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青い目の人形:那智勝浦町文化財に 戦時中の苦難の時代、人々の良心が守る(毎日新聞2009-05-13)

◇将来は特別公開も

那智勝浦町は、昭和初期に米国から贈られ、町立宇久井小学校で保管される「青い目の人形」を、町文化財に指定した。県内では177体が小学校に贈られたが、多くが戦争中に「敵国の人形」として廃棄され、確認されているのは宇久井小の1体だけ。町教委は指定をきっかけに将来、地元の人たちに特別公開する事を検討している。

指定理由について町教委は「昭和初期の日米の友好と敵対の実態を示す。戦時中の苦難の時代にあって人々の良心により大切に守り受け継がれた貴重な有形民俗資料」とした。人形は、昭和2年(1927)3月、米国から日本の小学校や幼稚園に、1万2000体以上が贈られ、日米友好の証しとして歓迎された。だが、太平洋戦争が始まると殆んどが焼却されるなど、数奇な運命を辿った。

宇久井小では昭和47年(1972)頃、宿直室の押し入れから見つかった。以降、校長室に飾られている。高さ38・5cmで材質は頭部や腕がセルロイド、胴体は布製。頭髪の一部に損傷があるが比較的保存状態は良く、靴も当時のまま残っている。被服やスカーフは損傷が酷かったため、約10年前に新調されたという。

町教委によると、現在、全国で約300体が確認され、県内では同小の1体だけ。同校の川辺孝則校長は名刺に人形の写真を印刷するなど愛着を持つ。「人形の写真と由来を記したパネル3枚を作り、5、6年生の総合的学習で使っている。宇久井地区からは、嘗て米国に移住した人が多かった。人形が此処にあるのは縁を感じる。由緒ある品なので大切に保管したい」と話した。





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鑑真和上、目が見えた?―失明は渡来の6年後か(奈良新聞2009-05-11)

『東征伝絵巻』に描かれた渡来時の鑑真和上(中央)。目は開いている

国内に正しい戒律を伝え、唐招提寺を開いた鑑真和上盲目とする定説について、奈良国立博物館の西山厚・学芸部長が「渡来した時は見えていた」との見解を、同館で開催中の「国宝鑑真和上展」で披露した。展示物に和上の姿を追った。

和上の姿を伝える資料で最もよく知られているのが国宝「鑑真和上坐像」。亡くなる直前に弟子たちが制作した像で、禅定印を組んで瞑想する姿だ。

目は固く閉じられているが、渡来から入寂まで10年近くあり、到着時の様子と同じとは言えない。

一方、鎌倉時代の伝記絵『東征伝絵巻』には、目をはっきり開いた鑑真和上が描かれている。難破して洋上に漂う姿は勿論、渡来後の描写にも不自由さは感じられない。

失明を記した『唐大和上東征伝』(奈良時代)について、西山部長は「文学的要素が多く、100%事実か考える必要がある」と話す。

注目するのが正倉院に伝わる『鑑真奉請経巻状』(今回は出展なし)。渡来の年、東大寺良弁ろうべん僧正に経典の借用を申し入れた書状で署名がある。

西山部長は(1)弟子の代筆(2)見えないが書けた(3)目が見えていた―の3つで可能性を検討した。

(1)の場合、署名が行書の続け書きで日付の方が大きく「鑑真の署名に何の思いも入っていない。カリスマ的指導者の名前をこれ程軽やかに書けない」と話す。

(2)は、「部」の最終角の長さが余白に応じて異なり、4行目の「部」は一旦筆を上げて書き直している。見えなければ困難な書き方で、可能性はないという。

華厳経を「厳経」と略した事など、何れも「目が見えていた鑑真和上の自筆」と考えれば説明がつく。

「断定はできないが(1)や(2)に比べて可能性はずっと高い。目が次第に悪くなっていたのは本当だと思うが、完全に失明したのは渡来から6年後、僧綱そうごうの任を解かれた頃ではないか」と話している。



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豪華絢爛御輿勇壮に 宇治神社・神幸祭(京都新聞2009-05-09)

約1kmの道程を練り歩いた宇治神社の「神幸祭」

京都府宇治市宇治の宇治神社で8日、春の例祭があり、御輿を約1km離れた御旅所へ運ぶ「神幸祭」が営まれた。観光客や地元住民らは、豪華絢爛に飾られた御輿に魅入っていた。

毎年5月8日にある神幸祭は、1番組から10番組までの氏子が順番で担当。今年は10番組の約30人が参加した。

宇治神社では、花房義久宮司が御神霊を御輿に納めた後、祝詞を読み上げた。氏子たちは台車に乗せた約1tの御輿を引いて神社を出発、狭い路地や宇治橋を「もっとゆっくり」など声を掛け合いながら、宇治橋通の御旅所まで練り歩いた。

御輿は御旅所に1か月間置かれ、来月8日の還幸祭宇治神社へ戻る。



※(関連)→煌びやか、御輿巡行 宇治神社 神幸祭(おいで)で祭神を御旅所へ(洛南タイムス2009-05-09)

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煌びやか、御輿巡行 宇治神社 神幸祭(おいで)で祭神を御旅所へ(洛南タイムス2009-05-09)

宇治神社=宇治市宇治山田=の祭礼「神幸祭」(おいで)が8日に執り行われ、煌びやかな御輿が宇治橋などを巡行した。

神幸祭は、同神社の祭神・菟道うじの稚郎子わきいらつこを御輿に祀り、御旅所=宇治壱番=まで運ぶ儀式。毎年、「宇治まつり」(還幸祭)(6月8日)の1か月前に行われる。

同神社に近い地区から順に1番〜10番(9番は欠)と数え、毎年交代で御輿巡行の担ぎ手となっている。今年は十番組奉賛会の約30人が担当した。

先ず午前に、神社後援会の桐原会や奉賛会の役員が莵道稚郎子命の墓がある宇治墓(宇治市菟道丸山)を参拝。御輿を組み立てた後、神事を執り行い、午後2時頃巡行をスタートさせた。

台車に載せた御輿を、奉賛会のメンバーは呼吸合わせながらゆっくり引っ張った。道程は神社から宇治橋、時計道路を経て御旅所まで。賑やかな様子に観光客などが珍しげに見物していた。御輿は還幸祭まで御旅所に安置しておく。



※(関連)→豪華絢爛御輿勇壮に 宇治神社・神幸祭(京都新聞2009-05-09)

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立夏の街に威勢よい掛け声 宇治上神社・還幸祭 槇島から宇治橋渡り境内へ(洛南タイムス2009-05-08)

世界遺産宇治がみ神社=宇治市宇治山田=の還幸祭が5日に行われ、同神社を氏神にしている槇島東地区の各町内に御輿が巡行。威勢の良い触れ太鼓とワッショイ、ワッショイの掛け声が立夏の街に響き渡った。

家内安全やその年の豊作を祈願する宇治上神社恒例の祭礼。1日の神幸祭同神社から槇島集会所(槇島町北内)に御輿と牛車を思わせる鳳輦が神社奉賛会の氏子らによって運ばれていた。

「こどもの日」(立夏)の還幸祭では、触れ太鼓に続いて子どもたちが鳳輦を引っ張り、「世界文化遺産 国宝 宇治上神社祭礼」と記したのぼりを立てた御輿がこれに続いて地区内を巡行した。

地元の伝統行事を盛り上げようという氏子総代の熱意に呼応し、還幸祭には今年も校区の北宇治中学校からも生徒会の前田博之会長、書記の池森友美さん、バレーボール部女子の2年生部員16人が参加。

中学生の積極的な参加で伝統の祭礼は盛り上がり、途中で御輿に長柄を付けて、折からGW中の行楽者で賑わう宇治橋を元気に渡り、宇治上神社へと巡行した。


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山吹御前の悲運偲び初法要 JR大津駅前(京都新聞2009-04-05)

山吹御前の悲運を語る旭堂小二三さんの講談に聞き入る人たち

平安時代末期の武将で、粟津の戦い(大津市)で討ち死にした木曽義仲の側室、山吹御前の法要が4日、大津市のJR大津駅前広場で営まれた。講談も披露され、集まった人たちは湖国の歴史に思いを馳せていた。

法要は、同市長等二丁目の泉福寺の竺文彦住職や大津駅前商店街の有志らが初めて開いた。竺住職らが読経した後、大阪府枚方市の女流講談師旭堂小二三さんが、歌舞伎や浄瑠璃で有名な『ひらかな盛衰記 山吹御前』を講談で披露した。

旭堂さんは、義仲を慕い、京から逢坂山を越えて東海道の大津宿に至ったものの、追っ手に追われ亡くなった山吹御前の悲運を切々と語り、通行人らが思わず足を止めて聞き入っていた。

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浅間山「天仁噴火」の謎に迫る 御代田で企画展(信濃毎日新聞2008-05-03)

天仁の大噴火で噴出した岩石などを展示している浅間縄文ミュージアムの企画展

御代田町の「浅間縄文ミュージアム」が、有史以来最大といわれる平安時代後期の嘉承3年(1108)(※)に起きた浅間山噴火をテーマにした企画展「浅間山 謎の大噴火」を開いている。発生から900年の節目に当たる事から、当時の被災状況に迫ろうと限られた資料を集めた。期間中、野外学習やフォーラム、講演会なども開く計画で、同館は「火山地域の特性を考える機会になれば」と来館を呼び掛けている。

同館によると、天仁大噴火の資料は、江戸時代天明噴火に比べ極端に少ない。文献では、当時の右大臣藤原宗忠の日記『中右記』「一国の災害でこれほどのものはかつてなく、まれに見る怪奇現象」との意味の記載があるだけという。

この噴火で発生した「追分火砕流」は、現在の御代田町や軽井沢町、群馬県嬬恋村などを覆い、その噴出規模は長崎県の雲仙・普賢岳大火砕流の3倍、天明噴火の2倍に当たるとみられている。

企画展では、噴出した岩石、降り積もった火山灰の厚みが分かる地層、被災状況の想像画、群馬県側で見つかった火山灰で壊滅した水田の一部などを展示。当時の社会状況が窺える「末法思想」の資料も紹介している。

同館主任学芸員の堤隆さんは「不安を煽る打算はないが、火山地域で暮らすにはどうしたらいいのかを、野外学習などを通じ、地域の人たちと一緒に考えてみたい」と話している。8月31日まで。大型連休中は無休。問い合わせは同館へ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※厳密に言えば、この浅間山の大噴火は嘉承3年(1108)7月に起こっっていて、翌8月に「天仁」に改元されいるので、年号表記は「嘉承3年」とします。ただ、用語としては「天仁の大噴火」となっているのでそう表記します。

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麻那姫像4か月ぶりに姿(朝日新聞2005-04-05)

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◇雪囲い取り外す

大野市の麻那姫湖畔に立つ麻那姫像(高さ3・5m、台座2・5m、青銅製)を覆っていた雪囲いが4日、春の到来と共に取り外され、金箔が施された像が約4か月ぶりに姿を現した=写真。

この像は、昔、この地方の長者の娘・麻那姫が、旱魃かんばつから村を救うため、自ら川に入って我が身を竜神に捧げたという伝説に因み、平成4年(1992)に市が建立した。

市商工観光課によると、湖周辺は冬季の積雪が約2mに達する事から、毎年12月頃から像の周りに丸太を組んでビニールシートを被せ、雪囲いにしているという。

この日は、市の委託を受けた造園会社の作業員らが、午前8時から囲いを撤去した。周囲の山々はまだ雪を被っているものの、春の日差しを浴びた像は黄金色に輝いていた。

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源融 木像で“里帰り” 塩釜所縁 光源氏のモデル(河北新報2007-11-11)

京都・本覚寺の源融の木像

光源氏のモデルの1人とされ、宮城県塩釜市との所縁が深い源融が12月、約1100年の時を経て、木像として塩釜に“里帰り”する事が決まった。塩釜商工会議所が12月1日に開く「源氏物語と塩釜フォーラム」に合わせ、融像を所有する京都市の本覚寺が、門外不出だった像を貸し出す。

嵯峨天皇の皇子で左大臣も務めたは貞観6年(864)、多賀城が任地の陸奥出羽按察使あぜちに任命された。塩釜にはの屋敷があったとされる融ヶ岡の地名も残る。

は塩釜の風景を愛し、塩釜を模した「河原の院の庭園」を京都に造った。一方で、は実際は赴任しない遥任ようにんで、塩釜を訪れなかったという説も強い。

本覚寺河原の院跡に承久4・貞応元年(1222)建立。その後何度か移転し、現在の所在地は下京区本塩釜町。融像は制作年は不明だが、寺宝として安置されてきた。本覚寺の志水久純住職は「塩釜はの憧れの地で、心の古里に里帰りできるのは喜ばしい」と話している。

京都では、『源氏物語』が世に出て1000年になる平成20年(2008)に合わせ「源氏物語1000年紀」を祝う行事が企画されている。1000年紀実行委員会は塩釜のフォーラム開催の知らせを聞き、「源氏物語絵巻」を手書き友禅で復元した「平成の源氏物語絵巻」の10点を貸し出す事を決めた。

融像と平成の「源氏物語絵巻」は、フォーラムを開くグランドパレス塩釜で12月1日に披露。フォーラム後の2〜4日、塩釜市の雲上寺で一般公開する。

フォーラムでは、山本登朗・関西大学教授が「源氏物語と源融と塩釜」と題して基調講演。パネル討論も行う。入場無料だが事前申し込みが必要。連絡先は塩釜商工会議所へ。

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御神籤の歴史を紹介 虎姫で“創始者”の元三大師展(京都新聞2007-10-14)

元三大師御籤箱や解説本が並ぶ企画展

比叡山延暦寺の復興に尽くした平安時代中期の高僧で、御神籤おみくじの創始者として知られる元三がんさん大師だいし慈恵じえ大師・良源)所縁の資料などを集めた企画展「元三大師とその文化」が同町三川の「虎姫時遊館」で開かれ、人気を集めている。

大師は近江国浅井郡虎姫出身で、五言四句の漢詩で吉凶を占う「元三大師御籤みくじを発案したとされる。

企画展大師を本尊とする玉泉寺(同町三川)の支院で智蔵院(同)などが所蔵する木造薬師坐像や阿弥陀如来立像をはじめ、江戸時代以降に普及した御神籤の解説本や御神籤箱など計約100点を並べている。

また、解説本を基に復元した御神籤箱もあり、五言四句の漢詩で吉凶を占う籤が体験できる。

企画展は24日まで開かれている。入館は無料。

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藤原定方らの歌碑を建立 宮道神社で除幕式(京都新聞2007-10-10)

宮道神社に建立された歌碑

京都市山科区勧修寺の宮道みやじ神社で、同神社に祀られている平安時代の歌人、藤原定方らの歌碑が建立され、10日、除幕式が行われた。

今年10月は、同神社の隣にある真言宗山階派大本山・勧修寺かじゅうじに所縁の深い醍醐天皇の祖母、宮道たまの没後1100年に当たる。また、紫式部の母方の祖母は宮道氏の出身でもある。同神社崇敬会が、源氏物語千年紀を来年に控えて記念にと、列子の息子の藤原定方と、勧修寺の筑波常遍住職の歌碑を建立した。

歌碑はそれぞれ高さ約1m、幅約2m。定方には百人一首にも収められた「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」の歌が掘られている。

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田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致(京都新聞2007-06-04)

西野山古墓から出土した金装大刀と金銀平脱鏡

平安時代初期征夷大将軍清水寺(京都市東山区)を創建した坂上田村麻呂が、山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」である可能性が高い事が、京都大学文学研究科の吉川真司准教授の文献調査で、4日までに分かった。

吉川准教授によると、平安後期『清水寺縁起』田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述があり、平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、西野山古墓と一致したという。同古墓から大正8年(1919)に出土した金装大刀(何れも国宝)などの年代がほぼ同じ頃で、上級貴族が所有するような高級品な事から、田村麻呂の墓だと判断した。

現在、同古墓から南東約1・5qの同区勧修寺東栗栖野町に田村麻呂の墓とされる遺跡がある。また、昭和48年(1973)には民間の郷土史研究の論文で、吉川准教授と同じ方法によって、同古墓近くに田村麻呂の墓があるとする指摘がされている。

吉川准教授は「古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートだった。都の玄関口で睨みをきかす意味もあったのではないか」と話している。



坂上田村麻呂の墓特定 京都・山科「西野山古墓」(朝日新聞2007-06-04)

手前の竹薮が西野山古墓(×印)。上方の○印が清水寺 西野山古墓から出土した国宝の金装大刀(上)と金銀平脱鏡 20070604a2.jpg

平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂を、京都大学大学院文学研究科の吉川真司・准教授が文献調査で特定した。大正8年(1919)に京都市山科区で発掘された「西野山古墓」の可能性が極めて高いという。田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂の『清水寺縁起』(以下、『縁起』)に墓の位置が記されていた

墓の場所は『縁起』にある弘仁2年(811)10月17日付の朝廷の命令書「太政官符」表題に記されていた。行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田くいた西里栗栖くりす村の水田、畑、山を与える」という文言があった。この場所は平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合すると、今の山科区西野山岩ヶ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述は注目されていなかったという。

西野山古墓は清水寺から南東約2qの山科盆地西部にある。8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致する。大正8年に墓穴が見つかり、内部から、武人の墓に相応しい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄のやじりなどの副葬品が出土している。

こうした研究から時代と位置と身分が一致し、田村麻呂の墓と特定した。古墓の南東約1・5qには、地元で「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる史跡があり、坂上田村麻呂公園になっている。

吉川准教授は「当時の名前が明らかな上級貴族の墓は特定されておらず、他の遺跡を考える物差しが1つ決まる。この場所は平安京の東の玄関口で、そこを守る所に田村麻呂を葬った事から、死んでも平安京を守ってくれる武将という考えを当時持っていたのかもしれない」と話す。

遺物は昭和28年(1953)に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大学総合博物館(京都市左京区)が所蔵している。6日から7月8日までの「京大の至宝」展で初公開する。



被葬者は田村麻呂 京都・西野山古墓 吉川・京大准教授が調査(産経新聞2007-06-04)

平安時代初期蝦夷えみし攻略などに大きな功績を残した坂上田村麻呂が、大正8年(1919)に京都市山科区で発掘された「西野山古墓」である可能性が極めて高い事が、吉川真司・京都大学文学研究科准教授の文献調査で3日、わかった。田村麻呂が創建した清水寺(同市東山区)に残る『清水寺縁起』(以下、『縁起』)に墓の位置が明記されていた。同古墓から出土した金装大刀などの豪華な副葬品もこれに相応しいという。古代史上の重要人物の墓が特定されるのは、極めて珍しい。

墓の場所が記されていたのは、『縁起』に収められた弘仁2年(811)10月17日付「太政官符」。行政の最高機関・太政官が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条咋田くいた西里栗栖くりす村の水田、陸田(畑)、山(山林)を与える」と記されていた

山城国宇治郡は現在の京都市山科区一帯。同区の平安時代条里図(条里制の地図)は東京大学史料編纂所に伝わり、「七条咋田西里」の場所も記されている事が判明。これを現在の地図に落とすと、西野山古墓の場所とぴったり一致した。

『縁起』「太政官符」の存在は研究者の間で知られていたが、今回確認された墓の詳しい場所を記した表題部の記述は、見落とされていた。

西野山古墓は、山科盆地西部の山の斜面にある。竹薮に覆われ、墳形などを確認する事は難しいが、大正8年に周囲を木炭で覆った木棺墓が見つかり、中から純金の装飾を施した大刀、金銀平脱へいだつ鏡、鉄ぞく(鉄製のやじり)、硯など、正倉院の宝物級にも匹敵する豪華な副葬品が確認された。

これらの遺物の形式などから、時代的にも8世紀後半から9世紀前半とみられ、田村麻呂の時代と一致する。

これらは昭和28年(1953)、「山科西野山古墓出土品」として国宝に指定され、京都大学総合博物館(京都市左京区)が所蔵。この程修復され、6日から同館で始まる「京大の至宝」展で初公開される。

西野山古墓から南東に約1・5q離れた山科川沿いには、「田村麻呂の墓」とされる遺跡があり、住民によって守られている。しかし、田村麻呂の墓とする考古学的な根拠は薄く、民間研究者が「西野山古墓田村麻呂の墓では」とする説を発表した事もあった。

吉川准教授は「副葬品の中にがあるという事は、埋葬時には弓も納められていたと考えられ、武人の墓に相応しい」と話している。

◇上田正昭・京都大学名誉教授の話

西野山古墓については、山科を本貫地とする中臣氏の墓とする意見があった。しかし中臣氏は8世紀末には衰退しており、従来から成立しないのではないかと思っていた。豪華な副葬品からみて、やはり田村麻呂の墓に相応しく、大変注目すべき説だ」



京都・西野山古墳、田村麻呂の墓だった(読売新聞2007-06-05)

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◇京大・准教授 研究、条里図で場所確認

平安時代初期に奥州の蝦夷えみしを攻略した征夷大将軍坂上田村麻呂が、被葬者不明だった西野山古墓(京都市山科区)である可能性の高い事が、京都大学大学院文学研究科の吉川真司准教授の研究でわかった。西野山古墓からは金の装飾が施された大刀など豪華な副葬品が出土しており、これらは6日から京都大学総合博物館(同市左京区)で開かれる「京大の至宝」展で初公開される。

吉川准教授は田村麻呂が創建したとされる清水寺(同市東山区)に残る文献『清水寺縁起』を調査。田村麻呂の墓地として記述されている地点を「条里図」(当時の地図)と照合したところ、8世紀後半から9世紀前半の築造とみられる西野山古墓の場所と一致する事が確認されたという。

吉川准教授は「副葬品からも当時の一級の武人に相応しい墓。墓の近くに、平安京から奥州に向かうルートがあり、都を守る願いが込められていたのだろう」としている。

上田正昭・京都大学名誉教授は「副葬品から可能性は高く、注目すべき説」としている。



6日から「京大の至宝」展 総合博物館、貴重な文化財を紹介(京都新聞2007-06-06)

企画展「京大の至宝」で初公開される西野山古墓から見つかった金装大刀=手前=などの出土品

京都大学が所蔵する貴重な文化財を紹介する企画展「京大の至宝―よみがえる宝たち」が、6日から京都市左京区の京都大学総合博物館で始まる。西野山古墓(山科区)から見つかった金装大刀や鏡、鉄ぞくなど出土品一式(国宝)を初公開するほか、椿井大塚山古墳(木津川市)の32面(重要文化財)や幻の古代魚シーラカンスの第1号標本の鱗など計19件、約100点を展示する。

博物館創設10周年を記念して開く。西野山古墓は、古文書の解読から平安時代初期の武人・坂上田村麻呂の墓の可能性が高いことが最近、分かった。金装大刀金銀平脱へいだつ双鳳文そうほうもんなどの副葬品が出土し、昨年から1年かけて保存処理を施した。

椿井大塚山古墳卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡で知られる。マリア十五玄義図(重文)は聖母の生涯を15の図で示し、17世紀初期に作られ、信者の礼拝に使われたという。シーラカンスは昭和13年(1938)に南アフリカで初めて捕獲され、京大所蔵の標本は今回が初公開になる。

午前9時半〜午後4時半。7月8日まで(月、火曜休み)。有料。問い合わせは同博物館へ。



記念展:京都大総合博物館創設10周年 至宝100点一挙に―来月8日まで/京都(毎日新聞 2007-06-07)

展覧会「京大の至宝―よみがえる宝たち」が6日、左京区吉田本町の京都大学総合博物館で始まった。同館創設10周年を記念する企画。最近の研究で坂上田村麻呂の墓の可能性が高まった西野山古墓(山科区)の出土品(国宝)や、マリア十五玄義図(重文)など、修復を終えた名品を中心に約100点。7月8日までの午前9時半〜午後4時半。月・火休み。

西野山古墓出土品は、豪華な金装大刀や金銀平脱へいだつ双鳳文そうほうもん鏡、多数の鉄ぞくなど。出土後約90年経って劣化したため昨年度、錆びを落としたりアクリル樹脂を塗る保存修理を施した。鏡は、蛍光X線分析などの結果、金・銀・漆で装飾されていたと分かった。

またマリア十五玄義図(17世紀はじめ)はキリシタン大名高山右近所縁の地、大阪府茨木市山間部の民家で見つかった。平成16年度(2004・4〜05・3)の修復時に江戸期の修理跡を確認しており、長い禁教の時代に祈りの対象であり続けた日々を物語る。この他椿井大塚山古墳の鏡徳川秀忠書状などが並び、見応え十分だ。



「田村麻呂墓は西野山古墓」 30年前に地元史家・鳥居治夫さんが指摘(京都新聞2007-06-12)

西野山古墓の凡その位置を示す石碑の前で、34年前の成果を話す鳥居さん 西野山古墓を坂上田村麻呂の墓とする鳥居さんの研究を伝える本紙記事

京都市山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」が、平安時代初期征夷大将軍坂上田村麻呂である可能性が指摘されているが、30年前に同様の内容の論文を発表した同区在住の歴史考古学研究家・鳥居治夫さんが「自分の成果がようやく日の目を見て、大変嬉しい」と喜んでいる。

陶芸デザイナーの仕事をしながら、民間の研究会などで考古学や文献の研究に没頭した鳥居さんは昭和48年(1973)10月、近江考古学研究会が刊行した学術誌『近江』に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」で、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定した。

各地を歩いて、地上で確認できる遺跡を探していた鳥居さんは、古代に耕作地を方形のマス目で区画した「条里」を現代の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元、田村麻呂の墓の位置を推定した。

しかし、論文は専門家の間では一定評価されたが、一般的に広く知られるには至らなかった。近くにある別の「田村麻呂の墓」の伝承を覆す事になるほか、「当時は反戦運動の華やかだった時代蝦夷征討を行った田村麻呂の墓を大々的にPRできる社会ではなかった」と振り返る。

今月4日、文献研究で西野山古墓田村麻呂の墓である可能性を明らかにした京都大学文学研究科の吉川真司准教授も「推定地にずれはあるが、西野山古墓が田村麻呂の墓だと確定すれば、最初の発見者は鳥居さん」と公表時に評価した。鳥居さんは「自分の説を受け継いでくれる仲間が増えた気持ち。今後、発掘調査で実証されることを望みたい」と話している。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)鳥居治夫「山城国宇治郡条里に関する考察」『近江』第4号、近江考古学研究会
※(参考文献)上原真人編『皇太后の山寺―山科安祥寺の創建と古代山林寺院―』(柳原出版)
       第1部「安祥寺成立の歴史的背景」
       第1項「近江京・平安京と山科」
       (三)坂上田村麻呂の墓(吉川真司執筆)

※(関連)西野山古墳は坂上田村麻呂の墓なのか?―文献史学の成果として→


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山城国一揆の精神、「山宣」も 宇治、生誕118年で講演(京都新聞2007-05-26)

「山宣」の愛称で知られる宇治所縁の政治家、山本宣治生誕118年を記念する講演会が、26日、山本宣治の実家である京都府宇治市宇治の旅館「花やしき浮舟園」で行われた。

宇治山宣会が、山宣の生誕日の前後に毎年開く記念行事の一環。宇治市在住で『小説山城国一揆』の著者、東義久さんが「南山城・その地域性―山城国一揆とはなにか」と題して講演した。

文明17年(1485)に起きた山城国一揆は、大名同士の争いで両軍が相対した際、国人や農民が協力して無血で両軍を撤退させた。その後、室町幕府方の軍勢に敗れるまで8年間にわたって、侍や代官を国内に入れないなど幕府の支配を排除した自治を国人らが貫いた。

さんは山城国一揆のそうした特徴から「一般的なイメージとは違う次元の高い一揆」と強調。自由民権運動の活動母体ともなった、南山義塾も引き合いに「南山城には、自由と民主主義を守る伝統と風土―地域個性があり山宣もその流れの中で必然的に出てきた」と語り、参加者は興味深げに聞き入っていた。

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大原女姿で散策も 大原女まつりスタート(京都新聞2003-05-16)

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新緑の京都・大原をPRする恒例の大原女おはらめまつりが16日、京都市左京区大原一帯で始まった。大原女姿で散策できる企画もあり、初日から多くの観光客や修学旅行生で賑わった。31日まで多彩な催しがあり、24日にハイライトの大原女時代行列がある。

大原郷土館での無料着付けには観光の女性ら30人が参加。紺の着物にかすりの前掛け、手拭いを被った伝統の大原女姿で歩く女性たちに、行き交う観光客たちも盛んにカメラのシャッターを切っていた。

神戸市東灘区の女性は「昨年体験した娘の写真を見て、私も、と挑戦してみました。少し照れくさいけど、モデルになった気分です」とにっこり。大原女姿の着付けは期間中、毎日体験できる。

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平安衣装、華やかに 熊野古道で絵巻行列 (紀伊民報2006-11-03)

平安衣装を身にまとって歩く参加者ら

霧の里として知られる田辺市中辺路町高原で3日、時代行列「熊野古道絵巻」が開かれ、華やかな平安衣装に身を包んだ人たちが熊野古道を歩いた。この日は3連休の初日で、多くの観光客が見物に訪れた。

中辺路町観光協会主催。法皇衛士、女房などに扮した47人の参加者は、午前10時に栖雲寺を出発。高原熊野神社までの約2qの行程をゆっくりと歩いた。古道沿いには、参加者の家族や写真愛好者などが並び、行列を見守った。

また、霧の里広場では地元住民らによる「高原もみじまつり」があり、郷土料理や地元産品の販売で賑わった。地元「なかへち清姫太鼓」も迫力ある演奏を披露し、イベントを盛り上げた。

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奈良時代の東大寺荘園 「糞置荘」看板で紹介(産経新聞2006-10-28)

文殊山の北側に奈良時代、東大寺荘園糞置荘くそおきのしょうがあったことを当時の地図で紹介する看板が28日、福井市太田町の水田地帯に設置された。除幕式の後に同市立郷土歴史博物館の角鹿尚計学芸員が記念講演し、「地図からは古代のままの景観が残っていることが分かり、極めて珍しい」と語った。

看板は縦約3m、横約4mの木製。同市の「夢・創造事業」として、文殊地区の住民が製作した。

奈良・正倉院には、この荘園を描いた絵図「越前国足羽郡糞置村開田地図」の天平宝宇3年(759)版と天平神護2年(766)版が残っている。

看板にはこの2枚の複写と、絵図と同じ場所の航空写真が、比較できるように紹介。景観が約1250年前から殆んど変わっていないことが分かる。

同市の文殊公民館で行われた講演で角鹿さんは「絵図は日本最古級で、同じ場所で2枚も残っていることは奇跡」と言い、「1200年以上前と同じように米を作り続け、景観が変わらないのは凄いこと」と意義を強調した。

糞置の地名については奈良時代の人は大らかで、「藤原小屎おぐそなど、「くそ」を名前に用い、美名とされて使われていたことを紹介。また、「糞」は肥えた土地であることを示していると考えられ、「誇りをもって地名を語って頂きたい」と話した。

この地名については、文殊山の麓の地下水と共に沸き上がってくる鉄分を多く含んだ黄色の泥が、糞に似ていることを由来とする説も地元にはある。

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源義経と京姫ら偲び、川越・常楽寺に供養塔 来月19日除幕式(朝日新聞2006-10-25)

兄の源頼朝との不和から自害したとされる義経と正室・京姫らの供養塔が川越市上戸の常楽寺に完成し、来月19日に除幕式が行われる。正室は今の川越市を中心に勢力を振るった坂東武者・河越太郎重頼の娘で、非運の死から810年余後の里帰りとなる。

常楽寺の境内を含む一帯は、河越氏館跡として、国の史跡に指定されている。鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡』には「頼朝の仰せにより重頼の息女が義経に嫁ぐ為に三十数名の家臣ともに上洛」という記述がある。

頼朝から疎まれた義経京姫は奥州・平泉に逃れる。しかし、文治5年(1189)、義経頼朝の圧力で藤原泰衡に襲われ、京姫を殺害して自害したとされる。

地元には非運の生涯を終えた京姫を供養する「京塚」があったが、宅地開発で潰されてしまった。昨年、NHKの大河ドラマ「義経」が放送され、京姫も地元で脚光を浴びた。今年が重頼没後820年ということもあり、檀家らから供養塔建立の話が持ち上がっていた。

供養塔は御影石造り。重頼を中心に、右に義経、左に京姫供養塔が並ぶ。19日午前10時から、同市上戸の日枝神社近くから常楽寺まで約700mを、重頼義経京姫に扮した人ら約150人らが歩く「里帰りお練り」がある。その後、境内で除幕式などがある。

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【小督の墓】【琴きき橋】清盛に引き裂かれた小督の恋 ―京都 千年の誘い(産経新聞2006-09-11)

小督塚 琴きヽ橋

12世紀、平清盛が権勢を誇っていた時代、琴の名手で美人の誉のたかかった高倉天皇女房小督こごうの悲恋の物語が始まった。

その小督を偲ぶ場所が、観光客で絶えず賑わう嵯峨・嵐山の渡月橋近くにある。1つは、渡月橋の袂、東側の「琴きヽ橋跡」の石碑、もう1つは、そこから桂川を西へ約10m程行った所の小督の墓。何れも、観光開発が進むこの地域で、かつての面影は次第に失われつつあるが、何とかその跡を留めている。

『平家物語』巻第6―小督には藤原隆房という恋人があったが、高倉天皇女房として宮仕えを始めると、天皇の寵愛を受けるようになった。ところが、これに怒ったのは平清盛高倉天皇中宮徳子(のちの建礼門院、壇ノ浦へ沈んだ安徳天皇を生む)と小督の恋人、藤原隆房の妻は何れも清盛の娘。

「小督があらんかぎりは世中よかるまじ」

その怒りに恐れをなした小督は身を隠す。そこが現在、墓の残っている辺りだったと云う。そして高倉天皇の命令で小督捜索に出た源仲国は、人の噂を聞きつけてこの辺りを探した。かつて仲国は宮中で、小督の琴に笛で合奏していただけに、その琴の音はすぐに聞き分けられる。遂に小督の琴の音を聞いて、隠れ家を発見したが、その琴の音を聞いた場所が「琴きヽ橋」だったという。

一度はこっそり高倉天皇の処へ連れ戻された小督も、また清盛に見つかってしまい、今度は尼にされて、この嵯峨の地で亡くなったという。賑やかな嵐山界隈ではとても想像できないが、石碑と綺麗に建て直された墓はいまも静かに悲恋を物語っている。

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酒呑童子の副将、茨木童子(京都民報2006-09-09)

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大阪の茨木市を訪れると、九州太宰府に至る西国街道界隈には古くからの神社仏閣に遺跡が数多くありますが、町並みは段々と歴史的な民家がなくなってモダンな町へと変貌しています。

そんな茨木市ですが緑深き公園などはたくさん造られて良く整備されおり残暑厳しい中、涼を求めてたくさんの人が散策しています。

この公園を横断する道路の橋の欄干に写真のような一対の大きな石像があります。茨木童子と呼ばれています。

遠い昔、摂津の国のある農家に身籠もって16か月目にようやく生まれ男の子。なんと歯が生えていてすぐ歩き出し、びっくりしたお母は泡吹いて死んだ。童子になると人の血を舐めることを覚え、鏡をみると鬼の顔に。童子は京都の大江山に逃れ酒呑童子副将になり、人々を困らせ恐れられたとか。

→(参照)「茨木童子」こども電子図書館

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「28年、南部大水害」の記憶起こす 「災害は忘れずやってくる」 久保田市長も恐怖の被災体験話す(洛南タイムス2006-08-26)

2氏から、水害の貴重な体験談も語られた集い

「災害は忘れずやってくる」をテーマに25日に宇治市文化センターで、53年前の昭和28年(1953)8月と9月に府南部で大勢の犠牲者が出た大水害の記憶を振り返り、ダムが果たす治水の役割を知る集いが開かれた。各地で発生している集中豪雨被害から、防災に対する市民の関心は高く、会場には定員の400人を大きく超す人が集まった。宇治市と国土交通省淀川ダム統合管理事務所が主催した。

5歳の時、出身地の井手町玉水で、局地的に襲った集中豪雨で、堤防の決壊と山手からの鉄砲水で、濁流の中、家族と一緒にに長時間彷徨った恐怖体験を持つ久保田勇市長も講師として生々しい体験を話した。

7時間で400o、府南部で出た336人の犠牲者のうち、107人の死者が集中した井手町を襲った南山城水害について市長は「軒並み家が将棋倒しとなり、残された屋根にしがみついたまま、木津川の堤防まで流され、更に押し流されて多賀地区で、当時の宇治保安隊の救助に命を助けられた。避難した中学校の体育館横は、死体洗いの場となっていた。まさに地獄だった」と、被災地の様子を伝えた写真をスライドで会場に流しながら、今も鮮明に記憶として残っている水害体験を話した。水への恐怖から、宇治に移り住んでからも「小学校2年までは、怖くて宇治橋も渡れなかった。まず、住民の命を守る責務があると考えている」と、行政の長として常日頃考えている役割にも言及した。

当時、城南高校生として井手町の被災地に救助隊として参加した経験もある辻昌美さん(槙島東地区防災対策会議会長)が続いて、講演。1か月後の台風13号による集中豪雨で、宇治川堤防が向島で決壊。旧巨椋池の宇治市槙島、小倉、久御山などが完全に水没。家屋や田畑にも大きな被害が及んだ。天ヶ瀬吊橋や橘橋なども流され、宇治橋も流される寸前の濁流に洗われた水害体験を、貴重な映像を織り交ぜて話した。

あと、天ヶ瀬ダムをはじめ淀川水系に建設されているダムが治水面で果たしている役割を淀川ダム統合管理事務所の神矢弘氏が話し、昭和39年(1964)に都市ダムとして、初めて完成した天ヶ瀬ダムの建設の様子を写した記録映画が上映された。

― ◇ ◇◇ ―

→これは、宇治市民の僕にとっても、生活をしていく上でおろそかにできない問題です。僕の叔母(母の義姉)は久保田市長同様に玉水の出身で、この集中豪雨で両親を亡くしたそうです。自身も製糸の境を彷徨うなど臨死体験したそうです。

また、母は台風13号による浸水被害で実家が床下浸水したそうです。宇治市宇治地区は宇治川よりもセロメートル遅滞の地形にあるので、堤防が決壊すれば、ほとんど浸水被害は避けられません。

僕自身も通っていた中学校はそうした場所に立地していたので、大雨だ!宇治川の水があふれるぞ!ってな状況になると、休校措置が取られました。

そうした水害からの被害をなくそうと天ヶ瀬ダムが完成したのです。

小学校時代、宇治の歴史を習う中で、槇島のような輪中地区の構造、宇治川の構造を習い、なぜ天ヶ瀬ダムが誕生したのか―などもしっかりと学習しました。

実際、天ヶ瀬ダムがあったとしても、宇治川ラインから自動車が墜落し、隠元橋まで15分程度で流されるくらい、宇治川は急流なのです。

もし、天ヶ瀬ダムがなかったら、川の流れは一体どうなっているでしょう?それこそ、過去の水害被害を全く学習していないことになりませんか?

現在、脱ダム化とか言って、治水政策に関し苦言を呈している人たちがおられます。でも、現実に恐ろしい思いを体験した叔母や母にとっては、「こういう人たちは経験していないから好き勝手な事を言えるのよ」と言っています。まさにその通りだと僕も感じます。

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