「速やかに政局を安定して、決戦に進まざれば、日一日と重大破局に直面するの感を禁じ得ず…」―昭和19年(1944)、外相だった重光葵が、東条英機首相に内閣総辞職を促した手紙の一節だ。一時、所在不明だったこの手紙が見つかり、11月8日から憲政記念館(東京都千代田区)で始まる「重光葵とその時代―昭和の動乱から国連加盟へ―」特別展で公開される。力強い草書の筆致に、難局に対処してきた「隻脚の外交官」の覚悟が見える。
「東条内閣総理大臣閣下 御直披急」。古びた封筒の表書きにはこう記してある。裏には「東京外相官邸 重光葵 七月十六日」の文字。更に「注 其夜 総辞職により、中止し発送せず」と小さく書いてある。
執筆直後の同19年(1944)7月18日に東条内閣は総辞職。東条の許には届かなかった手紙は、重光の18歳年下の実弟、元大分大学教授の蔵さん(故人)に託された。
「今日の政局は内閣の大改造より進みて再組織の覚悟を要し、全然新事態に基づき以て新発足を行うの要あり。然らざれば政情の安定は遂に望み得ざるに非ずや…」。直截な表現は避けつつも、首相に内閣総辞職を直言する内容で、躍るような文字から気迫が伝わってくる。
東条は2年10か月間も総理の座にあった。陸相と陸軍参謀総長も兼務し、絶大な権力を握っていたが、岡田啓介、近衛文麿、米内光政ら重臣たちの倒閣運動が続いていた。閣内にいた重光も、早期講和への糸口を模索し、内閣総辞職による政府の刷新を迫ろうとしたのだろう。
この手紙は、重光の死後、故郷の大分県安岐町(現国東市)に昭和30年代に開館した記念館に展示されていたが、雨漏りなど施設の老朽化で一時撤去。少なくともこの十数年、所在が分からなくなっていた。一昨年12月、蔵さんの古い鞄の中から見つかったという。
東条、小磯内閣で外相を務め、戦後の東久邇内閣では全権として降伏文書に調印したが、その直後、日本に軍政を敷こうとした連合国軍総司令部(GHQ)総司令官のマッカーサーにとどまるよう進言。重光のこの行動がなければ、戦後占領史は大きく変わっていたといわれる。
重光の没後50年にあわせた特別展は11月8日から30日まで。重光の足跡と生きた時代を映像で再現するほか、書斎を再現し、遺品などを公開する。特別展の後、東条首相に宛てた手紙は重光の生家がある大分県杵築市の「無迹庵」で公開される予定。