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企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)

◇「写真や報告書」「メカニズム」「防災グッズ紹介」の3部構成、揺れ体験や救助訓練も―6月7日まで

県北部を震源に多数の死者を出した姉川地震(明治42年=1909)を振り返る企画展示「100年前の大震災・姉川地震に学ぶその備え」が、県立琵琶湖博物館(草津市下物町)で始まった。6月7日まで、無料。

姉川地震は、虎姫町付近を震源に震度6程度の揺れが起き、県内をはじめ岐阜県にも被害が及んだ。展示は、

・当時の写真や報告書などによる被害の説明
・地震のメカニズムの解説
・緊急時に使う浄水器などの防災グッズの紹介

の3部で構成されている。

29日から5月6日までのゴールデンウイーク期間中は、同博物館駐車場に起震車「グラグラ号」が訪れ、地震の揺れ体験もできる。また29日には県の防災ヘリ「淡海」による救助訓練も行われる。

月曜定休(月曜が祝日の場合は開館)。午前9時半〜午後5時。問い合わせは同博物館へ。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

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姉川地震、防災学ぼう 発生から100年 琵琶博で企画展(京都新聞2009-04-26)

姉川地震の災害記録写真に魅入る来館者たち

草津市の琵琶湖博物館で25日、明治42年(1909)に県北部の姉川付近で発生した姉川地震や、地震防災の取り組みを紹介する「100年前の大地震―姉川地震に学ぶその備え」が始まった。

地震の発生から100年となる事から、防災意識を高めてもらおうと、同館と県が企画した。姉川地震では、地震の規模を示すマグニチュードは6・8で、岐阜県を含め41人が死亡、約2400戸が全半壊した。

倒壊した民家や寺社の様子を撮った災害記録写真や地震の調査報告書、地震の起きる仕組みなどを解説したパネル約130点を展示しているほか、耐震シェルターや浄水装置など防災グッズも出品している。6月7日まで。無料。



※(関連)→姉川地震に学べ!!(滋賀報知新聞2009-05-10)
※(関連)→100年前の「姉川地震」振り返る 琵琶湖博物館で資料展(中日新聞2009-05-10)
※(関連)→企画展:姉川地震を振り返る 地震を知って震災に備える―県立琵琶湖博物館(毎日新聞2009-04-28)

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福島正則の若き日の姿見つかる 清洲城主務めた戦国武将(中日新聞2009-04-26)

新たに見つかった福島正則の肖像画

戦国武将福島正則肖像画が、古里の美和町内の旧家から見つかった。福島家江戸初期に御家断絶となった影響から、現存する肖像画は少なく、これまで全国で3点しか見つかっていない。5月1日から町歴史民俗資料館で始まる「郷土の戦国武将展」で初公開される。

正則は、幼少から豊臣秀吉に仕え、清洲城主広島城主を務めたが、元和5年(1619)に城の石垣を幕府の許可なく直した罪で信州川中島に減封。その後、御家断絶となった。

見つかった肖像画は甲冑姿。胴には、福島家の家紋である桐が描かれ、鹿の角を付けた兜を被っており、関ヶ原の合戦で東軍先鋒を務めた荒々しさが表現されている。

調査した鎌倉崇志学芸員によると、画材などから幕末から明治期に描かれたとみられ、若々しい表情が特徴。床几しょうぎに腰掛けた姿などから、菩提寺である同町二ッ寺の菊泉院に残る肖像画を模写した可能性があるという。

鎌倉学芸員は「戦国武将肖像画が今になって見つかるのは珍しい」と話す。郷土の戦国武将展は6月末まで。5月3日〜7日は休館。入場無料。
※(参照)→吉田城石垣の刻印末裔が確認(東海日日新聞2007-06-03)
※(参照)→福島正則の検地帳を初公開(中国新聞2007-03-16)


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吉田松陰:「下田密航」米艦日誌に記載 事件の時間経過詳細に―関大教授発見(毎日新聞 2009-04-25)

◇「回顧録と矛盾なし」、今日155年

幕末の思想家、吉田松陰が嘉永7年(1854)、静岡・下田沖に停泊していたペリー提督黒船に乗り外国へ密航しようとした事件の詳しい時間経過が、陶徳民・関西大学教授が米国立公文書館で発見した資料から分かった。松陰が事件の7か月後に著した回顧録『三月廿七記』の記述と矛盾がなく、その現代的な時間感覚が浮かぶ。この「下田密航」から25日で155年。

記録が見つかったのはペリー提督が率いる艦隊の旗艦、ポウハタン号の航海日誌で、記載責任者はマクルーニー艦長1854年4月25日の欄「(午前)2時45分、2人の日本人が小さいボートで乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らのボートが漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された」と書かれていた。「2人の日本人」は、松陰と従者の金子重之助しげのすけを指す。

事件はぺリーが再来航し、日米和親条約の締結後に起きた。2人はポウハタン号より前にミシシッピ号へ乗艦を試みた。公式記録『ペリー艦隊日本遠征記』は、それを「午前2時頃」と記す。

今回の資料を合わせて陶教授は、松陰らは25日午前2時頃ミシシッピ号に辿り着き、2時45分頃ポウハタン号に乗艦、約45分滞留し、3時半頃送還へ―と結論付けた。2人はその後自首し獄に繋がれた。

陶教授は「事件の貴重なデータであり、松陰の厳格な時間観念と驚異的記憶力も裏付けられる」と話している。

◇梅渓昇・大阪大学名誉教授の話

松陰が時間を大事にする事で時代を正しく認識していたのは重要だ。後の岩倉使節団などに繋がる日本近代化の先駆けとなった松陰の向学心を知ってもらいたい。

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「照姫行列」で戦国絵巻再現 石神井公園で26日「まつり」(東京新聞2009-04-23)

照姫に選ばれた阿部友紀さん

室町時代の武将・豊島としま泰経やすつねの愛娘・照姫を偲んで行われる「照姫まつり」が26日、都立石神井しゃくじい公園(練馬区石神井台)などで行われる。最大の見処の「照姫行列」では、煌びやかな衣装の照姫や勇ましい武者に扮した約100人が練り歩き、戦国絵巻が繰り広げられる。

公開オーディションで選ばれたのは、照姫役に私立高2年生の阿部友紀さん、泰経役に会社員の田中穣さん、奥方役に幼児教室講師の伊藤澄子さん。

石神井城の城主だった泰経は、太田道灌に攻め込まれ、現在の石神井公園にある三宝寺池に飛び込み命を絶ち、照姫も後を追ったとされる。

照姫行列は同日正午に同公園内で出陣式を行い、西武池袋線・石神井公園駅などを回る。詳しくは、同まつり実行委へ。



※(参照)→悲劇の『照姫伝説』映す池 石神井公園(東京都練馬区)(憩いの名園)(東京新聞2009-05-02)
※(関連)→艶やか照姫行列 練馬(東京新聞2007-05-14)

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非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養(読売新聞2009-04-23)

供養塔の前で手を合わせる宇都宮富男さん(手前左)ら

◇「鶴姫」供養塔劣化進み移設

16世紀、豊前国の一部を治めた豪族・宇都宮鎮房の娘、鶴姫供養祭が命日の22日、吉富町小犬丸の宇賀貴船神社で営まれた。町指定文化財の供養塔(高さ約2・5m)の移設記念で、末孫や町民ら約50人が、非業の死を遂げた姫に思いを馳せた。

鶴姫は、豊臣秀吉の命で同国6郡の領主となった黒田孝高と、宇都宮氏の和議の証しとして、人質となった。しかし、天正17年(1589)4月22日、侍女ら13人と共に、廣津村(現在の吉富町広津)の千本松原ではりつけにされたという。江戸時代の19世紀になり、中津藩主奥平昌高が、姫の崇りを恐れて現地に供養塔を建立。その後、移設を繰り返す中で、野晒しのまま亀裂が入るなどし劣化が進んでいた。

このため、郷土史愛好家らで創る「吉富歴史文化の会」が、姫を祭神として祀る神社の傍らに移設して、保護しようと約10年前から計画。地元住民から土地の提供を受けるなどして実現し、風雨除けの上屋を設置した。

420回忌にあたる供養祭では、宇都宮氏の菩提寺の天徳寺(築上町本庄)の住職による読経が流れる中、参列者一人ひとりが、手を合わせ焼香した。

姫の末孫にあたる宇都宮富男さん=小倉南区平尾台ニ=は、妻の和子さんと参列し、「供養してもらって有り難い。先祖が浮かばれます」と感慨深げ。同会の太田栄会長は「地元住民でも(姫の)悲運を知らない人が多いので、石碑を大事に後世に残していきたい」と話していた。

※(参考)→豊前の名将 城井鎮房」(西南にっぽん歴史考)『読売新聞・九州発』
※(関連)→悲劇の姫君 鶴姫の供養祭 福岡・吉富町(西日本新聞2009-04-23)
※(関連)→「町民に知って欲しい」悲劇の鶴姫、22日420回忌/吉富町(西日本新聞2009-04-22)

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悲劇の姫君 鶴姫の供養祭 福岡・吉富町(西日本新聞2009-04-23)

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戦国時代の豊前(福岡県)で勢力があった豪族宇都宮氏の息女で、謀殺され、悲劇の姫君と伝えられる鶴姫供養祭が22日、所縁の福岡県吉富町の宇賀貴船神社であった。地元の文化団体が没後420年を記念し初開催した。

団体によると、天正15年(1587)に豊前の領主となった黒田孝高が同17年(1589)、中津城(大分県)で鶴姫の父鎮房を暗殺。人質だった14歳の鶴姫はりつけにした。その後、藩で領内で(注1)騒動が起こる度「鶴姫の祟り」と恐れられた。

注1 藩で
→○○藩という呼び方はあくまで江戸幕府が成立して以降の名称なので、この時期(=豊臣政権期)には存在しない。


戦後忘れ去られた地域の歴史に光を当てた供養祭。招かれた宇都宮氏の末裔の宇都宮富男さん=北九州市=は「鶴姫急度きっと、地元の祟り神から守り神になってくれるはず」と話した。

※(参考)→豊前の名将 城井鎮房」(西南にっぽん歴史考)『読売新聞・九州発』
※(関連)→非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養(読売新聞2009-04-23)
※(関連)→「町民に知って欲しい」悲劇の鶴姫、22日420回忌/吉富町(西日本新聞2009-04-22)

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「町民に知って欲しい」悲劇の鶴姫、22日420回忌/吉富町(西日本新聞2009-04-22)

鶴姫の遺体が眠るとされる石祠を指す太田栄会長。左後方は鶴姫の追善供養塔

中津藩主城主(注1)黒田孝高の謀略により、父親で豊前の豪族宇都宮鎮房と共に殺害された鶴姫420回忌にあたる22日、吉富町小犬丸にある宇賀貴船神社供養祭が営まれる。吉富歴史文化の会の呼び掛けで実現した。宇都宮氏の菩提寺である築上町本庄、天徳寺の溝口浩久住職が読経する。

注1 藩主
→○○藩という呼び方はあくまで江戸幕府が成立して以降の名称なので、この時期(=豊臣政権期)に「藩主」は存在しない。


天正15年(1587)、豊臣秀吉の命により豊前6郡の領主となった黒田孝高は、頑強に抵抗する宇都宮勢にてこずり、鶴姫らを人質に和議を結んだ。同17年(1589)4月20日、中津城に、鶴姫の父鎮房を招き謀殺。22日には、14歳の鶴姫はりつけにしたと伝えられている。

その後中津藩では、領主が変わっても、騒動が起こる度に「鶴姫の祟り」と云われるようになった。追善供養塔や宇賀神社(現・宇賀貴船神社)を建立し、地元の人は神社に鶴姫の石祠を造ったという。

吉富歴史文化の会は、町内で別々の場所にあった供養塔と石祠を一緒に祀る事を計画。昨年9月、神社の横に供養塔を移設・安置した。同会の太田栄会長は「供養祭を契機に、町民に広く鶴姫の悲劇を知ってもらいたい」と話している。

※(参考)→豊前の名将 城井鎮房」(西南にっぽん歴史考)『読売新聞・九州発』
※(関連)→非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養(読売新聞2009-04-23)
※(関連)→悲劇の姫君 鶴姫の供養祭 福岡・吉富町(西日本新聞2009-04-23)

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武雄領の戦い辿る「戊辰戦争140年」発行(佐賀新聞2009-04-15)

図録『戊辰戦争140年 武雄軍団秋田を駆ける』の表紙

◇秋田出陣の軌跡―最新西洋砲で存在感

武雄市図書館・歴史資料館図録『戊辰戦争140年 武雄軍団秋田を駆ける』を発行した。佐賀藩陪臣(家臣)領だったにも拘らず、明治新政府から異例の出兵命令を受けて戊辰戦争に出陣した武雄領の人々の戦いを辿っている。

同館の図録としては12冊目の刊行。戊辰戦争から140年の節目に合わせて編集した。

約1000人の軍団は武雄領主鍋島茂昌しげはるを筆頭に、慶応4年(1868)7月初めに出発。31藩からなる奥羽越列藩同盟新政府軍が激戦を展開していた東北に向かい、秋田戦線に投入された。4門のアームストロング砲など最新装備を持つ軍団は9月下旬まで転戦。戦病死者が14人出たほか、多数の負傷者を抱えて帰還した。

図録武雄鍋島家に伝わった関係資料はじめ、秋田県内に残る資料など計106点をカラー写真で紹介。付録として、公式記録といえる『茂昌公羽州御陣中記』(武雄鍋島家資料・武雄市所蔵)を翻刻した。

命令書や激戦の記録、戦地で使われた銃や備品などを並べ、軌跡を追っている。『茂昌公関東御出張被蒙朝命候御書付写』新政府が10代佐賀藩主鍋島直正に対し、武雄領主らの出兵を命じた文書。武雄領での「長年の西洋砲術研究が評価され、関東への出兵が命じられた事が分かる」と説明している。

秋田での戦いが終結した後、軍団は東京に暫く滞在した。この経緯については、新政府の軍務副知事・大村益次郎の書簡を紹介。「優秀な洋式装備を有する武雄軍団の羽州戦線における活躍振りは、新政府当局の注目を集め、政府護衛軍として東京に引き留めておこうという意見が出、軍団の帰国は延期されていたのである」と解説している。佐賀藩戊辰戦争を通じて存在感を高めていった事を示す資料ともいえそうだ。

この他「錦の御旗」鍋島茂昌が天皇から拝領した軍扇や杯なども―

解説で武雄市図書館・歴史資料館の川副義敦副館長は武雄鍋島家資料の中に数多くの「羽州戦争」関係資料がある事を示し、「この資料の膨大さが、羽州出兵の事実と共に、決して忘れる事を許さない歴史の重さを如実に物語っている」と記している。

A4判、101ページ、1000円。武雄市図書館・歴史資料館で販売。

― ◇ ◇ ◇ ―

※(参照)→『武雄軍団秋田を駆ける』販売について(武雄市図書館・歴史資料館のサイトより)


※(関連)→○『武雄軍団秋田を駆ける』 市図書館・歴史資料館が図録刊行 戊辰戦争での活躍記す(西日本新聞2009-05-18)

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「治水の神」成富兵庫の水利事業を学ぶ…佐賀で学習会(読売新聞2009-04-12)

佐賀の水環境を考える市民団体「森と海を結ぶ会」は11日、佐賀藩家老で「治水の神」と呼ばれた成富なりどみ兵庫茂安の水利事業や功績などにスポットを当てた学習会を始めた。

同会によると、成富兵庫が築いたとされる治水・水利施設石井樋いしいび(佐賀市大和町)など県内に26か所残っているという。こうした施設の世界遺産登録を目指し、同会は昨年12月、佐賀市で講演会を実施。目標の実現に向けて今年は、計5回の学習会を開く予定にしている。

同市のアバンセで開かれた第1回の学習会には、約70人が参加した。さが水ものがたり館の金子信二館長が講師を務め、成富兵庫が手掛けた治水・水利事業を紹介。参加者たちは、当時の技術が現在の河川で、どのように役立っているかなどを学んだ。

同会の半田駿会長は「成富兵庫の水利事業には、現代にも通じる自然との共生がある。300年以上も前から、そうした事に取り組んだ功績は、今後の水利を考える上でも役立つ。是非世界遺産に登録したい」と話している。学習会の問い合わせは同会事務局へ。


※(関連)→学習会:成富兵庫の水利事業を再評価 世界遺産運動展開へ―佐賀で明日(毎日新聞2009-04-10)
※(関連)→水の力逆らわず生かす 佐賀テクノロジー考(朝日新聞2009-01-05)
※(関連)→成富兵庫の功績辿る 田中さんが新著(佐賀新聞2008-12-03)

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学習会:成富兵庫の水利事業を再評価 世界遺産運動展開へ―佐賀で明日(毎日新聞2009-04-10)

◇さが水ものがたり館長講演

江戸時代初期の鍋島藩家老・成富なりどみ兵庫茂安の水利事業を再評価し、残された施設を世界遺産にしようと呼び掛けるグループの学習会が11日、佐賀市で開かれる。学習会は今年5回開く予定で、今回が1回目となる。成富兵庫の業績を紹介する施設「さが水ものがたり館」(佐賀市大和町)の金子信二館長の講演などがある。

主催は佐賀市の水環境問題に取り組む市民グループ「森と海を結ぶ会」。同会は昨年12月、他の団体や佐賀大学などと共に講演会を開き、成富兵庫の業績の世界遺産化運動を始めた。学習会は「成富兵庫の仕事は複雑で、きちんと知る事が必要だ」とする声に応えるため開催する。

同会などによると、成富兵庫が行った水利事業は現在、26か所残っているという。自然に逆らわず“共生”した形の治水事業で、環境への配慮がより必要になるこれからの時代の先取りとしても世界遺産に相応しいと評価している。

学習会は11日午後1時半〜4時、佐賀市天神の生涯学習センター「アバンセ」4階会議室。参加費無料。問い合わせは同会事務局へ。<


※(関連)→「治水の神」成富兵庫の水利事業を学ぶ…佐賀で学習会(読売新聞2009-04-12)
※(関連)→水の力逆らわず生かす 佐賀テクノロジー考(朝日新聞2009-01-05)
※(関連)→成富兵庫の功績辿る 田中さんが新著(佐賀新聞2008-12-03)

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志津摩桜まつり:小倉藩名家老に因み 苅田で今日まで(毎日新聞2009-04-05)

幕末小倉藩家老、島村志津摩しづまが晩年を過ごした苅田町二崎の二崎山で3日、山桜を楽しむ「志津摩桜まつり」が始まり、夜神楽が上演された。まつりは5日まで続く。

小倉織や養蚕を奨励する藩政改革を進めた名家老、島村の顕彰を地域おこしに繋げようと、地元住民と町が初めて企画した。午後6時過ぎ、篝火かがりびに点火して、同町に伝わる南原神楽が始まると、桜も照らし出されて幻想的な雰囲気に。

5日は午前10時〜午後6時、二崎の農産物や漬物などの加工品を販売し、同6時半〜8時半、ライトアップされた夜桜が楽しめる。


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山吹御前の悲運偲び初法要 JR大津駅前(京都新聞2009-04-05)

山吹御前の悲運を語る旭堂小二三さんの講談に聞き入る人たち

平安時代末期の武将で、粟津の戦い(大津市)で討ち死にした木曽義仲の側室、山吹御前の法要が4日、大津市のJR大津駅前広場で営まれた。講談も披露され、集まった人たちは湖国の歴史に思いを馳せていた。

法要は、同市長等二丁目の泉福寺の竺文彦住職や大津駅前商店街の有志らが初めて開いた。竺住職らが読経した後、大阪府枚方市の女流講談師旭堂小二三さんが、歌舞伎や浄瑠璃で有名な『ひらかな盛衰記 山吹御前』を講談で披露した。

旭堂さんは、義仲を慕い、京から逢坂山を越えて東海道の大津宿に至ったものの、追っ手に追われ亡くなった山吹御前の悲運を切々と語り、通行人らが思わず足を止めて聞き入っていた。

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名家老所縁の桜…苅田・二崎 明日から志津摩桜まつり(読売新聞2009-04-02)

小倉藩家老として勇名を馳せた島村志津摩しづまが、晩年を過ごした苅田町二崎で3〜5日、「志津摩桜まつり」が開催される。期間中は、推定樹齢200年の桜が楽しめ、町特産品の販売会も行われる。

島村は、20歳で筆頭家老となり、藩政の大改革をした人物。幕末第二次長州征伐では藩の第一軍将として活躍し、敵方から「小倉藩に島村あり」と恐れられる程の勇将だったという。廃藩置県の後に一線を退き、44歳で亡くなるまで、馴染みのあった苅田町二崎で過ごした。

同町は、名家老が過ごした場所として二崎地区をアピールし、地域興しに繋げたい考えで、これまでは島村に関する講演会を開いている。

今回は、島村が暮らした屋敷近くにある桜をメーンに、同町の南原神楽の公演、紫芋の焼酎や松会漬けといった特産品の販売会を予定している。

桜は現在、七分咲きで、午後6〜8時はライトアップされる。問い合わせは、同町農政課へ。



※(関連)幕末の知将・島村志津摩を顕彰 3日から初の桜まつり ライトアップや神楽公演 苅田町(西日本新聞2009-04-01)


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幕末の知将・島村志津摩を顕彰 3日から初の桜まつり ライトアップや神楽公演 苅田町(西日本新聞2009-04-01)

慶応2年(1866)の第二次長州戦争長州藩の攻勢から小倉藩を救った知将島村志津摩しづまを顕彰し、地域おこしを目指す初の「志津摩桜まつり」が3日から、苅田町二崎の天神池周辺で開かれる。地元の二崎島村志津摩顕彰会と二崎志津摩桜保存会主催、5日まで。

志津摩桜は、志津摩の屋敷跡といわれる天神池近くに立つ山桜。1日午後6時からライトアップする。3日午前10時には餅搗きをして無料配布。午後6時に篝火の中で南原神楽(苅田町)公演がある。

二崎地区の環境保全に取り組む「鯉クラブ」代表の田渕力三郎さんは、桜周辺の雑木を切り開いて広場や道を造り、休憩所も設けた。二崎の高齢者による「天神クラブ」は棚田を整備した。

田渕さんは「志津摩邸跡を生かし地域の活性化を図りたい。天神池には多くの鷺が巣を作り、山並みも見える。自然を壊さず遊歩道などを整備したい」と話す。

島村志津摩を30年以上研究する元行橋市教育長の白石壽さんによると、志津摩は20歳で家老職に就任。第二次長州戦争で農兵隊を率いて長州藩の進撃を食い止めた。武士や農民に慕われ、敵将山県狂介(有朋)も「小倉藩に島村あり」と称賛。二崎の屋敷に隠棲し、44歳で亡くなった。


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