| カテゴリ 中世

『東郷荘絵図』“丸ごとガイド”(朝日新聞2009-05-20)

20090520a2.jpg

◇鎌倉時代にタイムスリップ

いざ鎌倉時代!郷土の中世へタイムスリップ―湯梨浜町は、鎌倉時代中期に東郷池周辺を描いた『伯耆国河村ごおり東郷荘下地中分したじちゅうぶん絵図』解説ガイドを作成した=写真。高校の日本史の教科書に何度も掲載された貴重な歴史資料を使う事で、地域の歴史に誇りを持ってもらうのが目的。現在の航空写真や町内の遺跡の解説も掲載しており、町企画課は「ガイドを片手に町内の歴史散歩を楽しんで」と呼びかけている。

◇湯梨浜町が作成 郷土の歴史、歩いて楽しんで

絵図は正嘉2年(1258)、「東郷荘」の領有権を巡って対立していた領家地頭の支配地を明確にするため描かれたもので、絵図には朱色の線が引かれ、鎌倉幕府執権北条長時と、執権の補佐役だった連署北条政村花押が印されている。

領家は京都の松尾神社(現・松尾大社)で、地頭東郷氏と考えられている。幕府御家人として勢力を伸ばした東郷氏荘園を侵していると松尾神社幕府に訴え、支配地を折半する事で和解した事を示しているらしい。

絵図荘園の衰退を示す貴重な歴史資料といい、ガイドは、東京大学史料編纂所が所蔵している模写本(縦127cm、横98cm)を原本にして作成した。ガイドは45cm四方の正方形だが、持ち運びに便利なように1/9の大きさに折りたためるデザインにし、現在の東郷池周辺の航空写真も掲載して、地形の変化が分かり易く学べるよう工夫したという。

裏面では絵図に記された地形や建築物を説明した。絵図に一宮と記されたのは現在の倭文しとり神社で、境内に隣接する伯耆一宮経塚からは銅経筒や金銅仏などが出土して国宝に指定されているなどと書かれており、理解を助けてくれる。

町は6000部を印刷。歴史講習会の資料などに活用するほか、希望者には役場や町図書館などで無料配布している。町企画課は「ガイドを片手に、鎌倉時代に思いをはせながら歴史を読み解く町歩きなどに利用してもらえれば、有り難い」と話している。問い合わせは同課企画係へ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』

houkinokuni-kawamuragooritogosho-shitajichubun-ezu.jpg



※(関連)→『東郷荘絵図』を「徹底ガイド」 湯梨浜町作成(日本海新聞2009-05-13)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

| カテゴリ 近世

『武雄軍団秋田を駆ける』 市図書館・歴史資料館が図録刊行 戊辰戦争での活躍記す(西日本新聞2009-05-18)

戊辰戦争140年を機に武雄市図書館・歴史資料館が刊行した図録『武雄軍団秋田を駆ける』

『武雄軍団秋田を駆ける』武雄市図書館・歴史資料館が、こんなタイトルの図録を刊行した。サブタイトルは「戊辰戦争140年」同戦争佐賀藩武雄領は、東北諸藩の中で唯一、新政府軍として参戦した秋田藩を支援するために当地に渡り、旧幕府軍と戦った。歳月と共に忘れ去られつつある武雄と秋田の歴史的関係を心に刻んでもらおうと、初めて編集した。

慶応4年(1868)1月に旧幕府軍新政府軍の間で始まった戊辰戦争で、武雄領主の鍋島茂昌は朝廷から出兵を命じられた。佐賀藩の一家臣である武雄領主へ異例の出兵要請がなされたのは、長年の蘭学や砲術研究が評価されたためだったという。

武雄領は約1000人の軍団を編成し、佐賀本藩の兵と共に秋田へ。茂昌は総司令官に任命され、現地で陣頭指揮に当たった。「アームストロング砲など最新の軍備を擁する武雄軍団の活躍は、敵味方を問わず大変驚かせた」と同館の川副義敦副館長は説明する。

旧幕府軍の東北諸藩に包囲され、孤立無援のまま焼土となる寸前だった秋田を救うため、遥々九州から駆けつけた武雄軍団。約2か月の戦闘で14人の戦病死者を出し、多数が負傷した。秋田では、武雄軍団の奮闘で城下が戦禍から免れた史実が語り継がれ、今でも多くの人が感謝の気持ちを忘れていない。

昭和61年(1986)、武雄軍団の兵士を含む戦没者3人の墓があった現地の丘陵地が土地区画整備の対象となり、墓石の移転が必要になった。この時、地元の人たちは「兵士の魂を慰めたい」と武雄にいる子孫を捜し出し、当時の武雄市長も招いて合同慰霊祭を行った。

「翌年には改葬が行われ、遺骨は佐賀を向く形で葬られたそうです。平成5年(1993)には国の重要無形民俗文化財で門外不出とされた秋田市の七夕祭り『竿灯かんとう』が武雄市と佐賀市で演じられ、多くの人が訪れました」と、川副副館長は両地の結び付きの深さを表現した。

図録はA4判、102ページで、武雄鍋島家の関係資料や写真のほか、秋田県内に残る資料も掲載。戊辰戦争での武雄軍団の公式記録『茂昌公羽州御陣中記』の翻刻もある。

川副副館長は「武雄鍋島家に伝えられた古文書のうち約800件が秋田での戦いの関係資料。この膨大さが、決して忘れる事を許さない歴史の重さを物語っている」と結んだ。1冊1000円。問い合わせは市図書館・歴史資料館へ。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→『武雄軍団秋田を駆ける』販売について(武雄市図書館・歴史資料館のサイトより)


※(関連)→武雄領の戦い辿る「戊辰戦争140年」発行(佐賀新聞2009-04-15)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近世

| カテゴリ 中世

学習教材用DVD:秀吉の太田城の水攻め、CG映像で再現 作製し配布/和歌山(毎日新聞2009-05-14)

hideyodhi-no-otajo-mizuzeme.jpg

◇観光振興など活用期待―和歌山大紀州経済史文化史研究所

和歌山大学紀州経済史文化史研究所(和歌山市)は、天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉雑賀衆を攻め滅ぼした「太田城の水攻め」を、コンピューターグラフィックス映像にして再現した学習教材用DVDを製作し、和歌山市立の小中学校や県立高校、各図書館などに約1000枚配った。

DVD「秀吉の太田城水攻め―中世の自治から近世の平和へ」(30分)。日本史の授業や歴史ドラマの発掘を通した観光振興などに、活用が期待されている。

同研究所によると、秀吉は天正13年(1585)、現在のJR和歌山駅東側にあった太田城の周囲を堤で囲い、水を入れて攻めた。堤は全長約7km、土量は約23万㎥に上った。鉄砲の使い手として知られ信長戦国大名に抵抗してきた雑賀衆を滅ぼした戦いは、中世の自治支配が終焉する節目となった。

映像は、現存する堤防遺跡の調査を基に、ウェブデザイン会社「BEE」(和歌山市)が再現。当時の状況▽現在の市街地に置き換えた状況▽地籍図に描かれた水攻めの遺跡―などを、分かり易く解説している。

上村雅洋・同所長からDVDを贈られた山口裕市・県教育長は「郷土の歴史を知る事は大事な事。高校生がもっとフィールドに出て学習する事ができ、有り難い」と話していた。監修した海津一朗・同副所長は「学校を軸にして地域文化を広めていきたい」と話した。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→「秀吉の太田城水攻め 中世の自治から近世の平和へ」(和歌山大学紀州経済史文化史研究所/DVD)



※(関連)→和歌山大が郷土学習用DVDを作成 豊臣秀吉の太田城水攻めが題材(産経新聞2009-05-12)


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

| カテゴリ 中世

『東郷荘絵図』を「徹底ガイド」 湯梨浜町作成(日本海新聞2009-05-13)

『東郷荘絵図』を分かり易く解説した『徹底ガイド』

鳥取県湯梨浜町は、約750年前の鎌倉時代中期に描かれた『伯耆国河村ごおり東郷荘下地中分したじちゅうぶん絵図(東郷荘絵図)』『徹底解説ガイド』を作った。当時の東郷池周辺の地形や地名、人々の暮らしを読み解く事ができ、現在の地形などとも比較。中世の湯梨浜に“タイムスリップ”する事ができる。

『東郷荘絵図』は、東郷池を中心に成立していた荘園「東郷荘」の支配地域を明確にするために描かれた。日本史の教科書にも度々取り上げられている。

現存する松尾神社や倭文しとり神社のほか、東郷池で小舟に乗って漁をする人の姿も描かれ、当時の人々の暮らしが現代とも繋がっている事が見て取れる。

絵図の地形は現在とほぼ同じだが、寛文元年(1661)に現在の河口に流れるように改修された天神川は、改修前の元の姿が描かれており、景観の改変も知る事ができる。

絵図と現在の航空写真を対比し、鎌倉時代と現代の地形の共通点を明確にしたほか、絵図に描かれた寺社や地名、領地争いの様子などを説明。寺社などは、現存或いはその跡と見られるものの写真を掲載して“繋がり”を分かり易く解説している。

6000部作製し、役場や町図書館、旅館組合の観光案内所などで無料配布している。町は「ガイドをヒントに、歴史を読み解く町歩きなどに活用して欲しい」と話している。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)『伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図』

houkinokuni-kawamuragooritogosho-shitajichubun-ezu.jpg



※(関連)→『東郷荘絵図』“丸ごとガイド”(朝日新聞2009-05-20)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

| カテゴリ 古代

青い目の人形:那智勝浦町文化財に 戦時中の苦難の時代、人々の良心が守る(毎日新聞2009-05-13)

◇将来は特別公開も

那智勝浦町は、昭和初期に米国から贈られ、町立宇久井小学校で保管される「青い目の人形」を、町文化財に指定した。県内では177体が小学校に贈られたが、多くが戦争中に「敵国の人形」として廃棄され、確認されているのは宇久井小の1体だけ。町教委は指定をきっかけに将来、地元の人たちに特別公開する事を検討している。

指定理由について町教委は「昭和初期の日米の友好と敵対の実態を示す。戦時中の苦難の時代にあって人々の良心により大切に守り受け継がれた貴重な有形民俗資料」とした。人形は、昭和2年(1927)3月、米国から日本の小学校や幼稚園に、1万2000体以上が贈られ、日米友好の証しとして歓迎された。だが、太平洋戦争が始まると殆んどが焼却されるなど、数奇な運命を辿った。

宇久井小では昭和47年(1972)頃、宿直室の押し入れから見つかった。以降、校長室に飾られている。高さ38・5cmで材質は頭部や腕がセルロイド、胴体は布製。頭髪の一部に損傷があるが比較的保存状態は良く、靴も当時のまま残っている。被服やスカーフは損傷が酷かったため、約10年前に新調されたという。

町教委によると、現在、全国で約300体が確認され、県内では同小の1体だけ。同校の川辺孝則校長は名刺に人形の写真を印刷するなど愛着を持つ。「人形の写真と由来を記したパネル3枚を作り、5、6年生の総合的学習で使っている。宇久井地区からは、嘗て米国に移住した人が多かった。人形が此処にあるのは縁を感じる。由緒ある品なので大切に保管したい」と話した。





posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代

| カテゴリ 中世

和歌山大が郷土学習用DVDを作成 豊臣秀吉の太田城水攻めが題材(産経新聞2009-05-12)

hideyodhi-no-otajo-mizuzeme.jpg

和歌山大学(和歌山市栄谷)の紀州経済史文化史研究所が学習教材用DVD『秀吉の太田城水攻め 中世の自治から近世の平和へ』を作成した。今春から県内の高校や同市内の小中学校に計約1000部を配布している。

DVDは、天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉太田城(現在の同市太田)を水攻めした際、構築した堤防(出水堤防)の遺跡調査結果に基づきコンピューターグラフィックスで当時の様子を再現。武装集団が自治していた中世の和歌山が秀吉天下統一による支配へ移行する流れが約30分間で解説され、同研究所の海津一朗副所長は「郷土の歴史や文化を学ぶ教材としてだけでなく、和歌山の観光プロモーションにも役立てたい」と話している。

鑑賞した同大学の女子学生は「DVDなどの視聴覚教材はイメージが沸き、分かり易いと思う」と話していた。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→「秀吉の太田城水攻め 中世の自治から近世の平和へ」(和歌山大学紀州経済史文化史研究所/DVD)



※(関連)→学習教材用DVD:秀吉の太田城の水攻め、CG映像で再現 作製し配布/和歌山(毎日新聞2009-05-14)


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

| カテゴリ 古代

鑑真和上、目が見えた?―失明は渡来の6年後か(奈良新聞2009-05-11)

『東征伝絵巻』に描かれた渡来時の鑑真和上(中央)。目は開いている

国内に正しい戒律を伝え、唐招提寺を開いた鑑真和上盲目とする定説について、奈良国立博物館の西山厚・学芸部長が「渡来した時は見えていた」との見解を、同館で開催中の「国宝鑑真和上展」で披露した。展示物に和上の姿を追った。

和上の姿を伝える資料で最もよく知られているのが国宝「鑑真和上坐像」。亡くなる直前に弟子たちが制作した像で、禅定印を組んで瞑想する姿だ。

目は固く閉じられているが、渡来から入寂まで10年近くあり、到着時の様子と同じとは言えない。

一方、鎌倉時代の伝記絵『東征伝絵巻』には、目をはっきり開いた鑑真和上が描かれている。難破して洋上に漂う姿は勿論、渡来後の描写にも不自由さは感じられない。

失明を記した『唐大和上東征伝』(奈良時代)について、西山部長は「文学的要素が多く、100%事実か考える必要がある」と話す。

注目するのが正倉院に伝わる『鑑真奉請経巻状』(今回は出展なし)。渡来の年、東大寺良弁ろうべん僧正に経典の借用を申し入れた書状で署名がある。

西山部長は(1)弟子の代筆(2)見えないが書けた(3)目が見えていた―の3つで可能性を検討した。

(1)の場合、署名が行書の続け書きで日付の方が大きく「鑑真の署名に何の思いも入っていない。カリスマ的指導者の名前をこれ程軽やかに書けない」と話す。

(2)は、「部」の最終角の長さが余白に応じて異なり、4行目の「部」は一旦筆を上げて書き直している。見えなければ困難な書き方で、可能性はないという。

華厳経を「厳経」と略した事など、何れも「目が見えていた鑑真和上の自筆」と考えれば説明がつく。

「断定はできないが(1)や(2)に比べて可能性はずっと高い。目が次第に悪くなっていたのは本当だと思うが、完全に失明したのは渡来から6年後、僧綱そうごうの任を解かれた頃ではないか」と話している。



posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代

| カテゴリ 近世

歌碑:生麦事件伝える碑 資金提供の薩摩藩士子孫ら除幕―横浜・参考館(毎日新聞2009-05-11)

幕末の開国直後に起きた生麦事件(文久2年=1862)の資料を展示する横浜市鶴見区生麦の私設資料館「生麦事件参考館」で10日、事件を詠んだ漢詩の歌碑除幕式があった。

◇山階宮晃親王が詠んだ七言絶句

歌碑同館の中庭に建ち、小松石で縦約60cm、横約20cm。「薩州老将髪衝冠」で始まる七言絶句が刻まれている。山階宮晃親王明治初期に「老将」(=島津久光の事件を回顧し、詠んだ。

歌碑の資金を提供したのは薩摩藩士の子孫、有村國宏さん=滋賀県愛荘町=で、妻章子さんと駆け付け、除幕した。有村さんは「開港150周年の記念の年にでき、歴史のあやを感じている」と喜んだ。

式には薩摩藩の子孫、海江田忠義さん=東京都=ら約30人が出席。「鶴見歴史の会」の会員が、漢詩を詩吟で披露した。

15年前から資料集めを続ける同館の浅海武夫館長は「久光の伝記を読み、山階宮漢詩を知った。3年前、横浜外人墓地にある犠牲となった英国人の墓を補修した時、有村さんから寄付を頂き、歌碑として事件を後生に伝える事を思いついた」と話す。


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近世

| カテゴリ 近現代

姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)

震災当時には避難所となった五村別院

◇湖南・草津市 琵琶湖博物館でギャラリー展示中

県立琵琶湖博物館(草津市)では6月7日まで、ギャラリー展示「100年前の大地震〜姉川地震に学ぶその備え〜」を開催している。

平成21年(2009)は、姉川地震(明治42年=1909)の発生から100年目にあたり、その間、近畿では大規模な地震があったが、滋賀県を中心とする大規模な地震は発生していない。姉川地震から100年という節目の今年、滋賀県の防災への備えを考える機会として開催するもの。

この展示では、100年前に発生した姉川地震について、当時の災害記録写真を展示解説するほか、防災シェルターや資機材等も展示し、また、日本の地震がどうやって起きているかなどの自然科学的な解説と、現在の地震防災の取り組みを紹介している。

尚、関連イベントとしてGW中に、起震車「グラグラ号」による地震の揺れ体験や防災ヘリコプター「淡海」による救助訓練が行われた。



※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代

| カテゴリ 近現代

100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)

姉川地震当時の被害を紹介した写真パネル

100年前に県内で起きた姉川地震を振り返る資料展が、草津市の県立琵琶湖博物館で開かれている。来月7日まで。無料。

姉川地震は明治42年(1909)8月、県北部を中心に発生した。震度6に当たる「烈震」と呼ばれる強い揺れを観測し、県内で41人が死亡、約3500の家屋が倒壊した。

発生から100年の節目に同館が企画。現在の長浜市や虎姫町で収めた被災当時の写真や、調査報告書に記載がある被害状況などを約60点のパネルで紹介している。

屋根まで崩れ落ちた民家の写真は、被害の大きさを生々しく伝えている。現在の姿と一緒に展示された小学校や寺院の写真もあり、復旧に要した人々の苦労が垣間見える。

県内にある活断層を解説したパネルや被災時に不可欠な備蓄品の展示を通じて、備えの大切さを呼び掛けている。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代

| カテゴリ 近現代

村山実銅像:何処へ 尼崎産高統合、移転先決まらず(毎日新聞2009-05-10)

移転先が決まらない村山実さんの銅像

市立尼崎産業高の校門に立つ阪神タイガースの元エース故・村山実さんの銅像が、同校と市立尼崎東高との統合で移転せざるを得なくなり、関係者を悩ませている。同校は統合で校名や場所も変わるが、銅像を立てたOBらは「この場所でなければ意味がない」と譲らない。新設予定地から基準値を上回る鉛や砒素が検出されたため、統合は1年先延ばしされ平成23年(2011)春になった。同校は「猶予期間はあと2年。早く置き場を決めなければ」と頭を抱えている。

村山さんは同校の前身、住友工業高のOB。昭和34年(1959)に阪神に入団、通算222勝を挙げた。同校OBらが「偉大な先輩を学校の誇りにしてもらおう」と平成16年(2004)の七回忌に合わせ校門近くに建立した。「ザトペック投法」と呼ばれた投球フォームを再現した銅像は、市民にも親しまれている。

統合後の跡地利用は決まっておらず、OBらは「銅像村山さんがプレーしたこの場所に残したい」とするが、学校側は「OBの思いは尊重したいが、学校がなくなるので、銅像も何処かに移したい」と意見が合わない。

現役の野球部員らにとって村山さんは、「伝説の大スター」。山住豪志主将は「銅像に見守られているという心強さは大きい。尼崎産業高の名前が消える前に甲子園に行き、村山先輩を超えたい」と話していた。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→Mr.タイガース・村山実氏の銅像の落ち着き先が宙ぶらりん!

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代

| カテゴリ 近世

鉄門:“門”違いでした 「加納城を移築」実は大垣城―各務原(毎日新聞2009-05-10)

大垣城本丸の門と分かった鉄門

◇中山道鵜沼宿町屋館で公開中

加納城(岐阜市)の門と伝えられていた各務原市内の旧家のくろがねが、大垣城(大垣市)本丸の門である事が各務原市の調査で分かった。寄付を受けた同市が移築のために解体した際、土台の柱に大垣藩大工奉行などの名の墨書が見つかった。鉄門は、移築先の各務原市鵜沼西町の中山道鵜沼宿町屋館で公開されている。

各務原市蘇原野口町の安積輝夫さん宅に明治9年(1876)に払い下げられた鉄門で、「安積門」と呼ばれ、加納城の門を移築したとされてきた。昨年6月、安積さんが市に寄付し、市が解体修理をしたところ、墨書を見つけた。「四月十二日土台入れ」と書かれ、江戸末期の大垣藩大工奉行ら11人の名前もあった。鬼瓦には、大垣藩主・戸田家の紋「九曜紋」もあり、市は大垣城鉄門だったと断定した。

は、間口約5・7m、高さ約4・5m。切妻きりづまの瓦葺き屋根のかかる高麗門。明治3年(1870)の県の公売入札告示には、「鉄門 高一丈一尺、巾三間」とあり、規模がほぼ一致。火矢や敵の攻撃を防ぐために正面には短冊形の鉄板を隙間なく張り、軒下は白漆喰塗りで、厳重な防備の可能な構造。高麗門形式鉄門は、名古屋城本丸表二の門と、大坂城(注1)大手門(二の門)が現存する。


※注1 大坂城
「大坂城」は豊臣期の城郭及び徳川期の城郭を指す。明治期以降、大阪と改称されて以降の昭和期の城郭(天守閣)については「大阪城」天守閣と称す。


大垣城は、天文4年(1535)の築城とされ、空襲で焼失した後、現在の城が再建された。版籍奉還後の明治9年(1876)、天守を除く本丸部分が払い下げられた。



※(関連)→民家の門が大垣城鉄門(朝日新聞2009-05-09)
※(関連)→旧大垣城の鉄門を披露 鵜沼宿 各務原の医師寄贈(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→各務原の「安積門」は大垣城鉄門の可能性(岐阜新聞2009-05-09)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近世

| カテゴリ バリアフリー

手話(始まりへの旅)(読売新聞2009-05-10)

「手話」のルーツとなる「手勢」

◇京都から始まった

慈愛の精神 聾者導く

4本と2本の指先を合わせ、右手をくるっと半回転させながら下げていく。「季節」を表す手話だ。古都で誕生し、幾つもの季節を経て洗練された「視覚言語」の歴史は、或る教育者の存在なくして語れない。

新緑が眩しい。古都世界遺産の1つ、仁和寺の二王門を潜り、参拝客らで賑わう境内を抜けた。御室の山々が迫り、その麓に学舎が見える。

京都府立聾学校。京都市右京区に位置し、聴覚障害の子どもたち82人が通う。校庭で出会ったのは高等部2年生の生徒ら。手指を素早く動かし、顔の表情も使って、何やら談笑していた。手話だ―

「陸上部の練習について話しているようです」と、教務部長の丸山二郎さん。ここでは幼稚部から高等部まであって、手話は小学部から学ぶという。

聾者にとって欠かせない、そのコミュニケーションの手段が形成されたのは何時か。歴史を辿ると、この学校の前身「盲唖院」に行き着く。明治前期、日本で初めて誕生した聾学校だ―

手話を語る時、先ず、記さねばならない名前がある。古河太四郎。幕末の弘化2年(1845)、京の西陣辺りで生まれ、近代障害児教育の先覚者」とされている。

700人近い生徒を抱える寺子屋が生家とあって、幼少から文武に親しみ、明治維新後、自らも読み書きを指導した。折しも、東京奠都で停滞感が漂う街を人材育成で活性化するため、明治2年(1869)、64の小学校が設けられ、古河も、その教師に就いた。

事件が起きたのは、その翌年の事。水不足に悩む農民らのため池開発を支援して国の許可書を偽造し、投獄された。或る日、獄舎の窓から、耳の不自由な2人の子が殴られ、からかわれているのを見た。障害者への過酷な差別があった時代。聾者は孤立し、意思伝達の手段も持ち得なかった。

獄中で、こう綴った―

盲唖もまた人なり…人に軽蔑且凌辱せらるるのことわりなし

教育の機会を与えないのは、過ち―そう考え、2年後に自由の身となって復職してから、生家に近い小学校で、あの2人を含む3人の障害児を教え始めた。地元の有力者の助力を得て、校内に専用の教室も造ったという。

耳の聞こえない生徒とどう意思疎通を図ったのだろう。「互談する所に注目し其意を酌み」と、古河は書いている。身振り手振りで「互談」する生徒らを観察し、手指や顔の動作1つひとつが何を示すか、探っていったらしい。

「魚の泳ぐ姿を真似た手の仕草が『魚』を表すとか、湯飲みの形にして口にもっていくのが『飲む』だとか、意味が通じる動作が徐々に増え、それを使って文字を教えていった」と、日本手話研究所の高田英一所長は言う。

動物、草木、衣服、色…様々な事物や事象を示す動作はやがて100を数え、古河手勢しゅせいと名付けて文法化に取り組んだ。国内での手話の原型だ。

未だ初歩の段階ながら、その手法は評判を呼んだ。明治天皇が明治10年(1877)6月に視察したのを機にして、親たちが障害児教育を求める運動を展開していく。古河も呼応して教育施設の拡充を訴え、遂に京都府が動いた。

東西両本願寺や有力者らから現在価値で5000万円以上の寄付も集まり、現在の中京区で盲唖院が開校されたのは翌11年(1878)年5月。聴覚障害の31人と視覚障害の17人が入学し、式典で初代院長の古河と生徒が手勢を披露した。獄舎の前で苛められていたあの2人だ。

当時の新聞から、熱気が伝わってくる―

「院中の人々驚き感服したり」
「此の開業は実に我国の美事と云ふべし」

古河は、動作を1つひとつ図示した『形象手勢』に加え、指で日本語の五十音を表す「指文字」も考案して『五十音手勢図』を作成し、教育に生かした。

院長を11年務めて退職し、明治40年(1907)、62歳で生涯を閉じたが、教え子らの交流が聾者の全国組織結成へ繋がり、手勢手話として発達していく。

孫の清明さんが語る。「祖父は晩年、大阪でも盲唖院の開校に関わりました。将に障害児教育に捧げた人生でした」

盲唖院は開校翌年の明治12年(1879)、京都府庁の南に移り、やがて聾学校となって戦後、御室に学舎を構えた。

手話は改良を重ね、古河が編み出した単語の多くは既に使われていない。「指文字」も、より分かり易い形式に取って代わられた。

高田さんらが編む手話辞典に収録された語の数は、最新版で8300余り。当初とは比べものにならないが、「ここまで洗練されたのも先生の功績があればこそ。我々の恩人です」と言う。

自らも8歳の時、病気で失聴し、府立聾学校で学び、そして手話研究の一線に立っている。視覚言語とも呼ばれる現在、尚残る古河の「言葉」が懐かしい。

手探りのふれあいの中から生まれた魚も、草も、山も

◇世界初はパリで

手指の形や動き、顔の表情などで意味を伝える手話は、1760年(宝暦10)、フランス・パリで世界初の聾学校を開設したド・レぺが考案し、教育に採り入れたのが始まりとされる。世界各国で、異なる手話が用いられているという。

厚生労働省の実態調査(平成18年=2006)によると、日本で身体障害者手帳を持つ聴覚障害者は約27万6000人で、うち約5万2000人が手話を日常的に使っている。


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | バリアフリー

| カテゴリ 中世

新田義貞に因み鏑矢祭 太田・生品神社(朝日新聞2009-05-10)

20090510a.jpg

太田市新田市野井町の生品いくしな神社で8日、鎌倉幕府を攻め滅ぼした武将・新田義貞に因んだ鏑矢かぶらやがあり、地元小学生が空に向かって一斉に矢を放った。

生品小学校の6年生男子64人が、約300人の観客を前に、先月から練習してきた成果を披露。「鶴翼」「魚鱗」の掛け声に合わせ、移動し陣形を構えた。

佐伯朋哉くんは「早く6年生になって参加したかったので嬉しかった」と話した。茂木晃さんは指導に携わって26年目。参加する子どもの数は、団地造成で当時から倍増したという。「地域にとっては嬉しいが、動きが揃う様指導するのは大変」と笑った。

祭り役員の松井静衛さんによると、祭りは元弘3年・正慶2年(1333)のこの日、義貞が同神社で倒幕の旗揚げをしたという伝承に因むという。



※(関連)→新田氏所縁の太田・生品神社で鏑矢祭(上毛新聞2009-05-09)
※(関連)→太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ(東京新聞2009-05-09)


 

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

| カテゴリ 中世

「慶長出羽合戦」知って マップと小冊子作製/上山市(河北新報2009-05-09)

上山が「天地人」所縁の地である事を紹介したマップ(右)と小冊子

NHK大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続山形城主最上義光が戦った慶長出羽合戦(長谷堂合戦)について知ってもらおうと、上山市は所縁の地の散策マップと、合戦で重要な役割を果たした高楯城(同市鶴脛町)を紹介した小冊子を作製した。

マップ『慶長出羽合戦 兼続と義光とかみのやま』はA3判で八つ折り。上山城を中心に、長谷堂城跡、激しい攻防が繰り広げられた事を示す首塚など8か所を紹介している。湯沢市指定有形文化財『長谷堂合戦図屏風』に描かれた兼続義光が表紙になっている。

小冊子『高楯城を尋ねて虚空蔵山を歩む』と言う題名で、同市在住の郷土史研究家蔦谷栄三氏が文章と絵を担当。上山城の前身で、慶長出羽合戦の時に最上軍の砦だった高楯城の歴史などを15ページにわたって綴っている。

マップは無料、小冊子は300円。何れもJRかみのやま温泉駅観光案内所などで取り扱っている。市観光課は「上山が歴史的に重要な場所だった事を、観光客は勿論、地元の人にも知って欲しい」と話す。



posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

| カテゴリ 古代

豪華絢爛御輿勇壮に 宇治神社・神幸祭(京都新聞2009-05-09)

約1kmの道程を練り歩いた宇治神社の「神幸祭」

京都府宇治市宇治の宇治神社で8日、春の例祭があり、御輿を約1km離れた御旅所へ運ぶ「神幸祭」が営まれた。観光客や地元住民らは、豪華絢爛に飾られた御輿に魅入っていた。

毎年5月8日にある神幸祭は、1番組から10番組までの氏子が順番で担当。今年は10番組の約30人が参加した。

宇治神社では、花房義久宮司が御神霊を御輿に納めた後、祝詞を読み上げた。氏子たちは台車に乗せた約1tの御輿を引いて神社を出発、狭い路地や宇治橋を「もっとゆっくり」など声を掛け合いながら、宇治橋通の御旅所まで練り歩いた。

御輿は御旅所に1か月間置かれ、来月8日の還幸祭宇治神社へ戻る。



※(関連)→煌びやか、御輿巡行 宇治神社 神幸祭(おいで)で祭神を御旅所へ(洛南タイムス2009-05-09)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代

| カテゴリ 古代

煌びやか、御輿巡行 宇治神社 神幸祭(おいで)で祭神を御旅所へ(洛南タイムス2009-05-09)

宇治神社=宇治市宇治山田=の祭礼「神幸祭」(おいで)が8日に執り行われ、煌びやかな御輿が宇治橋などを巡行した。

神幸祭は、同神社の祭神・菟道うじの稚郎子わきいらつこを御輿に祀り、御旅所=宇治壱番=まで運ぶ儀式。毎年、「宇治まつり」(還幸祭)(6月8日)の1か月前に行われる。

同神社に近い地区から順に1番〜10番(9番は欠)と数え、毎年交代で御輿巡行の担ぎ手となっている。今年は十番組奉賛会の約30人が担当した。

先ず午前に、神社後援会の桐原会や奉賛会の役員が莵道稚郎子命の墓がある宇治墓(宇治市菟道丸山)を参拝。御輿を組み立てた後、神事を執り行い、午後2時頃巡行をスタートさせた。

台車に載せた御輿を、奉賛会のメンバーは呼吸合わせながらゆっくり引っ張った。道程は神社から宇治橋、時計道路を経て御旅所まで。賑やかな様子に観光客などが珍しげに見物していた。御輿は還幸祭まで御旅所に安置しておく。



※(関連)→豪華絢爛御輿勇壮に 宇治神社・神幸祭(京都新聞2009-05-09)

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 古代

| カテゴリ 近世

横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)

◇県が全小学校などに配布へ

県は横浜開港150周年を記念し、ペルー船内で過酷に扱われた中国人の保護が国際問題化したマリア・ルス号事件(明治5年=1872)を題材にした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」を制作した。伝統文化の紙芝居を使い情報発信する「かながわ紙芝居プロジェクト」の一環で、1800部を作成。県内の全小学校のほか、図書館や市町村に配布する。

横浜港に停泊中のマリア・ルス号から同年6月、1人の中国人が海に飛び込み、救助された。船内で230人以上の中国人が苦境にあるとの訴えに、権令ごんれい(=副知事)の大江卓は全員を保護し、解決に乗り出した。奴隷制度が残る中、事件は国際仲裁裁判に発展したが、日本側の主張が認められた。裁判は国内の公娼廃止にも繋がったとされる。

大江の活躍は12枚の紙芝居で語られる。「タンキョー」は英語の「サンキュー」の意味で、開港当時の横浜で使われた。救助された中国人も紙芝居の中で、大江に「タンキョー」と感謝した。

県庁内の県政情報センターなどで販売もしている。1部446円。県ホームページ
からダウンロードもできる。松沢成文知事は「是非多くの県民にご活用頂きたい」と話している。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)
※(関連)→マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)
※(関連)→中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)
※(関連)→マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近世

| カテゴリ 近世

明治の知事の活躍紙芝居に 「マリア・ルス号事件」が題材(読売新聞2009-05-09)

県が「マリア・ルス号事件」をテーマに作製した紙芝居の表紙

明治時代初期に当時の県副知事が清国人奴隷の解放に力を尽くした「マリア・ルス号事件」をテーマにした紙芝居を県が作製し、販売を始めた。

事件は、明治5年(1872)、横浜港に寄港したペルー船籍「マリア・ルス号」に多くの清国人が奴隷として乗せられている事が分かり、当時の県副知事にあたる大江卓権令ごんれい(=副知事)が県庁内で臨時法廷を開き、裁判長として清国人の解放を決めた―との内容。紙芝居ではこの事件の内容をB4判12枚の絵と文章で分かり易く伝えている。県は、今年が横浜開港150周年でもあり、開港後の横浜の様子を知ってもらおうと作製した。

1800部作製し、県内の全小学校や図書館に配布したほか、県庁でも1部446円で販売している。県のホームページからもダウンロードできる。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参考)→「マリア・ルス号事件」を題材とした紙芝居「タンキョー マリア・ルス号ものがたり」について(神奈川県のサイトより)



※(関連)→横浜開港150周年:19世紀の外国人保護事件 マリア・ルス号、紙芝居に(毎日新聞2009-05-09)
※(関連)→マリア・ルス号事件 題材に県が紙芝居制作(朝日新聞2009-05-08)
※(関連)→中国人奴隷解放に尽力 「マリア・ルス号事件」が紙芝居に(産経新聞2009-05-07)
※(関連)→マリア・ルス号事件 紙芝居で知ってね(東京新聞2009-05-04)


posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 近世

| カテゴリ 中世

新田氏所縁の太田・生品神社で鏑矢祭(上毛新聞2009-05-09)

20090509jo.jpg

新田義貞鎌倉攻めの故事に因んだ鏑矢かぶらや祭」が8日、太田市新田市野井町の生品いくしな神社で行われ、生品小学校6年生の男子児童64人が、雨雲を吹き飛ばす勢いで勇ましく矢を放った=写真。

元弘3年・正慶2年(1333)5月8日、義貞が同神社で倒幕の旗揚げをした際、鎌倉方向へ向け矢を放ち、戦の吉凶を占ったと云う。

児童は、新田氏大中黒おおなかぐろの紋入り鉢巻きに黒袴の凛々しい姿で登場。祭式師の茂木晃さんの号令に合わせ、「魚鱗」「鶴翼」のそれぞれの構えで南西へ向け一斉に弓を引いた。



※(関連)→新田義貞に因み鏑矢祭 太田・生品神社(朝日新聞2009-05-10)
※(関連)→太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ(東京新聞2009-05-09)


 

posted by 御堂 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中世

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。