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「山本菅助」への信玄書状を発見 群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通(山梨日日新聞2009-05-01)

信玄(晴信)が菅助に宛てた書状の一部。左端に「山本菅助との」とあり、その右隣に信玄の花押がある

戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助に宛てた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は昭和44年(1969)に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏に宛てた書状『市河文書』だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物が居た事は間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。

名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書『甲陽軍鑑』などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣としての菅助の存在を示す唯一の史料が『市河文書』だった。今回見つかった文書には『市河文書』と同じ「菅助」の名が記され、紙の材質や文書の書式などからも信玄が活躍した16世紀後半のものでほぼ間違いないという。

新たに見つかった文書を所蔵していたのは、安中市原市在住の真下正貴さん。昨年5月、蔵の整理中に『信玄公御證(証)文』と書かれた漆塗りの木箱を発見。中には5通の文書が年代順に張られた巻物1本が入っていた。

このうち信玄菅助に宛てた書状は2通。業績を褒め恩賞を与える内容と、重篤な状態にある家臣「小山田(出羽守信有)」の見舞いを命じる内容で、1通は「菅介」の字が使われていた。

武田家菅助宛てに出した朱印状1通では、菅助に足りない武具の支度を指示するなど、信玄が家臣として信頼していた様子が窺える。

残る2通は、武田家菅助の後継者といわれる「山本十左衛門尉」軍役を命じた朱印状と、徳川家康の次男「結城秀康」菅助の子孫と思われる「山本平一」に宛てた見舞いの礼状だった。この2通からは菅助の子孫の存在も明確になった。

調査を担当した県立博物館学芸員の海老沼真治さんは「菅助は上野国(現群馬県)から東信濃の動静に精通しており、高崎藩士の中に山本菅助の子孫を名乗る人物が居た事などから、菅助と群馬は深く関係していたと考えられる。多くの研究者の意見を聞きながら、1通毎に史実と照らし合わせてより詳しく研究したい」と話している。

見つかった文書は今後、群馬県の安中市学習の森ふるさと学習館で保存される。



※(参照)→「勘助子孫」宅で古文書見つかる(東愛知新聞2007-12-15)
※(参照)→山本勘助の名が記された下知状を公開 入野谷講座で参加者の興味を惹く(伊那毎日新聞2007-04-29)
※(参照)→真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した『甲陽軍鑑』(朝日新聞2007-04-04)
※(参照)→『市河文書』公開へ、山本勘助の名も(釧路新聞2007-02-16)
※(参照)→山本勘助の実在証明する『市河家文書』初公開へ(山梨日日新聞2006-11-09)
※(参照)→来年の大河ドラマ 山本勘助の存在証明文書公開へ 釧路の板井さん所有(北海道新聞2006-06-27)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

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