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有名だった四角い土俵 南部相撲の全貌を紹介(盛岡タイムス2006-09-27)

「相撲極傳之書」遊覧角力ノ図(江戸後期) 「野見宿禰と当麻蹶速対戦之図」(大正〜昭和期)

「四角い土俵とチカラビト」展が23日、盛岡市上田松屋敷の県立博物館で開幕した。同館と県文化振興事業団が主催。四角い「角土俵」を使うことで全国的にも有名だった南部相撲盛岡藩における相撲の歴史的変遷を、全国と比較しながら紐解く。「チカラビト」は、藩のお抱え力士や行司、明治時代以降に草相撲に関わった人々と設定。その足跡を「地域性」と「娯楽性」の観点から探る。「チカラビトの系譜」「土俵の変遷」「行司の系譜」「身近なチカラビト」の4つのコーナーに分け、約140点の資料を展示している。

相撲の起源については『日本書紀』に伝説が残されている。そのエピソードを描いたのが、花巻市の早池峰神社に残されている絵馬野見宿禰のみのすくね当麻蹶速たいまのけはや対戦之図」(大正〜昭和)。野見宿禰は投げ倒した当麻蹶速の脇骨や腰を足で踏みつけ、絶命させたと記されている。この絵馬は地元の草相撲力士たちから同神社に奉納された。

全国的に土俵の区画が明確にできたのは、江戸時代初期といわれる。それまでは、力士の周りを囲む人垣人片屋ひとかたやが土俵の代わりを果たした。

土俵の区分がないため、現在とはルールが大きく違う。突き押しではなく、回しを取り合い、投げを打ち合い、相手を裏返しにするような技が主流だった。

「角土俵相撲興行之図」(江戸初期)などの資料から、江戸時代の中期までに、全国に角土俵が出現していたことが分かる。元禄時代以降(17世紀後半)に大坂や京都で行われた勧進相撲の中にも、角土俵の使用を示すものがある。

盛岡藩の土俵については「相撲極傳之書(遊覧角力ノ図)」(江戸後期)の中に、5つの相撲様式の絵入りの記載がある。

儀式的な「式正相撲」では八角形の土俵を三重に巡らせ、御前相撲神前相撲は二重の丸土俵を使用。角土俵で行われたのは、庶民が観戦できる相撲のみ。遊覧(勧進)相撲は二重、追善相撲は一重に俵を置いた。角土俵遊覧相撲は、地域によって昭和30年代まで残った。

江戸時代、盛岡藩の領内では遊覧相撲が行われ、多くのお抱え力士を輩出。力士たちは所属した藩を示す印紋が付いた化粧回しを身に着けた。盛岡藩の印紋は菱が2つ重なったものだった。

明治期から昭和30年代までは、街角での草相撲が盛んに行われた。盛岡市や滝沢村、八幡平市や二戸市で現在も続く奉納相撲は、岩手の相撲文化の裾野の広さを示している。

この他、行司の装束や江戸時代の力士の錦絵、「大相撲土俵入双六」、明治、大正時代の板番付なども展示されている。

11月23日まで。午前9時半から午後4時半。月曜休館。入館料は大人300円、学生140円、高校生以下は無料。途中、資料の入れ替えあり。10月1日の午後1時半から同3時まで、同館前の芝生広場で「角土俵の再現」が行われる。



盛岡藩政期の相撲来月1日再現 県立博物館(朝日新聞2006-09-28)

昭和4年(1929)に県内で行われた相撲の様子

「相撲の土俵は四角かった」「昔の力士は大名のお抱えだった」―一般にはあまり知られていない相撲の様々な側面に光をあてた企画展「四角い土俵とチカラビト〜盛岡藩の相撲〜」が、県立博物館(盛岡市)で開かれている。盛岡藩のお抱え力士の化粧回しなどが展示されるほか、10月1日には四角い土俵が再現され、相撲大会が開かれる。

元々相撲は庶民の娯楽として広く行われていたが、江戸初期になって四角い土俵が使われはじめたという。「取組のルールを整え、土俵もつくり、取組の結果を巡る喧嘩をなくす意味合いもあった」と同博物館の舟山晋・主任専門学芸調査員は説明する。

その後の享保年間(1716〜1736)に、大名家が力士を抱えておこなう勧進相撲が江戸や大坂を中心に盛んになった。各藩は名声を高めようと、有力な力士を武士として取り立てた。人気力士は錦絵にも描かれた。

土俵が現在のように丸くなったのはその頃とみられている。土俵は現在よりも俵の部分が大きく、「四角の角の部分が観客から見にくかった。そのため、土俵を丸くしたと推測される」(舟山さん)という。

だが、盛岡藩ではその後も長く、土俵は四角いままだった。江戸中期に京都の公家から「越後」の行司名を授けられた有力者の長瀬家が、江戸などで丸い土俵が広まる中、四角い土俵での相撲を続けたという。

盛岡では昭和30年代まで、四角い土俵での相撲が続けられた。岡山県や沖縄県では、今でも四角い土俵での相撲が残っているという。

そんな伝統の「四角い土俵」が10月1日、県立博物館内の芝生広場に再現される。当日は県相撲連盟から20〜30人が参加し、相撲大会が開かれる予定だ。

また、企画展は11月23日まで開かれ、期間中には元横綱大鵬の納谷幸喜・相撲博物館長や横綱審議委員の脚本家・内館牧子さんの講演会もある。問い合わせは同博物館へ。



四角い土俵:盛岡藩伝統の相撲を再現―今日、県立博物館/岩手(毎日新聞2006-10-01)

◇四角い土俵で、残った!のこった!!

江戸時代中期頃から、江戸をはじめ全国で丸い土俵が広まっていく中で、盛岡藩では昭和30年代まで四角い土俵を使う相撲が続けられていた。その「四角い土俵」が1日、盛岡市の県立博物館内に再現され、当時の相撲の決まり手などが披露される。

再現される土俵は1辺4・24mの正方形。俵をその内側に並べるため、現在の円形の土俵に比べて約3〜4u小さい。内側に16個、外側に24個の俵を並べて、隅に4本の柱を立ててある。

相撲の起源は定かでないが、『日本書紀』には「力比べ」を題材にした逸話が残っており、古くから神事や娯楽、武芸鍛錬として広く親しまれてきた。

元々相撲に土俵はなかった。周囲の人垣が舞台だった。江戸初期に興行としての相撲が始まり、観客が勝負を妨害しないように線引きが必要になった。4本の柱の下に紐などで囲った場が設けられるようになり、寛文年間(1661〜73)には俵で囲んだ四角い土俵が広まったという。

享保年間(1716〜36)には、大名家がお抱え力士による勧進相撲を始める。この頃から江戸を中心に丸い土俵が広まるが、盛岡藩では四角い土俵が残った。同博物館の舟山晋・主任専門学芸調査員は「南部相撲を司る行司の長瀬家が、四角い土俵での相撲を続けたとみられる」と説明する。県内では昭和30年代まで四角い土俵が使われていたことが資料からも分かる。

1日は午後1時半から、県相撲連盟メンバーの力士約20人、行司7人が四角い土俵に上がり取組が行われる。同博物館では11月23日まで「四角い土俵とチカラビト」と題して相撲の歴史を絵図や写真、資料などで展示している。1階では国技館の売店にある相撲グッズも販売する。



盛岡藩伝授の相撲再現 県立博物館(読売新聞2006-10-02)

昔の様式を再現した四角い土俵で相撲を取る力士たち

盛岡市上田の県立博物館内で1日、盛岡藩に伝わる四角い土俵を再現して相撲が行われた。今では殆んど見ることができない、独特の様式を持つ土俵で行われた取り組みを、来場者は興味深そうに見学していた。

◇四角い土俵でノコッタ!

この催しは、江戸時代の相撲文化などを紹介した企画展「四角い土俵とチカラビト〜盛岡藩の相撲〜」の目玉として行われた。

芝生広場に設けられた土俵は、約4m四方で、俵が内側に1辺16俵、外側に1辺24俵ずつ並んでいる。土俵の周囲に4本の柱が建てられ、屋根に魔除けと広告塔の役割を果たす「しゃちほこ」が2匹乗っている。

同博物館の舟山晋・主任専門学芸調査員によると、四角い土俵が現れたのは、江戸時代初期。それ以前は土俵がなく、相手が倒れるまで戦っていたため、幕府や藩が、相撲の技や様式を定め、四角い土俵が考案された。四角い理由は不明という。江戸時代中期になると、観客が見えやすいよう、土俵は四角から丸に変わっていったとみられる。

ところが盛岡藩は、相撲を取り仕切る役職にあった「長瀬家」などが、四角い土俵を使った相撲様式を弟子に伝授し、藩も四角い土俵を守り続けた。昭和35年(1960)頃まで、県内に四角い土俵が残っていたことが、文献などで確認されているという。

この日は、県相撲連盟に所属する22人が参加し、江戸時代に庶民が観戦することができた「遊覧相撲」などを再現。相手の爪先を取り、引き上げて倒す「つまとり」など、昔の書物に残っている数々の技を実演しながら、熱戦を繰り広げた。

同市仙北、高橋満さんは「四角い土俵は初めて見た。昔あった相撲を見ることができて良かった」と話していた。

舟山学芸調査員は「四角い土俵が残ったのは、全国的に珍しい。展示を機会に相撲に親しんでほしい」と話している。企画展は11月23日まで。四角い土俵は期間中、展示されている。11月3日には元横綱大鵬で、現在は相撲博物館館長の納谷幸喜さんの講演会も開かれる。問い合わせは、同博物館へ。



「角土俵」雄姿再び 盛岡・県立博物館(岩手日報2006-10-02)

四角い土俵で独特の立ち合いを披露する力士

盛岡市上田の県立博物館で1日、盛岡藩領で盛んに行われていた四角い土俵を用いた相撲が再現された。昭和初期までは行われていたとされる古式の相撲を一目見ようと、約300人が来場。独特な土俵入りの儀式や立ち合い、決まり手などに興味深く魅入った。

行司や力士は県相撲連盟の選手らが演じ、当時の作法や取り組みを再現。5つの形式がある盛岡藩の相撲の中で、最も格式が高い「式正しきしょう相撲」と、庶民が観戦できた「遊覧相撲」を披露した。

再現されたかく土俵は約4・2m四方。四隅には高さ約4mの柱が立てられ、柱と梁には四神などを表す5色の布を巻いた。

力士は土俵入りの前に地面に平伏する独特の儀式を披露。互いに立って型を構え、行司の「はじめ」の掛け声でぶつかり合った。決まり手も回しを取っての投げ技が主体で、現在の腕捻りに当たる「みずぐるま」など技の原型が披露された。

盛岡藩領では江戸時代、奉納相撲や庶民の娯楽として相撲が盛んに行われ、独特の四角い土俵「南部の角土俵」と云われた。角土俵は地域によって昭和30年代まで残り、草相撲などに用いられた。

盛岡市小鳥沢二丁目の団体職員吉崎陽さんは「昔の相撲は神事であり、一方では庶民の娯楽であったと感じた。益々興味が沸いた」と満足そうだった。

県相撲連盟の佐藤正雄理事長は「国技である相撲の歴史、文化を見直すことができたのではないか。どのように相撲は伝承されてきたのかを後世に伝えるためにも良い機会だった」としている。

角土俵の再現は同博物館が11月23日まで開く盛岡藩相撲企画展の一環。角土俵は企画展の期間中、展示される。同博物館の舟山晋学芸員は「地域で発達した相撲をぜひ見てほしい」と呼び掛ける。



投げ技豪快決着 四角い土俵の盛岡藩相撲を再現(盛岡タイムス2006-10-02)

再現された四角い土俵での角相撲

円土俵が主流になって行く中、盛岡藩で受け継がれ昭和30年(1955)まで実際に使われていたという角土俵を使った相撲が1日、盛岡市上田字松屋敷の県立博物館で執り行われた。江戸時代は土俵を割る決まり手はなく、土俵内で勝負を決着した。殆んどが投げ技で、現代とは違った豪快な決まり手に観客からも声や拍手が上がった。角土俵は11月末まで、展示されている。

江戸時代、相撲で土俵が設けられるようになった当初は四角いものだった。しかし、次第に丸い土俵が広まっていき主流になった。相撲好きの南部の殿様は相撲を奨励し、南部相撲は一大勢力となった。その中で、四角い土俵に拘り、結果として昭和の時代まで角相撲が残った。

角相撲は同館で開催中の企画展「四角い土俵とチカラビト」に因んで、日曜講座として行われた。県相撲連盟が後援し、昨年から取り組みや土俵入りなどに当たった。

再現された土俵は江戸時代の史料「相撲極傳之書」を基に造られた。俵で四辺を二重に囲み、土俵を割ることを想定していないため土俵は太く幅も高さもある。四隅に柱を立てて屋根を掛けた。柱はそれぞれ黒、青、赤、白の布で巻かれ、屋根の軒下には黄の水引が巡らされた。屋根の頂部にはしゃちほこが据えられている。広さは丸土俵よりも小さい。

取り組みには社会人のほか、平舘、盛岡農の両高校の選手も出場した。盛岡藩の相撲の最初の行司流派となった岩井流「相撲取組傳書」に記載の技を現代に照らし合わせて決まり手を研究。現代にはない名の決まり手を推測、置き換えた。

観客には分かりやすく、より多くの技を見てもらおうと予め決まり手を決めて練習し、演武として臨んだ。昨年から企画され、練習を積んできたが、力士たちは「土俵が小さく、戸惑いもあった」などと話していた。

本行司を務めた及川司夫さん=奥州市=は式守伊助の行司名を持ち、今回は「運が良かった」と話す。「長く伝統のものが残っていたことに感謝する。奥深さがある」と県人として南部相撲を誇りに感じていた。



四角い土俵―蔵出し〜県立博物館のお宝(朝日新聞2006-10-20)

再現された角土俵では、盛岡藩政当時の様式で相撲の取組が行われた

相撲の土俵が丸いことは誰もが知っているでしょう。現在の大相撲の土俵の大きさは、直径が15尺(4・55m)です。

この大きさは、昭和6年(1931)に定められたものです。それ以前は、時代や地域により差はありますが、直径13尺(3・94m)が一般的でした。

江戸時代になるまでは、俵で区切られた土俵はなく、観戦する人が、取組をしている力士を囲む人片屋ひとかたやが主流でした。

これが、線や俵で区切られた四角い土俵に変化します。

そして、江戸時代中期から江戸や大阪で相撲興行が流行すると、丸い土俵が全国に広まります。

丸くなった理由は、観客からの見易さや、勝負の判定のし易さが挙げられます。

同じ頃、独自の相撲様式を持っていた盛岡藩には、八角形や丸、四角と多彩な形の土俵がありました。この中で庶民が観戦できる相撲は「遊覧角力」と呼ばれ、四角い土俵で行われました。

現在、県立博物館の芝生広場に、この四角い土俵を再現し、期間限定で展示しています。

土俵の広さは4・24m四方です。四隅に建てた柱の上に屋根をかけます。また、柱を結ぶ線上に、大きな五斗俵を一辺に4俵ずつ置きます。更に、その外側の一辺に6俵ずつ、二重に俵を置いています。

4本の柱を屋根の下から囲む黄色の水引幕や、柱ごとに巻かれた黒、青、赤、白の4色の布、屋根の上の青と白の魔除けのしゃちなどに、江戸時代の相撲の雰囲気が漂います。

再現した土俵にある4色の柱は、現在の大相撲の土俵にはありません。

戦後、大相撲がテレビで中継されると、画面で取組が見にくくなる柱はなくなりました。また屋根も天井から高く吊り下げられ、その四隅から柱の代わりに4色の房が下げられました。

庶民の娯楽として親しまれてきた相撲は、興行という側面を強く持ち、観客のニーズを柔軟に取り入れて発達してきました。土俵の変遷は、そのことを象徴的に示しています。

さて、博物館の四角い土俵では、10月1日に、県相撲連盟の協力で盛岡藩当時の相撲の取組を再現しました。

これは行司の作法も、力士の取組の方法も現在とは異なり、戸惑う部分もありました。

土俵上には、力士が手をつく仕切り線はなく、ここに示したように=写真=、力士は手を上げた構えから回しを取り合いました。このような構えは全部で5種類ありました。

技の面でも、寄り切りや押し出しはなく、回しを引いてお互いの投げ技で決着がつくのが一般的でした。俵に腰掛けて技をかけることも許され、現在の相撲とは別の格闘技のようです。

再現した土俵は、開催中の企画展「四角い土俵とチカラビト」にあわせて、11月23日まで公開しています。ぜひ盛岡藩時代の遊覧角力の雰囲気を味わってみてください。

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近世
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