上田市立博物館では、NHKの大河ドラマ「風林火山」による地元の歴史熱の盛り上がりに合わせ、ドラマ関連史跡の写真や資料を展示するコーナーを設けています。
展示の中で注目されるのは、「恐らく当地での一般公開は初めて」という、天文17年(1548)2月の村上義清の書状と大井貞清の宛行状(=写真パネル)。
書状は、関東管領・上杉氏の家臣で上州平井城(藤岡市)を居城としていた小林平四郎に宛てたもの(2月22日付)。この年の2月14日、上田原の合戦で武田軍と村上軍が激突し、重臣板垣信方・甘利虎泰らが戦死した武田方の敗色が濃くなりますが、書状の出されたのはその8日後で、晴信(信玄)は再戦を期して未だ布陣中でした。
書状はこの対陣中に村上義清が上州に合力(助勢)を要請した事を示す資料。義清の書状は3件しか知られておらず、これはそのうちの貴重な1通。「去る十四(日)一戦」での「板垣(信方)ほか討ち取り」という戦果を強調し、敵の敗北も近いだろうと記しています。
また、もう1つの史料「小林平四郎宛大井貞清宛行状」は、上田原の激突の前日13日付。大井が村上義清から宛行われた当郷(青木村)の100貫文の地を、小林に進呈するとしています。義清の書状ではこの事にも触れて、義清も異存なく、不都合があったら替地を出すと保証しています。
大井貞清は天文15年(1546)、武田勢に内山城を攻められて降伏し、その後は甲府への出仕を条件に武田に仕えていたそう。甲府での武田の監視下にこのような書状が届けられるとは考えにくく、「上田原の合戦の尖兵として大井が佐久へ帰された時に送られたのでは」と寺島隆史館長。
「天文16年(1547)までには佐久の大半が武田に制圧されたはずだが、上田原の合戦直前には村上の勢力が大きく浸透していたらしい。上田原での村上の勝利は、こうした広域の信濃武士の連合が背景にあったとみるべき」との事です。
尚、大井はその後、武田氏の忠実な家臣として仕え、長篠の戦いで戦死したといいます。