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「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」/池田博穂監督に聞く/9月公開/信じる道貫く姿を提示(下野新聞2006-05-08)

谷中村廃村100年を記念した映画「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」が、9月に全国上映される。足尾銅山の操業停止を訴えて、信念を貫く田中正造の生涯をドキュメンタリータッチで描く映画について、下野新聞社を訪れた池田博穂監督に聞いた。

「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」は、米国の生物学者レイチェル・カーソンの著書『沈黙の春』の朗読で始まる。レイチェル・カーソンは1960年代、農薬などによる環境問題を告発した。

制作会社から「正造を映像で残したい。是非監督を」と話があった。池田監督は、昨年2月の初公開以来、今も各地で上映中の記録映画時代ときを撃て・多喜二」を手掛けたことで知られる。「材料調べや台本づくり」を始めたのは昨年4月ごろ。『沈黙の春』より約80年も前、渡良瀬川流域の鉱害問題は顕在化した。

正造は決して諦めず、自分の信ずるところに向かっていった人。正造の人生は若い人にも、年配者にも勇気を与える」

日本の農業の先は見えにくく、環境問題は深刻化。更にイラクへの自衛隊派遣など平和問題も横たわる。そんな時代だからこそ「問題に立ち向かう正造の姿をありのまま提示したい」との思いが強い。

「闘争が主眼ではなく、どういうからくりで足尾銅山、鉱害は残っていったのか。その辺のサスペンスを感じてほしい」とも。

カツ夫人と正造の心の交流、操業停止運動に起ち上がる女性たちの姿なども描いた。「これは男の映画ではない。女性が活躍する映画です」と言い切る。

完成は6月末。全国公開に先立ち、7月には渡良瀬川流域の本県をはじめ茨城、埼玉、群馬各県と都内で試写会を行う予定だ。



正造の願い継ぐ―渡良瀬100年 第1部 遊水地はいま(読売新聞2006-07-07)

埼玉県北川辺町で撮影された映画の1シーン。正造(右)が村を飛び出して東京へ向かう場面だ

◇正造の願い語り継ぐ

谷中村が廃村となってから、100年となるこの夏、渡良瀬遊水地では、田中正造のドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき」の製作が着々と進んでいる。

「赤貧」とは、ひどく貧しいこと―衆院議員を辞して村に移り住み、廃村の後も、家屋が取り壊された後も村に留まった正造の短歌「赤貧の/洗うが如き/心もて/無一物こそ/富というなれ」に因んだ。

正造は、足尾鉱毒問題解決を求めて明治天皇に直訴したことで知られる。だが、天保12年(1841)、小中村(現佐野市)の名主の家に生まれたことや、キリスト教に帰依しながら大正2年(1913)、佐野市の支援者宅で客死したことなどを知る人は、地元でも意外と少ない。

池田博穂監督は「正造が訴えたことは、単に公害をなくせということだけではない。環境、農業、人権、平和など、現在の日本に通じることがたくさんある」と先見性を評価する。そして、「正造の生涯を系統的に見ることができる初めての作品になる」と自信を覗かせる。

映画を企画したのは、茨城県古河市の「田中正造を後世に伝える会」だ。旧谷中村民の子孫らが作る団体で、約60人の会員がいる。

古河市は、廃村の際、周辺市町村では最多の約120戸が移り住んだといわれる。正造が行った「谷中村救援大行進」を再現するイベントを行うなど、街を挙げて正造の功績や鉱毒問題の伝承に力を入れている。

伝える会の副会長で、上映委員会委員長を務める永島盛次さんは、「正造は古河の1つの文化であり象徴だ。映画を見て、正造の言葉や行動を、現在に重ね合わせてほしい」と訴える。

映画には、遊水地周辺の住民約150人もエキストラとして出演し、製作費の一部は、賛同者から集めた金で賄った。7月中に完成し、9月から全国で上映される予定だ。



上映会:田中正造の偉業伝える記録映画「赤貧洗うがごとき」―来月、古河で(毎日新聞2006-08-05)

◇来月9日、古河で初上映

明治時代、足尾銅山鉱毒事件で被害農民らの救済に一生を捧げた田中正造の偉業を伝える記録映画「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」(98分)が完成し、9月9日、古河市で初の上映会が開かれる。

映画は、鉱毒事件で廃村になった谷中村(現栃木県藤岡町)が今年7月に廃村100年を迎えたのにあわせ、古河市民らで組織する「田中正造を後世に伝える会」が企画。製作委員会が組織され、東京都文京区の共同企画ヴォーロが製作した。

監督・脚本は、「東京大空襲・子供たちの証言」などを手掛けた池田博穂さん。キャストは、俳優の藤田弓子さん、赤塚真人さんが朗読を担当。田中役には、同会メンバーで画家の石神明治さんらが出演。同会の佐々木斐佐夫会長も証言者の1人として、また、古河市民らもエキストラで参加している。

作品は、田中の生涯を通じ、当時の政官財の癒着の実態、命や人権の大事さ、住民こそ歴史の主人公という立場を踏まえ、証言や資料を基に製作された。昨年10月にクランクインし今年7月下旬に完成。

31日に東京・なかのZERO小ホールで有料試写会が行われた後、9月9日から各地で上映される。9日は古河市公会堂で4回上映。入場料は一般1500円(前売り1200円)、シニア・高校生1000円、中学生500円。問い合わせは上映実行委員会へ。



足尾鉱毒事件解決に尽力 田中正造の半生描く 古河で上映会(茨城新聞2006-08-22)

日本の公害事件の原点とされる足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造の半生を描いた映画「赤貧洗うがごとき―田中正造と野に叫ぶ人々―」が完成し、9月9日、古河市公会堂で上映会が行われる。関係者は「見る人に感動と勇気を与える映画。特に若い人に見てほしい」と話している。

足尾鉱毒事件は、栃木県の足尾銅山から硫酸銅や砒素、鉛などの重金属排水が渡良瀬川に垂れ流され、下流の農業や漁業、住民生活に重大な被害を及ぼした事件。被害の大きかった同県谷中村は明治39年(1906)に廃村となり、現在は渡良瀬遊水池になっている。

衆院議員だった田中正造は谷中村に移住し問題解決に尽力したほか、国会で銅山の操業停止を求めるため死を覚悟で天皇に直訴するなど最後まで問題解決に奔走した。

古河市は田中正造が住民から支援を受けた所縁の地。映画は古河市民約60人で創る「田中正造を後世に伝える会」が企画。制作費の約5000万円は全国の賛同者から集めた。

昨年10月から撮影が始まり、同市と群馬県館林市を中心に米国、北海道などでも行われた。

映画は100分で関係者へのインタビューと証言、再現劇を通じたドキュメンタリーとなっている。

登場人物の多くは劇団員が演じたが、主人公の田中正造は古河市桜町の画家、石神明治さんが熱演。この他古河市民約30人もエキストラとして参加した。

同市の上映実行委員会では「権力や財力に屈することなく頑張った田中正造の映画を次代を担う若い人たちに見てほしい」と話している。

上映は9月9日に4回予定されている。入場券は一般1500円、高校生1000円。中学生500円。問い合わせは、実行委員へ。



田中正造の記録映画が完成 足尾鉱毒事件追及の生涯描く(朝日新聞2006-08-28)

日本最初の大規模公害とされる足尾鉱毒事件を追及し、被害農民の救済に尽くした元衆院議員田中正造の生涯を記録した映画「赤貧洗うがごとき」が完成した。史料や地元住民の証言、研究者の分析などを通し、事件の実態と共に人間味溢れる田中像を描いている。来月から全国各地で上映会が開かれるが、海外での上映を目指し、英語版の製作も計画している。

足尾鉱毒事件は、明治10年(1877)に操業開始した栃木県の足尾銅山で、煙害や山林荒廃による洪水、有毒重金属の流出による農業被害などが続発した公害事件。地元農民らが田中正造の指導の下、反対運動を展開した。

事件の影響で水没した谷中村(現栃木県藤岡町)が今年7月で廃村100年を迎えたのにあわせ、茨城県古河市民などで創る「田中正造を後世に伝える会」が企画。製作委員会を起ち上げ、出資金や寄付を募って昨秋クランクインした。

タイトルは田中正造が詠んだ「赤貧の/洗うが如き/心持て/無一物こそ/富というなれ」から採った。俳優の藤田弓子さんと赤塚真人さんが朗読を担当。「伝える会」のメンバーらが出演した。

映画の前半では血気盛んな青年時代から、足尾鉱毒事件を国会で取り上げ、政官財の癒着を追及する衆院議員時代を経て、天皇への直訴に至る経過を追っている。後半では、谷中村に移り住んで村民と共に闘う姿を様々なエピソードを交えて描いている。

池田博穂監督は「田中正造の魅力は、よく知られた天皇への直訴以後にこそある。議員を辞めて住民と暮らしながら死ぬまで諦めず、人間としても成長を重ねる。勇気を与えるその姿を見て欲しい」と話している。

上映会は、31日に東京都中野区の「なかのZERO」である有料試写会を皮切りに、地元の栃木県など各地で開かれる。問い合わせは製作委員会へ。



“正造伝説”今も―渡良瀬100年 第2部 翻弄された人々(読売新聞2006-09-15)

晩年の田中正造

藤岡町藤岡の渡良瀬川に近い田園地帯に、田中正造を祀る神社「田中霊祠」はある。正造の死後、旧谷中村に建てられ、大正7年(1917)、渡良瀬川改修の際に、約5q北西の現在地に移された。拝殿には正造の遺骨が納められ、毎年4月に旧村民の子孫らが集まり、盛大に例祭を開いている。

「谷中の歴史を引き継ぐ藤岡で、正造の骨を祀っているのはここだけです。谷中の農民を指導し、農民のために闘ったのが正造正造は我々の先祖の英雄なんです」。田中霊祠会会長の井岡武一郎さんは誇らし気だ。

田中正造と移住民の関係について研究している久野教諭

県立栃木翔南高教諭の久野俊彦さんは4年前、茨城県の古河歴史博物館の企画展に関った事がきっかけで、正造と旧谷中村民の関係について研究している。

久野さんは、正造の遺骨が遊水地周辺6か所に分骨されていることを挙げ、「谷中と言えば、最後まで買収に抵抗した16戸が有名だが、買収に応じて移転した人々も正造を祀っている。100年経った今も、地域の人々に、正造は息づいている」と語る。

地元では“英雄”として讃えられる正造も、明治政府には、“危険分子”と映ったようだ。富国強兵を推し進めていた政府にとって、国内一の生産量を誇る足尾銅山は、なくてはならない存在だったからだ。

「魚類ことごとく死に去り、沿岸の漁民その業を失い」などと、『読売新聞』が足尾鉱毒問題を初めて報じたのが明治23年(1890)1月。その年、衆院議員となった正造は、銅山の操業停止や農民救済などを繰り返し質問したが、政府は「議会後に官報に掲載する」などとはぐらかした。選挙演説を中止させられるなど、あからさまな妨害もあったという。

谷中村廃村が決まると、正造は村に移り住み、廃村反対を訴えた。「田中正造を後世に伝える会」会長の佐々木斐佐夫さんの祖父はその頃、移転先の茨城県古河から、正造を支援した。

正造は、家もなければ、定宿さえもない程貧しく、宿を貸したり食事を提供したりする支援者は多かった。祖母がよく、『気の毒な人じゃたがよ』と言っていたのを想い出します」。佐々木さんは話す。

正造の生き様は、水俣病やイタイイタイ病など、高度経済成長に伴う公害が深刻化した1960年代後半になって、再びクローズアップされた。現在は教科書にも取り上げられている。

遊水地周辺でも昭和48年(1973)、正造の功績や鉱毒事件を研究する市民団体「渡良瀬川研究会」(館林市)が結成され、昭和61年(1986)には、正造の故郷である佐野市に、正造の思想や行動を研究するグループ「田中正造大学」ができた。毎年夏には、これらのグループが中心となって「渡良瀬川鉱害シンポジウム」を開くなど、活発な活動を続けている。

田中正造大学事務局長の坂原辰男さんは、「警察の弾圧に遭うなど、正造は、時代に翻弄された側面もある」と話し、こう続ける。「100年前から、公害や人権という問題に信念を持って取り組んでいた正造を、私たちは忘れてはならない」



田中正造の熱い生涯 北川辺で29日映画上映 (産経新聞2006-10-23)

明治時代後期に発生した足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造の生涯を描いたドキュメンタリー映画「赤貧洗うがごとき」が29日、北川辺町麦倉の生涯学習センター「みのり」で公開される。難局でも強い信念を貫く正造の熱い生涯を通じて、当時の政官財の癒着の実態を伝え、命や人権の大切さなどを考えさせられる内容となっている。茨城や栃木など北関東を中心に順次上映されてきたが、県内では初公開。

映画は、事件の被害に遭った谷中村(現栃木県藤岡町)が今年廃村100年を迎えたことを記念して、同村出身の子孫らで創る茨城県古河市の「田中正造を後世に伝える会」が企画。正造の激動の人生や同事件の概要を多くの人に知ってもらうのが狙い。東京都文京区の映像制作会社が協力し、撮影は昨年10月にスタート。古河市や栃木県佐野市など正造と縁が深い土地などで行われ、7月に完成した。

県内では同事件の影響を大きく受けた北川辺町内でもロケを敢行。同会から映画製作への協力の打診を受け、同町にある正造の研究組織「田中正造翁を学ぶ会」の会員らが参加。劇中で同事件の悲惨な現状や地元への愛着心を訴えている「足尾銅山鉱毒悲歌」を披露したほか、エキストラ出演も果たした。映画のタイトルは正造が詠んだ短歌「赤貧の/洗うがごとき/心もて/無一物こそ/富というなれ」から名付けられた。

映画は、衆院議員時代の国会演説の様子や、同事件の被害住民の救済や銅山の操業停止を訴えて奔走する場面などの再現劇が軸。写真などの資料や研究者らのインタビューなども交えながら、正造の波乱の生涯をドキュメンタリータッチで描いた。

学ぶ会の柿沼幸治幹事は「歴史の勉強にもなる。特に子供たちに観てもらいたい」と話している。料金や上映時間などの問い合わせは北川辺町上映実行委員会事務局へ。

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代
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