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姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)

震災当時には避難所となった五村別院

◇湖南・草津市 琵琶湖博物館でギャラリー展示中

県立琵琶湖博物館(草津市)では6月7日まで、ギャラリー展示「100年前の大地震〜姉川地震に学ぶその備え〜」を開催している。

平成21年(2009)は、姉川地震(明治42年=1909)の発生から100年目にあたり、その間、近畿では大規模な地震があったが、滋賀県を中心とする大規模な地震は発生していない。姉川地震から100年という節目の今年、滋賀県の防災への備えを考える機会として開催するもの。

この展示では、100年前に発生した姉川地震について、当時の災害記録写真を展示解説するほか、防災シェルターや資機材等も展示し、また、日本の地震がどうやって起きているかなどの自然科学的な解説と、現在の地震防災の取り組みを紹介している。

尚、関連イベントとしてGW中に、起震車「グラグラ号」による地震の揺れ体験や防災ヘリコプター「淡海」による救助訓練が行われた。



※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

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100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)

姉川地震当時の被害を紹介した写真パネル

100年前に県内で起きた姉川地震を振り返る資料展が、草津市の県立琵琶湖博物館で開かれている。来月7日まで。無料。

姉川地震は明治42年(1909)8月、県北部を中心に発生した。震度6に当たる「烈震」と呼ばれる強い揺れを観測し、県内で41人が死亡、約3500の家屋が倒壊した。

発生から100年の節目に同館が企画。現在の長浜市や虎姫町で収めた被災当時の写真や、調査報告書に記載がある被害状況などを約60点のパネルで紹介している。

屋根まで崩れ落ちた民家の写真は、被害の大きさを生々しく伝えている。現在の姿と一緒に展示された小学校や寺院の写真もあり、復旧に要した人々の苦労が垣間見える。

県内にある活断層を解説したパネルや被災時に不可欠な備蓄品の展示を通じて、備えの大切さを呼び掛けている。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

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村山実銅像:何処へ 尼崎産高統合、移転先決まらず(毎日新聞2009-05-10)

移転先が決まらない村山実さんの銅像

市立尼崎産業高の校門に立つ阪神タイガースの元エース故・村山実さんの銅像が、同校と市立尼崎東高との統合で移転せざるを得なくなり、関係者を悩ませている。同校は統合で校名や場所も変わるが、銅像を立てたOBらは「この場所でなければ意味がない」と譲らない。新設予定地から基準値を上回る鉛や砒素が検出されたため、統合は1年先延ばしされ平成23年(2011)春になった。同校は「猶予期間はあと2年。早く置き場を決めなければ」と頭を抱えている。

村山さんは同校の前身、住友工業高のOB。昭和34年(1959)に阪神に入団、通算222勝を挙げた。同校OBらが「偉大な先輩を学校の誇りにしてもらおう」と平成16年(2004)の七回忌に合わせ校門近くに建立した。「ザトペック投法」と呼ばれた投球フォームを再現した銅像は、市民にも親しまれている。

統合後の跡地利用は決まっておらず、OBらは「銅像村山さんがプレーしたこの場所に残したい」とするが、学校側は「OBの思いは尊重したいが、学校がなくなるので、銅像も何処かに移したい」と意見が合わない。

現役の野球部員らにとって村山さんは、「伝説の大スター」。山住豪志主将は「銅像に見守られているという心強さは大きい。尼崎産業高の名前が消える前に甲子園に行き、村山先輩を超えたい」と話していた。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→Mr.タイガース・村山実氏の銅像の落ち着き先が宙ぶらりん!

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鉄門:“門”違いでした 「加納城を移築」実は大垣城―各務原(毎日新聞2009-05-10)

大垣城本丸の門と分かった鉄門

◇中山道鵜沼宿町屋館で公開中

加納城(岐阜市)の門と伝えられていた各務原市内の旧家のくろがねが、大垣城(大垣市)本丸の門である事が各務原市の調査で分かった。寄付を受けた同市が移築のために解体した際、土台の柱に大垣藩大工奉行などの名の墨書が見つかった。鉄門は、移築先の各務原市鵜沼西町の中山道鵜沼宿町屋館で公開されている。

各務原市蘇原野口町の安積輝夫さん宅に明治9年(1876)に払い下げられた鉄門で、「安積門」と呼ばれ、加納城の門を移築したとされてきた。昨年6月、安積さんが市に寄付し、市が解体修理をしたところ、墨書を見つけた。「四月十二日土台入れ」と書かれ、江戸末期の大垣藩大工奉行ら11人の名前もあった。鬼瓦には、大垣藩主・戸田家の紋「九曜紋」もあり、市は大垣城鉄門だったと断定した。

は、間口約5・7m、高さ約4・5m。切妻きりづまの瓦葺き屋根のかかる高麗門。明治3年(1870)の県の公売入札告示には、「鉄門 高一丈一尺、巾三間」とあり、規模がほぼ一致。火矢や敵の攻撃を防ぐために正面には短冊形の鉄板を隙間なく張り、軒下は白漆喰塗りで、厳重な防備の可能な構造。高麗門形式鉄門は、名古屋城本丸表二の門と、大坂城(注1)大手門(二の門)が現存する。


※注1 大坂城
「大坂城」は豊臣期の城郭及び徳川期の城郭を指す。明治期以降、大阪と改称されて以降の昭和期の城郭(天守閣)については「大阪城」天守閣と称す。


大垣城は、天文4年(1535)の築城とされ、空襲で焼失した後、現在の城が再建された。版籍奉還後の明治9年(1876)、天守を除く本丸部分が払い下げられた。



※(関連)→民家の門が大垣城鉄門(朝日新聞2009-05-09)
※(関連)→旧大垣城の鉄門を披露 鵜沼宿 各務原の医師寄贈(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→各務原の「安積門」は大垣城鉄門の可能性(岐阜新聞2009-05-09)

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手話(始まりへの旅)(読売新聞2009-05-10)

「手話」のルーツとなる「手勢」

◇京都から始まった

慈愛の精神 聾者導く

4本と2本の指先を合わせ、右手をくるっと半回転させながら下げていく。「季節」を表す手話だ。古都で誕生し、幾つもの季節を経て洗練された「視覚言語」の歴史は、或る教育者の存在なくして語れない。

新緑が眩しい。古都世界遺産の1つ、仁和寺の二王門を潜り、参拝客らで賑わう境内を抜けた。御室の山々が迫り、その麓に学舎が見える。

京都府立聾学校。京都市右京区に位置し、聴覚障害の子どもたち82人が通う。校庭で出会ったのは高等部2年生の生徒ら。手指を素早く動かし、顔の表情も使って、何やら談笑していた。手話だ―

「陸上部の練習について話しているようです」と、教務部長の丸山二郎さん。ここでは幼稚部から高等部まであって、手話は小学部から学ぶという。

聾者にとって欠かせない、そのコミュニケーションの手段が形成されたのは何時か。歴史を辿ると、この学校の前身「盲唖院」に行き着く。明治前期、日本で初めて誕生した聾学校だ―

手話を語る時、先ず、記さねばならない名前がある。古河太四郎。幕末の弘化2年(1845)、京の西陣辺りで生まれ、近代障害児教育の先覚者」とされている。

700人近い生徒を抱える寺子屋が生家とあって、幼少から文武に親しみ、明治維新後、自らも読み書きを指導した。折しも、東京奠都で停滞感が漂う街を人材育成で活性化するため、明治2年(1869)、64の小学校が設けられ、古河も、その教師に就いた。

事件が起きたのは、その翌年の事。水不足に悩む農民らのため池開発を支援して国の許可書を偽造し、投獄された。或る日、獄舎の窓から、耳の不自由な2人の子が殴られ、からかわれているのを見た。障害者への過酷な差別があった時代。聾者は孤立し、意思伝達の手段も持ち得なかった。

獄中で、こう綴った―

盲唖もまた人なり…人に軽蔑且凌辱せらるるのことわりなし

教育の機会を与えないのは、過ち―そう考え、2年後に自由の身となって復職してから、生家に近い小学校で、あの2人を含む3人の障害児を教え始めた。地元の有力者の助力を得て、校内に専用の教室も造ったという。

耳の聞こえない生徒とどう意思疎通を図ったのだろう。「互談する所に注目し其意を酌み」と、古河は書いている。身振り手振りで「互談」する生徒らを観察し、手指や顔の動作1つひとつが何を示すか、探っていったらしい。

「魚の泳ぐ姿を真似た手の仕草が『魚』を表すとか、湯飲みの形にして口にもっていくのが『飲む』だとか、意味が通じる動作が徐々に増え、それを使って文字を教えていった」と、日本手話研究所の高田英一所長は言う。

動物、草木、衣服、色…様々な事物や事象を示す動作はやがて100を数え、古河手勢しゅせいと名付けて文法化に取り組んだ。国内での手話の原型だ。

未だ初歩の段階ながら、その手法は評判を呼んだ。明治天皇が明治10年(1877)6月に視察したのを機にして、親たちが障害児教育を求める運動を展開していく。古河も呼応して教育施設の拡充を訴え、遂に京都府が動いた。

東西両本願寺や有力者らから現在価値で5000万円以上の寄付も集まり、現在の中京区で盲唖院が開校されたのは翌11年(1878)年5月。聴覚障害の31人と視覚障害の17人が入学し、式典で初代院長の古河と生徒が手勢を披露した。獄舎の前で苛められていたあの2人だ。

当時の新聞から、熱気が伝わってくる―

「院中の人々驚き感服したり」
「此の開業は実に我国の美事と云ふべし」

古河は、動作を1つひとつ図示した『形象手勢』に加え、指で日本語の五十音を表す「指文字」も考案して『五十音手勢図』を作成し、教育に生かした。

院長を11年務めて退職し、明治40年(1907)、62歳で生涯を閉じたが、教え子らの交流が聾者の全国組織結成へ繋がり、手勢手話として発達していく。

孫の清明さんが語る。「祖父は晩年、大阪でも盲唖院の開校に関わりました。将に障害児教育に捧げた人生でした」

盲唖院は開校翌年の明治12年(1879)、京都府庁の南に移り、やがて聾学校となって戦後、御室に学舎を構えた。

手話は改良を重ね、古河が編み出した単語の多くは既に使われていない。「指文字」も、より分かり易い形式に取って代わられた。

高田さんらが編む手話辞典に収録された語の数は、最新版で8300余り。当初とは比べものにならないが、「ここまで洗練されたのも先生の功績があればこそ。我々の恩人です」と言う。

自らも8歳の時、病気で失聴し、府立聾学校で学び、そして手話研究の一線に立っている。視覚言語とも呼ばれる現在、尚残る古河の「言葉」が懐かしい。

手探りのふれあいの中から生まれた魚も、草も、山も

◇世界初はパリで

手指の形や動き、顔の表情などで意味を伝える手話は、1760年(宝暦10)、フランス・パリで世界初の聾学校を開設したド・レぺが考案し、教育に採り入れたのが始まりとされる。世界各国で、異なる手話が用いられているという。

厚生労働省の実態調査(平成18年=2006)によると、日本で身体障害者手帳を持つ聴覚障害者は約27万6000人で、うち約5万2000人が手話を日常的に使っている。


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新田義貞に因み鏑矢祭 太田・生品神社(朝日新聞2009-05-10)

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太田市新田市野井町の生品いくしな神社で8日、鎌倉幕府を攻め滅ぼした武将・新田義貞に因んだ鏑矢かぶらやがあり、地元小学生が空に向かって一斉に矢を放った。

生品小学校の6年生男子64人が、約300人の観客を前に、先月から練習してきた成果を披露。「鶴翼」「魚鱗」の掛け声に合わせ、移動し陣形を構えた。

佐伯朋哉くんは「早く6年生になって参加したかったので嬉しかった」と話した。茂木晃さんは指導に携わって26年目。参加する子どもの数は、団地造成で当時から倍増したという。「地域にとっては嬉しいが、動きが揃う様指導するのは大変」と笑った。

祭り役員の松井静衛さんによると、祭りは元弘3年・正慶2年(1333)のこの日、義貞が同神社で倒幕の旗揚げをしたという伝承に因むという。



※(関連)→新田氏所縁の太田・生品神社で鏑矢祭(上毛新聞2009-05-09)
※(関連)→太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ(東京新聞2009-05-09)


 

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