅アロハシャツなどを写真付きで紹介。三条通にある新選組による池田屋騒動の記念碑や、15日に実施する同騒動殉難者供養祭の行事も取り上げ、観光客の利用も図る。

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京都 千年の誘い 都を猿が護れば災いもサル【表鬼門を護る猿】(産経新聞2006-06-19)

京都御所の猿が辻

京都の表鬼門は猿が護っている―

京都御所の東北角、猿ヶ辻といわれる一角の土塀の庇の下に御幣を持った木製の猿がいる。これは日吉大社のお使い。前は金網で覆われており、まるで生きている猿がいるようだ。

京都御所の表鬼門を護る猿

日吉大社は国家鎮護・方除けの神として古くから信仰されているが、桓武天皇の庇護で都の表鬼門を護る寺として栄えた延暦寺の護法神でもある。そこで、遥々都の中心まで出張してきて、鬼門に目を光らせているというわけ―

赤山禅院の屋根の上の猿

それにもう1か所、表鬼門を護る猿が…

こちらは、比叡山の麓にある赤山禅院。延暦寺の末寺で、この拝殿の屋根の上でも、やはり焼き物の猿日吉大社から出張してきて、都の方へ睨みを利かせている。これも周囲を金網で囲まれていた。

「昔はここから、祇園まで見通せたんですよ。あの猿は抜け出して祇園へ遊びにいったのか、脇腹に怪我(=欠けている)をしているんですわ」と執事の植野圓俊さんはニッコリ!

元亀2年(1571)の織田信長比叡山焼き討ちで、古い資料はなにも残っておらず、何時から屋根の上の猿がいるのかはっきりしない。しかし、桓武天皇がこの都を如何に大事に造ったか、今でもそれが偲ばれる。

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厳島神社、清盛が人工湾造成?…広大大学院教授が新説(読売新聞2006-03-14)

20060314yo.jpg 平清盛が造成した人工湾に築かれた可能性が高い厳島神社

日本三景の1つで世界遺産の厳島神社(広島県廿日市市)は、平清盛が元々陸地だった場所に人工の湾を造成して建てた可能性の高いことが、三浦正幸・広島大学大学院教授の研究で判明した。「海を寝殿造りの蓮の池に見立てるという、誰も考えつかなかった発想で、権威を誇示したかったのではないか」と、その意図を推測している。

この新説は、三浦教授が13日、共同研究をしている国立歴史民俗博物館が行った記者会見で発表した。造成説の根拠について、(1)現地は氷河期以降、頻繁に土石流が発生してきた場所で、埋まっているはずの場所が海になっている(2)本殿の両脇の海底に造成前の川の痕跡がある―などと説明した。

記録では、神社の脇を流れる川がほぼ200年ごとに大規模な土石流を起こしてきたことがわかっている。天文10年(1541)、享保21年・元文元年(1736)、昭和20年(1945)に起きた過去3回の土石流では、境内にまで土砂が入り込み、その土砂を使って別の海岸を埋め立てたり、2m以上の盛り土をしたという。このため、「造営の証拠となる掘削した土も周囲を発掘すれば出てくるだろう」と三浦教授は話す。

一方、防災を意識しながら、美しい景観を作る微妙なバランスで設計されていたことも改めて分かった。近年、台風などで建物群に甚大な被害が出ているが、御神体の祀られている本殿は比較的軽微だという。三浦教授は、「被害は、後の時代に増築された西側に集中している。清盛はこの区画を強風と土石流の通り道と認識しており、回廊しか建てなかった」とみている。

(参考)国立歴史民俗博物館の企画展示「日本の神々と祭り―神社とは何か?―」より

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光源氏の六條院、華やかに再現 京都文博で模型展示(京都新聞2005-08-16)

1/4の大きさで再現された源氏物語の一場面を観賞する人たち

『源氏物語』に登場する光源氏の邸宅、六條院を1/4の大きさに再現した模型の展示「源氏物語と京都六條院へ出かけよう」が16日、京都市中京区の京都文化博物館で始まった。

下京区の風俗博物館が衣装の復元など7年がかりで取り組んだ。再現されたのは、第一部の最終章にあたる33帖目「藤裏葉」から、冷泉帝と朱雀院が邸宅を訪問する「六條院行幸」の場面。

会場に設置された模型は幅約9m、奥行き約7mで、平安時代の装束を身につけた約100体の人形が並べられている。屋敷の正面では並んで座った冷泉帝と朱雀院、光源氏が楽器の演奏や舞を楽しみ、北側では女性たちが料理の準備に忙しく働くなど、『源氏物語』で最も華やかとされる一場面を忠実に描写している。

開場と同時に多くの見学者が訪れており、友人と2人で訪れた左京区の女性は「こちらまで優雅な気持ちになりそう」と見とれていた。9月10日まで(月曜日は休館)。

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頼朝の墓土、弟希義に/高知で墓前祭(朝日新聞2004-12-12)

20041212a.jpg

鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で、若くして土佐で悲運の死を遂げた希義まれよし墓前祭が11日、高知市介良乙の西養寺跡地であった。今年相次いだ台風により希義の墓の土や石が流されたため、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮にある頼朝の墓から缶で運ばれた土石が撒かれた=写真。

墓前祭は源希義公顕彰会が毎年催しているが、頼朝の墓の土が希義の墓に撒かれたのは2回目。平成7年(1995)に鶴岡八幡宮前の商店主らで創る源頼朝会と希義公顕彰会が、遠く離れた地で眠る兄弟を再会させようと、互いの墓所の土と石を交換した。

平治元年(1159)に起こった平治の乱で頼朝が伊豆の蛭ヶ島、希義は土佐国介良庄(現在の高知市)に流された。以来、2人は一度も会っていない。

頼朝が治承4年(1180)に平氏打倒のため挙兵したことにより、希義は平氏の追討を受け、近隣の夜須氏を頼って逃走しようとしたが、その途中で現在の坂折山(南国市篠原)付近で討ち死にしたとされる。

頼朝が幕府を開いた後、「りんゆう」と名乗る僧が希義の遺髪を持って鎌倉を訪ねた際、頼朝は涙を流し、僧に介良にあった西養寺の寺領を与えたと伝えられている。

顕彰会事務局長の近森正博さんは「多くの人に希義を知ってもらうためにも、希義の足跡をたどる観光ルートを創っていければ」と話している。

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建都1200年の平安京模型 今日から常設展示 京都アスニー(京都新聞2004-07-28)

ロビーに設置された平安京復元模型

平安京を1/1000の大きさで復元した大型模型が28日から、京都市中京区丸太町七本松西入ルの京都アスニーのロビーで常設展示される。平成6年(1994)の平安建都1200年記念で製作、市美術館(左京区)で公開されたが、その後は特別展示以外は市内の倉庫に眠っていた。関係者たちは「アスニーは、嘗ての朱雀大路に近い所縁の地。多くの人に見てもらいたい」と公開を喜んでいる。

復元模型は当時、市が総額2億4000万円で製作し、東西11m、南北10mあった。展示するのはこのうち京域部(東西4・7m、南北5・4q)で、内裏豊楽院、朱雀門をはじめ、京都アスニーの所在地にあった造酒司みきのつかさなどが精巧に再現されている。家屋や倉庫などの建造物は約10万戸あるといい、当時の都の姿を生き生きと伝えている。

模型は周りをアクリル板で覆い、1階ロビーの中央に配置した。「壁を飾る『洛中洛外図屏風』の陶板とともに、京都の歴史に親しんでほしい」(アスニー事業部)という。無料。問い合わせはアスニーへ。

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「可愛らしい」と記念撮影 晴明神社「式神」石像が寄贈(京都新聞2003-08-20)

安倍晴明が使役していたとされる式神の石像

平安時代陰陽師おんみょうじ安倍晴明を祀る晴明神社(京都市上京区)に20日、晴明が使役していたとされる精霊の一種式神しきがみの石像が寄贈され、除幕式などが行われた。個性的な姿の石像で、参拝者が早速「可愛らしい」と記念撮影をしていた。

京都洛中ライオンズクラブが、クラブ創設30周年と、同神社の鎮座1000年祭を記念して贈呈した。高さ1mの御影石製で、神社が所蔵する晴明の神像図などを基に製作した。

晴明は、式神を神社近くにある一条戻橋の下に封じていたという言い伝えがあり、石像は神社前に復元された橋の隣に設置、参拝者に説明するパネルも併設した。式典には同クラブのメンバーや神社関係者など50人が参加した。本殿で奉納奉告祭を行った後、森会長や同神社の山口喜堂宮司が除幕した。

式典が終わると大勢の参拝者が石像を取り囲むなど、早速注目を集めていた。山口宮司は「貴重な寄贈で有り難い。参拝者に親しまれて神社の新名所になれば」と話している。

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奈良期最古の訓点 広大名誉教授、経典で発見(中国新聞2003-07-25)

『大方広仏華厳経』に記入された角筆の訓点。「薩」の右に主語であることを示す「伊」、「住」の右には「世リ(セリ)」と送り仮名を振る。肉眼で見えにくいため、角筆の跡は緑色の線でなぞっている

▽通説より50年早く 角筆、新羅式と一致

広島大学名誉教授の小林芳規・徳島文理大学教授が、東大寺(奈良県奈良市)などに残る奈良時代の経典から、漢文を日本流に読むため万葉仮名や記号を角筆で書き入れた日本最古の「訓点」を発見した。訓点の始まりを平安初期とする通説から50年以上遡るとともに、その特徴が新羅式と一致することから訓点の手法は朝鮮半島から伝わった可能性を示す。24日、富山市で始まった日韓研究者の国際学術会議で発表した。

尖った筆記具で紙をへこませる角筆研究の第一人者である小林教授は、昨年から東大寺石山寺(滋賀県大津市)などで特殊なスコープを使い、肉眼で見えにくい奈良時代の角筆の跡を探してきた。

これまでに、天平16年(744)に書写された石山寺蔵の経典「ろん」をはじめ、8世紀中頃から後半にかけて日本の僧が写した経典など10数点から、漢字で日本語音を表記する万葉仮名のほか「節博士」「合符」などと呼ばれる訓読の記号を相次いで発見した。このうち記号については、8世紀前半に朝鮮半島で書写された経典の新羅語による漢文読み下し記号と、まったく同じだった。

また、東大寺蔵の「だい方広ほうこうぶつ華厳経けごんきょう」(神護景雲2年=768)に角筆で記された漢字への送り仮名には「利」という万葉仮名の省略形らしい字体も含まれ、のち平安初期に成立する片仮名の原型の可能性もある。

漢文を読み下す訓読は日本では7世紀頃始まっていたとみられる。ただ、文献に訓点を書き入れる手法は、朱や白点を使って延暦19年(800)頃から始まったとされていた。小林教授は「奈良時代に仏教文化交流を通じて新羅から仮名を含めた訓点の手法を導入し、日本なりに消化・吸収して発展させた」とみている。

▽緊密な交流を再認識

藤本幸夫・富山大学人文学部教授は「日本語学史上、大きな発見であり、奈良時代語の研究資料としても重要だ。新羅から漢文訓読の影響を受けたことを意味し、古代の文化的交流の緊密さを再認識させられる」と話している。

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カタカナのルーツは朝鮮半島? 新羅の仏典に読み示す文字 徳島文理大教授が発表(京都新聞2002-04-03)

根の文字の右に角筆で書かれた窪みがあった なぞるとカタカナらしい文字が現れる

朝鮮半島・新羅で書かれ「日本のカタカナのルーツ」になった可能性のある文字を、小林芳規徳島文理大教授が大谷大学(京都市北区)所蔵の8世紀の仏典『判比量論残巻』(国の重要文化財)から見つけ、2日、同大学で発表した。木などの先端を尖らせた「角筆」で墨を付けずに書かれたため、気付かなかったらしい。

小林教授は角筆で書かれた文献研究の第一人者で、斜めから光を当てて文字を浮かび上がらせる装置を開発。日本や韓国の文献を調べている。

『判比量論残巻』の調査は今年1月から始め、本文の「根」の字の右側行間に角筆で「マリ」と書き込まれているのを見つけた。マは部の旁の部分だけを崩して書いたとみられ、日本最古とされてきた九世紀初めのカタカナでも「へ(べ)」の音で使われている。現在の韓国語では部を「プ」と発音し、根は「プリ」と読むことから、根の読みを朝鮮半島の言葉で記したのではないかという。

『判比量論残巻』は、新羅で原典から書写された後、日本に伝来したとされ、8世紀前半の天平12年(740)には正倉院に収められていたことが正倉院文書で知られている。他の部分に角筆で書かれた記号に書写の墨が付着しており、角筆の書き込みは書写の直後と見られることから、カタカナのルーツは従来の説より60年以上古く、朝鮮半島で始まった可能性が出てきた。小林教授は「たった1例だけなので即断はできないが、カタカナの起源を考えるうえで貴重な発見」としている。

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全国初 村の印章出土―奥州藤原氏の政庁跡から(毎日新聞1999-10-08)

出土した印章 「磐前村印」の印影

東北地方で栄えた奥州藤原氏の政庁跡と考えられている岩手県平泉町の柳之御所遺跡から、全国で初めて「村」の名前を彫り込んだ印章が出土した。

岩手県教委は「当時の国家体制の中にあって、奥州藤原氏の自立した統治システムを裏付ける貴重な発見」とみている。

印章は銅を鋳造して作られている。印面は4・7p四方で、高さ3・7p、重さ約167g。遺跡北東部の12世紀後半の地層にある井戸の跡から出土し、「磐前村印」と刻まれている。「磐前村」は「いわさきむら」または「いわがさきむら」と読む事ができる。古代律令制では行政・地域の単位は「国府−郡−郷−村」と位置付けられていたが、村の印章や、押印された文書は発見されていなかった。

印章は「磐前村」が発行する文書に押印したか、奥州藤原氏が支配下の村に発行する文書に押印した可能性がある。字体や比較的大きいサイズなどから中央政府が認めた「公印」とは別に、奥州藤原氏が独自に認めた印章である可能性が強く、中央から自立した政権としての奥州藤原氏の威勢を窺わせる発見だという。

平川南・国立歴史民俗博物館教授は「印章は権威の象徴であり8、9世紀の律令制下の文書行政で盛んに用いられたが、12世紀後半には廃れていた。その時代に奥州藤原氏が独自の印章を持っていたことは興味深く、印章の歴史の空白を埋める発見でもある」と話す。

柳之御所は昭和63年(1988)に発見され、平成9年(1997)に国の史跡に指定された。奥州藤原氏3代秀衡の政庁「平泉館」と推定されている


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