今年度から復元が始まる名古屋城本丸御殿が空襲によって天守閣と共に焼け落ちたのは63年前の今日、昭和20年(1945)5月14日の事だ。同年3月の東京大空襲を上回る480機のB29爆撃機が名古屋市北西部を中心に無差別爆撃を行い、市民の誇りだった国宝の城を焼いた。空襲を資料と証言で振り返る。
◇480機のB29、日本で最大規模の空襲
当日の名古屋の天候は晴れ。5月にしてはやや肌寒かったと多くの人が証言している。昭和20年(1945)4月7日以来、1か月空襲が途絶えていた。市民は3月の大規模空襲の焼け跡の片付けに追われる一方、国内の一大拠点だった航空機生産に努めていた。名古屋城では、シンボルの金の鯱(しゃちほこ)を戦災から守るため地上に下ろす作業が行われ、櫓を使って雌の鯱が城の2層部分にまで下ろされていた。
その頃米軍は、マリアナ諸島の基地から約530機のB29を相次いで出撃させた。民家を無差別に焼き払うため各機は焼夷弾を満載していた。うち480機は紀伊半島を縦断して琵琶湖上空で集結した後、名古屋に向けて進路を定めた。爆撃機の数は東京大空襲(325機)を上回り、日本の空襲で最大の規模となった。
名古屋では午前6時に警戒警報が出された。午前7時50分に空襲警報に切り替わった時は勤労学徒らは既に仕事を始めていた。午前8時、名古屋市北部への爆撃が始まり、名古屋城天守閣も複数の焼夷弾を受けて間もなく炎上した。鯱を下ろすために開けていた城の窓から飛び込んだ焼夷弾が、内側から火の手を上げたとされる。銅葺きの屋根から緑や紫色の炎が上がり、天守閣は2時間余りで焼け落ちた。本丸御殿に関する資料はないが、近くにいた人などの推測では、より短時間で焼失した可能性が高い。
空襲は1時間半で終わった。投下された焼夷弾は2515t。当時の県防空課の記録に「未だかつて無き局地濃密爆撃」との記述がある。死者338人、負傷者783人、焼失家屋2万1905戸の被害が出た。天守閣の炎上は全国的なニュースになり、毎日新聞は空襲2日後の朝刊で名古屋発の記事として「名古屋城も焼失 敵の暴爆」と報じた。米軍側の被害は墜落2機。西区にパラシュート降下した4人が拘束され、無差別爆撃を行った罪で同年7月に処刑された。
名古屋城の天守閣は昭和34年(1959)に再建された。
◇名古屋空襲
「名古屋大空襲」は昭和20年(1945)3月12日と5月14日の両空襲を指す場合が多い。同年6月9日に熱田区の愛知時計、愛知航空機を目標にした空襲は「熱田空襲」と呼ばれる。
名古屋への空襲は昭和17年(1942)のドゥーリットル空襲が最初。B29が初めて襲来したのはマリアナ諸島が陥落した同19年(1944)の12月13日で、東区にあった航空機エンジン生産拠点の三菱発動機名古屋製作所が70機の編隊に襲われ、330人が死亡した。同規模の空襲は12月18、22日、翌20年(1945)1月3、14、23日、2月15日と断続的に続く。東京大空襲後間もない3月12日未明には市中心部を狙った200機による無差別爆撃があり、519人が死亡。3月19日、25日、4月7日にも同規模の空襲があり、それぞれ826人、1617人、302人が死亡した。
名古屋への空襲は5月14日以降も続き、5月17日(100機、死者505人)の焼夷弾攻撃の後、爆弾による熱田空襲(42機、死者2068人)をはじめ、7月末まで断続的に行われた。(「戦争に関する資料館調査会」による)