| カテゴリ 古代

田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致(京都新聞2007-06-04)

西野山古墓から出土した金装大刀と金銀平脱鏡

平安時代初期征夷大将軍清水寺(京都市東山区)を創建した坂上田村麻呂が、山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」である可能性が高い事が、京都大学文学研究科の吉川真司准教授の文献調査で、4日までに分かった。

吉川准教授によると、平安後期『清水寺縁起』田村麻呂の墓の位置や範囲を示す記述があり、平安時代の山科周辺の条里図で調べたところ、西野山古墓と一致したという。同古墓から大正8年(1919)に出土した金装大刀(何れも国宝)などの年代がほぼ同じ頃で、上級貴族が所有するような高級品な事から、田村麻呂の墓だと判断した。

現在、同古墓から南東約1・5qの同区勧修寺東栗栖野町に田村麻呂の墓とされる遺跡がある。また、昭和48年(1973)には民間の郷土史研究の論文で、吉川准教授と同じ方法によって、同古墓近くに田村麻呂の墓があるとする指摘がされている。

吉川准教授は「古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートだった。都の玄関口で睨みをきかす意味もあったのではないか」と話している。



坂上田村麻呂の墓特定 京都・山科「西野山古墓」(朝日新聞2007-06-04)

手前の竹薮が西野山古墓(×印)。上方の○印が清水寺 西野山古墓から出土した国宝の金装大刀(上)と金銀平脱鏡 20070604a2.jpg

平安初期の武人で上級貴族だった坂上田村麻呂を、京都大学大学院文学研究科の吉川真司・准教授が文献調査で特定した。大正8年(1919)に京都市山科区で発掘された「西野山古墓」の可能性が極めて高いという。田村麻呂が創建したという清水寺(京都市東山区)に残る平安後期編纂の『清水寺縁起』(以下、『縁起』)に墓の位置が記されていた

墓の場所は『縁起』にある弘仁2年(811)10月17日付の朝廷の命令書「太政官符」表題に記されていた。行政の最高機関が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田くいた西里栗栖くりす村の水田、畑、山を与える」という文言があった。この場所は平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合すると、今の山科区西野山岩ヶ谷町にあたり、西野山古墓の場所と一致するという。「太政官符」はこれまでも研究されてきたが、表題の記述は注目されていなかったという。

西野山古墓は清水寺から南東約2qの山科盆地西部にある。8世紀後期から9世紀前期と見られ、田村麻呂の時代と一致する。大正8年に墓穴が見つかり、内部から、武人の墓に相応しい純金の装飾を施した大刀や金銀の鏡、鉄のやじりなどの副葬品が出土している。

こうした研究から時代と位置と身分が一致し、田村麻呂の墓と特定した。古墓の南東約1・5qには、地元で「坂上田村麻呂の墓」と伝えられる史跡があり、坂上田村麻呂公園になっている。

吉川准教授は「当時の名前が明らかな上級貴族の墓は特定されておらず、他の遺跡を考える物差しが1つ決まる。この場所は平安京の東の玄関口で、そこを守る所に田村麻呂を葬った事から、死んでも平安京を守ってくれる武将という考えを当時持っていたのかもしれない」と話す。

遺物は昭和28年(1953)に「山科西野山古墳出土品」として国宝に指定され、現在、京都大学総合博物館(京都市左京区)が所蔵している。6日から7月8日までの「京大の至宝」展で初公開する。



被葬者は田村麻呂 京都・西野山古墓 吉川・京大准教授が調査(産経新聞2007-06-04)

平安時代初期蝦夷えみし攻略などに大きな功績を残した坂上田村麻呂が、大正8年(1919)に京都市山科区で発掘された「西野山古墓」である可能性が極めて高い事が、吉川真司・京都大学文学研究科准教授の文献調査で3日、わかった。田村麻呂が創建した清水寺(同市東山区)に残る『清水寺縁起』(以下、『縁起』)に墓の位置が明記されていた。同古墓から出土した金装大刀などの豪華な副葬品もこれに相応しいという。古代史上の重要人物の墓が特定されるのは、極めて珍しい。

墓の場所が記されていたのは、『縁起』に収められた弘仁2年(811)10月17日付「太政官符」。行政の最高機関・太政官が土地を管理する民部省に送った文書で、田村麻呂の墓地として、「山城国宇治郡七条咋田くいた西里栗栖くりす村の水田、陸田(畑)、山(山林)を与える」と記されていた

山城国宇治郡は現在の京都市山科区一帯。同区の平安時代条里図(条里制の地図)は東京大学史料編纂所に伝わり、「七条咋田西里」の場所も記されている事が判明。これを現在の地図に落とすと、西野山古墓の場所とぴったり一致した。

『縁起』「太政官符」の存在は研究者の間で知られていたが、今回確認された墓の詳しい場所を記した表題部の記述は、見落とされていた。

西野山古墓は、山科盆地西部の山の斜面にある。竹薮に覆われ、墳形などを確認する事は難しいが、大正8年に周囲を木炭で覆った木棺墓が見つかり、中から純金の装飾を施した大刀、金銀平脱へいだつ鏡、鉄ぞく(鉄製のやじり)、硯など、正倉院の宝物級にも匹敵する豪華な副葬品が確認された。

これらの遺物の形式などから、時代的にも8世紀後半から9世紀前半とみられ、田村麻呂の時代と一致する。

これらは昭和28年(1953)、「山科西野山古墓出土品」として国宝に指定され、京都大学総合博物館(京都市左京区)が所蔵。この程修復され、6日から同館で始まる「京大の至宝」展で初公開される。

西野山古墓から南東に約1・5q離れた山科川沿いには、「田村麻呂の墓」とされる遺跡があり、住民によって守られている。しかし、田村麻呂の墓とする考古学的な根拠は薄く、民間研究者が「西野山古墓田村麻呂の墓では」とする説を発表した事もあった。

吉川准教授は「副葬品の中にがあるという事は、埋葬時には弓も納められていたと考えられ、武人の墓に相応しい」と話している。

◇上田正昭・京都大学名誉教授の話

西野山古墓については、山科を本貫地とする中臣氏の墓とする意見があった。しかし中臣氏は8世紀末には衰退しており、従来から成立しないのではないかと思っていた。豪華な副葬品からみて、やはり田村麻呂の墓に相応しく、大変注目すべき説だ」



京都・西野山古墳、田村麻呂の墓だった(読売新聞2007-06-05)

20070605yo.jpg

◇京大・准教授 研究、条里図で場所確認

平安時代初期に奥州の蝦夷えみしを攻略した征夷大将軍坂上田村麻呂が、被葬者不明だった西野山古墓(京都市山科区)である可能性の高い事が、京都大学大学院文学研究科の吉川真司准教授の研究でわかった。西野山古墓からは金の装飾が施された大刀など豪華な副葬品が出土しており、これらは6日から京都大学総合博物館(同市左京区)で開かれる「京大の至宝」展で初公開される。

吉川准教授は田村麻呂が創建したとされる清水寺(同市東山区)に残る文献『清水寺縁起』を調査。田村麻呂の墓地として記述されている地点を「条里図」(当時の地図)と照合したところ、8世紀後半から9世紀前半の築造とみられる西野山古墓の場所と一致する事が確認されたという。

吉川准教授は「副葬品からも当時の一級の武人に相応しい墓。墓の近くに、平安京から奥州に向かうルートがあり、都を守る願いが込められていたのだろう」としている。

上田正昭・京都大学名誉教授は「副葬品から可能性は高く、注目すべき説」としている。



6日から「京大の至宝」展 総合博物館、貴重な文化財を紹介(京都新聞2007-06-06)

企画展「京大の至宝」で初公開される西野山古墓から見つかった金装大刀=手前=などの出土品

京都大学が所蔵する貴重な文化財を紹介する企画展「京大の至宝―よみがえる宝たち」が、6日から京都市左京区の京都大学総合博物館で始まる。西野山古墓(山科区)から見つかった金装大刀や鏡、鉄ぞくなど出土品一式(国宝)を初公開するほか、椿井大塚山古墳(木津川市)の32面(重要文化財)や幻の古代魚シーラカンスの第1号標本の鱗など計19件、約100点を展示する。

博物館創設10周年を記念して開く。西野山古墓は、古文書の解読から平安時代初期の武人・坂上田村麻呂の墓の可能性が高いことが最近、分かった。金装大刀金銀平脱へいだつ双鳳文そうほうもんなどの副葬品が出土し、昨年から1年かけて保存処理を施した。

椿井大塚山古墳卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡で知られる。マリア十五玄義図(重文)は聖母の生涯を15の図で示し、17世紀初期に作られ、信者の礼拝に使われたという。シーラカンスは昭和13年(1938)に南アフリカで初めて捕獲され、京大所蔵の標本は今回が初公開になる。

午前9時半〜午後4時半。7月8日まで(月、火曜休み)。有料。問い合わせは同博物館へ。



記念展:京都大総合博物館創設10周年 至宝100点一挙に―来月8日まで/京都(毎日新聞 2007-06-07)

展覧会「京大の至宝―よみがえる宝たち」が6日、左京区吉田本町の京都大学総合博物館で始まった。同館創設10周年を記念する企画。最近の研究で坂上田村麻呂の墓の可能性が高まった西野山古墓(山科区)の出土品(国宝)や、マリア十五玄義図(重文)など、修復を終えた名品を中心に約100点。7月8日までの午前9時半〜午後4時半。月・火休み。

西野山古墓出土品は、豪華な金装大刀や金銀平脱へいだつ双鳳文そうほうもん鏡、多数の鉄ぞくなど。出土後約90年経って劣化したため昨年度、錆びを落としたりアクリル樹脂を塗る保存修理を施した。鏡は、蛍光X線分析などの結果、金・銀・漆で装飾されていたと分かった。

またマリア十五玄義図(17世紀はじめ)はキリシタン大名高山右近所縁の地、大阪府茨木市山間部の民家で見つかった。平成16年度(2004・4〜05・3)の修復時に江戸期の修理跡を確認しており、長い禁教の時代に祈りの対象であり続けた日々を物語る。この他椿井大塚山古墳の鏡徳川秀忠書状などが並び、見応え十分だ。



「田村麻呂墓は西野山古墓」 30年前に地元史家・鳥居治夫さんが指摘(京都新聞2007-06-12)

西野山古墓の凡その位置を示す石碑の前で、34年前の成果を話す鳥居さん 西野山古墓を坂上田村麻呂の墓とする鳥居さんの研究を伝える本紙記事

京都市山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓」が、平安時代初期征夷大将軍坂上田村麻呂である可能性が指摘されているが、30年前に同様の内容の論文を発表した同区在住の歴史考古学研究家・鳥居治夫さんが「自分の成果がようやく日の目を見て、大変嬉しい」と喜んでいる。

陶芸デザイナーの仕事をしながら、民間の研究会などで考古学や文献の研究に没頭した鳥居さんは昭和48年(1973)10月、近江考古学研究会が刊行した学術誌『近江』に発表した「山城国宇治郡条里に関する考察」で、西野山古墓を田村麻呂の墓と推定した。

各地を歩いて、地上で確認できる遺跡を探していた鳥居さんは、古代に耕作地を方形のマス目で区画した「条里」を現代の地図に当てはめ、文献から遺跡の位置を割り出す歴史地理学の方法で、伏見区醍醐の醍醐天皇陵を起点に一帯の条里を復元、田村麻呂の墓の位置を推定した。

しかし、論文は専門家の間では一定評価されたが、一般的に広く知られるには至らなかった。近くにある別の「田村麻呂の墓」の伝承を覆す事になるほか、「当時は反戦運動の華やかだった時代蝦夷征討を行った田村麻呂の墓を大々的にPRできる社会ではなかった」と振り返る。

今月4日、文献研究で西野山古墓田村麻呂の墓である可能性を明らかにした京都大学文学研究科の吉川真司准教授も「推定地にずれはあるが、西野山古墓が田村麻呂の墓だと確定すれば、最初の発見者は鳥居さん」と公表時に評価した。鳥居さんは「自分の説を受け継いでくれる仲間が増えた気持ち。今後、発掘調査で実証されることを望みたい」と話している。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考文献)鳥居治夫「山城国宇治郡条里に関する考察」『近江』第4号、近江考古学研究会
※(参考文献)上原真人編『皇太后の山寺―山科安祥寺の創建と古代山林寺院―』(柳原出版)
       第1部「安祥寺成立の歴史的背景」
       第1項「近江京・平安京と山科」
       (三)坂上田村麻呂の墓(吉川真司執筆)

※(関連)西野山古墳は坂上田村麻呂の墓なのか?―文献史学の成果として→


posted by 御堂 at 06:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代
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